2-11:「LOOK AT ME Ⅱ」

救世チアキからの通信を受け、路地裏に回り込む。

ビルの影は黒く、路地裏は一部を除いて、谷底のように暗く、先が見えない。

霈はホルダーのベルトを外し、刀の柄を握る。

どんなことが起きてもおかしくない──、そういう昏さだ。


槃田は唾を飲む。

繁華街は人が増え、ガヤガヤと話し声がするのに、

路地裏一帯はシン、と静まり返って、切り離されているように感じる。

ドクン、ドクン、と厭に急く鼓動ばかりが耳の中に響く。

霈が何も言わないのは、この先の展開を理解しているからか、緊張なのか、それとも何もいう必要がないと思っているからなのか。

元からの性格かもしれない、と槃田が思いかけた時、

暗闇の向こう側から、微かに音がしたような気がした。


足音と話し声──、来た。


霈にも分かったらしく、彼女はすでに前に出ている。槃田は、邪魔にならなそうな物陰に身を寄せ、モモコ達に対象の発見を告げる。


「こちら、槃田、刃渡。目標を発見。保護を開始します。」

『了解。』

インカム越しにサイレンの音と少女の金切り声が聞こえる。

きっと向こうの用事は済んだのだろう。

であれば、あとは此方だけ、というわけだ。



「抜刀許可も。」

「早っ、あ、はい、刃渡霈警備官の抜刀許可します。」

『霈さん、あくまでも刀は最終手段ということを忘れないでくださいね。』


霈は返さなかった。

あくまで、柄から手を離さず、いつでも刃を抜けるようにしておく。

何故なら相手はヴェノムで、3体いて、自分は槃田を守りながら彼らを"保護"しなければならないから。

それは殺してしまうより難しいからだ。

暗がりに赤い瞳が6つ並ぶ。

影の中から影が3つ、這い出してくる。

まさに彼らは都市の暗がりなのだ。


「仲間いたのかよ!ウゼェ〜」

「まあでも2人だし、片方は女だし。」

「お姉さん、美人だね。俺らと遊んでくれんの?」

ヘラヘラと笑いながらも、その後ろには興奮や苛立ち、ともすれば殺気が滲んでいた。

日がすっかり落ち、ヴェノムの好む暗さに包まれた路地裏で、

自分達が有利だと考えるのは普通かもしれない。それが星やチアキのような新人や、経験が浅い職員なら、そうかもしれない。

だが、刃渡霈は現場に出て10年になる、維局の特殊警備官としては長いキャリアを持つ職員で、さらにクルースニクだ。

勝機は十二分にあった。



 「止まって。手を挙げて、

地面に足をつきなさい。今から君たちを"保護"します。従わない場合は、」

言い終わる前に、霈が後ろへ跳ぶ。

先制攻撃を受けたのだ。

ヴェノム特有の、異様に尖った爪の先が衣服に当たりかけた。踏ん張った靴の底から砂埃が舞って、ビルの隙間から漏れる光を反射して、チラチラ、と光った。


「従わない場合はぁ???殺しちゃいまーす!!ってコトかぁ?!」

「じゃあ俺達が先に殺しまーす!」

「ギャハハ!!」

気立しい笑い事と共に、3体が霈を囲む。

槃田ははなから戦力とは見做されていないようだ。

まあ認識の通り、戦力にはならないのだが。


3体のヴェノムはニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら距離を詰めようとしてくる。

一撃、また一撃、横殴りの爪の鋭さが裂くのは空気ばかりで、霈本人には当たらない。


一体が跳ねて、

人間とは違う膝の使い方で、バネのように、

そして霈の顔面を目掛けて、蹴り上げようとする。霈は一歩下がり、僅かに頭を倒して避ける。眼前を掠めた風が、髪を揺らす。

そのまま体制を立て直す。

まだ刀は抜かない。


すぐ次の一撃。横殴りの爪。

霈は腰を落とし、滑るように身を沈める。

膝から足先までが一本の線になり、影のように地を舐めて躱す。


「ちょこまか逃げてんじゃねェッッッ!」

男の苛立った声。

だが彼らは気づいていない。

霈は“逃げて”いるのではない。

──間合いを測っているだけだ。

三人の爪が重ならない角度。

槃田に飛び火しない位置。

路地裏の光源、地面の凹凸、相手の癖。

そのすべてを、霈は呼吸の間に詰めていく。


左から一人が突っ込んだ。

霈は引く。

背中に建物のコンクリートの冷たさを感じる。

男の拳がめり込んだ壁が、ミシ、と小さく音立てる。

霈の顔から10cmも離れていない。

男の顔が近づく。

熱い吐息が頬にかかって不快だ。

ニヤリ、と笑ったときに見える鋭い犬歯は、首元を狙っているのだろうか──。


逃げ場は、ない。

──いや、逃げることなど最初から必要としていない。


突っ込んできたヴェノムの肩口が目前に迫ったその刹那、

霈の足元でコンクリがひとつ、ぱきりと鳴った。

膝を折り、思い切り重心を沈める。


刀の柄を下に振り下ろす。

刀の上下が反転して、鞘が、弧を描くように、

刃ではない、それでも十分以上の威力があった──、

男の顎下にめり込む。


ガッ、と鈍い衝撃音。

ヴェノムの膝裏が跳ね上がり、身体が支えを失う。

下からの衝撃が脳天まで響き、目の前が白く弾けて、浮いた。


「ッが、──あ!?」

よろめいた瞬間、霈のもう片方の手が相手の胸倉を掴みあげる。僅かに散らばった前髪の隙間から緑色の閃光が燃えて見える。

脳震盪を起こしたヴェノムを壁に押し付け、

自分は壁から距離を置く。立ち位置が逆転した。

仲間が制圧された様子に動揺したのか、蹴る爪先や、殴る腕の軸がぶれている。


右からやってきた腕を内へと流し、掴む。

それを軸として、ビルの壁を蹴り上げる。

霈の身体が宙に浮いたのを一瞬、その場の全員が見ていた。

空中で腰をひねり、遠心力を帯びた膝裏が、

ヴェノムの頸へ、横薙ぎに叩き込まれる。


「ゔぅッッ……!?」


急所への、鈍く、重い衝撃。

目の前が二重にブレて見えた。

衝撃に耐えきれず、男の身体が蹴り飛ばされる。

ゴミ置き場へ男の身体が転がり込み、ゴミ袋が破裂する。

埃と廃棄物がばら撒かれ、悪臭がム、と路地に漂う。



「……テメェ……」

一体は壁に持たれて完全にノびていて。

一体はゴミ袋の上でぐらぐらと頭を揺らしている。

残されたヴェノムの顔に笑みはもうない。


右、左、左、右、上や下から、

ヴェノムの手足が縦横無人に空を切る。

それに合わせて、霈も避けては、流し、また肩を半寸ずらして躱す。捕まらない苛立ちにさらに男の速度と凶暴性が上がる。ヴェノムの腕や爪先が当たった箇所に、パラ、とコンクリートの欠片が溢れる。


張りつめた空気は、

どちらかが一瞬でも動きを鈍らせれば、

その瞬間に均衡が崩れる──そんな重さを孕んでいた。

槃田は、ごくり、と喉を鳴らす。


霈とヴェノムが睨み合う。

その様は、さながら“狩り”の一幕だ。

ヴェノムが拳を振り上げる。

霈は前に──、出る。


素早く敵の懐に飛び込み、身体を極端に低くする。

刃を抜かぬままの鞘の先が地面に擦れ、火花が散った。

顎下を手のひらを打ち上げようとするも、

相手は腐ってもヴェノム。

人間離れした動体視力でそれを見切り、上体を反らせる。

その反動で逆に霈の胴に拳を叩き込もうとし、しかし、一歩先を読んでいたのは霈だ。


ガードの甘い脇腹を霈の蹴りが入る。

「……ッ!」

ヴェノムの重心が崩れ、よろりと後方へよろめく。そのまま畳みかけるように迫ろうと霈が足を踏み出した時、「刃渡さん!!横や!!」と槃田の声と共に、胴の下あたりに重さが襲ってきた。目を向ける。


「君…」

先程までゴミ袋の上にいたヴェノムが腰に腕を巻き付けて、

動きを封じようとしている。

「あかん!前!!」

槃田の叫びで前を向き直し、刹那衝撃を感じる。


ゴッ。


鈍い、嫌な音。

モロにではないが、いい位置に入った。

霈の顔がぐら人横を向き、足が二歩、三歩、と後ろに下がる。


殴られた。

殴られた。

しかし痛みより先に頭蓋の内側で熱が走る。

遅れて、鼻からつう、と一筋、血が口元を伝って流れる。

地面に垂れた衂血を啜るヴェノムは滑稽で、卑しく見えた。


腰に縋る男をひと蹴りし、鎮圧する。

あ"、だか、お"だか、くぐもった声と共に、半身が地面に横たわる。

こちらから顔は見えないから、よくわからないが、

鳩尾に膝を突き入れたからきっと泡でも吹いてるのではないだろうか。


前を睨み返す。

霈に一撃喰らわせられたのが嬉しいのか、男はニヤニヤと笑いを取り戻していた。

キン、と音がして、霈の手元から青白い閃光が走る。

ネオンを反射した刃の波紋は群青の稲光りのようにギラギラと光ってゐた。


「……やっと、お披露目かァ?」

男の喉が、ごくり、と鳴る。

しかし、怯えや忌避感はない。

むしろ、獲物を見つけた獣のように、誘蛾灯に惹かれる蛾のように、目が吸い寄せられていた。



霈は答えず、刃を返したまま半身に構える。

足裏が地面を掠めた、小石が跳ね跳ぶ。

次の瞬間、霈の姿がふっと薄れる。

風のように前へ。

男の懐に飛び込む一歩、先ほど殴られた熱の残滓を込めて。

下から上へ、上から下へ、真一文字に、

その度にキラキラと鱗のように反射する銀鉄。

その切先がヴェノムに触れない距離を保っているのを

槃田は感じた。


追い込んでいるのだ──、そう思った時に丁度、

ヴェノムは手をコンクリートにつく。

霈はそれを見逃さない。

足を払い、肩を掴んで引き倒す。

ヴェノムの腕が振り上げかけるが、─遅い。

ギンッッッ、と硬い音がして刀が、地面に突き刺さった。


バランスを崩し、地面に背中がつく。

即座に馬乗りになられ、身動きが取りづらくなった。

チッと舌打ちをする。

冷たい汗が滲み、眉間に流れた。


男の首のすぐ横、刃は此方を向いている。

3cmも離れていない。

頭を掴まれぐぐっ、と刃の方を向けられる。

ヒヤリ、冷たさを感じる。

これが恐怖によるものなのか、実際の刃の冷たさなのか、

男にはわからなかった。

だが、これ以上、力を加えられれば、刃は皮膚を裂き、体内に侵入し、首の太い血管を破り、血が噴き出るだろうことは容易に想像できた。

自分を見下ろす女の面を睨みつける。

決して降伏はしないという、反抗を込めて。



「………み……るか…?」

「はァ???」

ふいに呟かれた声に、反射で答える。

肩を蹴り倒され、相手の顔は逆光で見えない。

小声で言われては、耳に届かない。


す、と顔が近づいてきて、白っぽい水色の髪が顔に掛かった。

見えた口元の歯が小さくて、牙がない、と思った。

耳元に口が寄せられ、ドク、と心臓が跳ねる。

耳たぶを食いちぎられるのではないかと思ったからだ。

この女ならきっとしかねない。


「この瞳の色に見覚えはないか?」


そう言って、霈が顔を上げる。

緑色の瞳が此方を見ていた。

この近さになって、漸く、カラーコンタクトじゃねえんだ、と凡庸な感想が出てくる。


「…………知ってても言うか、バァカ!!死ね!!!」


上体を腹筋だけで何度か起こし、牙を剥く。

ヴェノムの持てる武器、最大の武器、刃を持つのはお前だけではない──。


ガッ、ゴッ。

熱。

熱。

痛み。

目の前がチカチカ、点滅。

鼻の間にぬるり、と何かが垂れた。

鉄臭い空気が胸と口蓋に広がる。

衂血。

衂血だ。

殴られたのだ。

自分を殴った、緑色の目の女は

相も変わらず冷たい目で此方を見下ろしていた。

畜生、そんな目で見るんじゃねえよ。

胸糞悪ぃ…。



 男の威勢のいい声が路地裏に響いた。

霈が男に向かって何が言ったようだが、槃田の位置からは聞こえなかった。

霈が男に拳をお見舞いする。二発。

先程の仕返しだろうか、いや、単に動きを封じるためなのだろう。

動きが鈍くなったのを見計らって、物陰から出る。

霈と目が合い、頷く。

槃田は靴が地面に音を立てないよう、細心の注意を払いながら、ヴェノムの男の後手に回り込んだ。


 

 「ボクは死なないし、君も死なない。」

パ、と手を離され、首元の呼吸が楽になる。

霈の答えに、挑発したのに肩透かしを喰らったような気分になり、少しの冷静さを取り戻す。

赤い瞳孔は霈の顔を映す。

その異様な静けさと圧、そして獰猛な美しさ。

そこに先程までの殺気はない。

いや、最初からこの女に殺気はなかった──。

後ろに回された腕からガチャリ、と金属質な音がする。

いつの間にかそばに来ていたロン毛の男が手錠をかけたのだ。

やろうと思えば、足だけでも戦えたかもしれないが、

もうそういう気力も失せてしまって、もうどうでも良くなってきていた。

さっきまで鮮明だったはずの景色の輪郭がぼやけ、

色も褪せてしまったような気がする。


「お前、……なんで、殺さねぇ……?」

霈は答えない。

ただ、鞘を固定するベルトを直している。

スッと立ち上がり、土埃なんかを払っている。

もう御前に興味はない、言いたげですらある。


「なあ!アンタ!聞いてんのかよ」

剛を煮やしたように、男が語気を強めてから、

霈は、ようやく口を開く。


「君たちを殺さないのは……」


闇の中で、瞳がほのかに緑色に光る。

サア、とビル風が冷たく、3人の間を走り抜ける。大通りの反対側、車道を通った車のヘッドライトの光が一瞬差し込む。

真白な肌が病的に浮いて、また闇に溶ける。


「保護対象だからです。」


─────────────────────


 ヴェノムを皆、拘束、いや"保護"し、移送車への受け渡しが済んだ。

移送担当の職員に礼を言い、車のドアを閉める。

テールランプが遠ざかっていくのを確認してから

槃田は伸びをした。

背中を伸ばして腰を揉む。

ゴキッと、鈍い音がしたのは日々のデスクワークや寒さで、身体中が凝り固まっていたからだろう。

週末あたり、マッサージにでも行こうか──、そう考えていた時、霈が路地裏にまだいて、地面を見ているのに気づいた。

二、三歩歩いては地面を見て、また歩く、を繰り返している。

変わり者の変わった行動と言われればそんな気もしなくもないが、ひょっとして、と槃田は暗がりに近づく。



「なあ!刃渡さん、ひょっとして何か探しも、の……??」

少し声を張り上げて足を進めた矢先──、

パキン、と軽い音がして、目線を下げる。

自分の靴の、その下からした気がする。

何かを踏んだ、という感触がある。


一瞬霈の顔を見たあと、ゆっくりと足をあげ、後ろに下がる。

土埃に汚れた小さな"それ"を、覗き込む──。

陶器のようにも、ガラスのようにも見えた。

表面はつるりとして、ネオンを反射する青さは

人工物の光り方をしている。

よく見ると、見たことのあるような見た目をしている。

"それ"は球体で、割れた部分からも薄い、殻のような作りになっているのがわかる。

表面の外縁は白く、中心の暗い緑は殆ど黒く見える。

その間に広がるエメラルドグリーンは、陽光を受けた湖畔のようにチカチカと煌めきを持っていて、

霈の顔を見て、漸く理解する。


目、だ──。


そう分かった瞬間、槃田はサアッと全身の血が下に下がるのを感じた。頭が混乱しつつ、冷たくなる。身を引いた衝撃で誇りが舞い、ズザッと地面を引っ掻いたような音が鳴った。


「ッッッッ!!?!め、ッ、目ぇ!!??はっ、わ、刃渡さんの目ぇが取れた!!!!!!」

騒ぐ槃田と対照的に、当の本人は平然として落ち着きかえっている。

槃田の足元に膝をつき、"目"を拾って擦っている。

月の光にかざして目を細める。

くるくる、と回して見てみるが、どうやらよくないらしい。

壊れてしまった"目"を包もうと、ポケットから出したハンカチはくしゃくしゃだった。


「うるさい」


「う、ッ、うる、ッうるさい!?」

ぎょっと目を向く槃田とは正反対に、霈の視線は冷たい。

ハンカチに"目"を包み、ポケットに入れる。

壊れ物だからか、少し丁寧な手つきで。


「そりゃ、目、目ぇがとれてんねんぞ!?ええ!?ちょ、何で?さっきの??さっき殴られたから目ん玉飛び出てもうたんや!!!はなぢ、衂血!!い、いいい、医療班!!医療班に電わ"ッ…ぐ」

動揺から捲し立てるように話す槃田の唇を手のひらが覆う。

冷たくて、柔らかい、手袋越しではない、素肌の手のひらだ。



「このことは、誰にも言わないで。」


ジッと緑色の眼が此方を見ている。

風に煽られて前髪が顔に疎に影を落とす。

濃い影の下、目がどうなっているのかは分からなかった。もう片方の瞳の奥、緑色の燐光が、夜の光を受けて、危険なほど妖しく光る。

恐らく精巧に作られた義眼だったのだろう。

今此方を見つめる瞳と同じ光を孕んでいると思った。


蛇に睨まれた蛙、とはこのことだろうか。

戦闘とは別の種類の冷や汗がにじむ。

さっきまでヴェノム相手に三対一で戦っていた豪傑で、戦闘のプロで、そして “弟殺し” だ。

もしかしたら弟(クドラク)でなくても殺すのかもしれない。

物理的にではなく、このプレッシャーで──。

そう思った瞬間、槃田は「わ、わかった……」と呟くしかなかった。



─────────────────────


 夜の路地裏は、闇を煮込んだように暗く、黒い。女子学生らの走り去った後の沈黙を、路地の隙間から漏れる街灯りや、ネオン看板が照らしている。


なんて声をかけたものか──。

俯く星の背中を見て、チアキは悩んでいた。

初めての任務でヴェノムに遭遇した上に、噛みついてしまい、さらに恐らくあまり会いたくはなかったであろう人物から「化け物」呼ばわりされたのだ。

ショックだろうし、やりきれないだろう。

今は「大丈夫?」の一言でさえ、彼女には刃物になる気がした。聞いてもきっと、「大丈夫です。」と返してくるだろうという確信があった。


 悩むチアキを背にして、星は先程言われた言葉を反芻していた。

「化け物」。

やっぱりそうなのだ、と思った。

やっぱり「化け物」になってしまったのだ、自分は。

少なくとも、彼女たちからは、あの瞬間、

ヴェノムに牙を向いた星自身が「化け物」に見えた──、それはもう、そういうことなのではないのか。


路地の向こうで、チリン、チリン、と自転車のベルを鳴らす音が聞こえた。その日常の気配さえ、今は遠い世界の音のように思える。


先程の事柄だけではない。

今日、安齋からも、人事や、維局の他の職員から、視線は感じていた。

異物を見るような、恐れや軽蔑を滲ませた、警戒の色を帯びた瞳(め)。

そうじゃないか、お前は「化け物」だ、とずっと言われていたのだ。

今日だけじゃない。

あの夜から、自分の中に、

自分ではない何かの鼓動を感じていた。

毎晩のように見る悪夢。

聖夜前夜に自分を襲ったヴェノムの男が語りかけてくる。

「お前も同じだ。もうこちら(化け物)側なのだ。」と。


厭な笑い声が耳にこびりついて消えない。

「化け物」と叫んだ金切り声が、胸に反響して消えない。


先程のヴェノムの青年達に牙を向けたのだって、単に女子学生達を守ろうとしたからだけではない。

武器になると思ってやった。

喉の渇きが、一瞬でも楽になれば、と想像した。自分の武器で、傷をつけてやる、そう思ってやったのだ。結果、チアキという、味方を、仲間を傷つけてしまった。そして、彼の優しさに図々しくも安堵している。

安齋が言う通り「床を見ていれば、誰かが拾ってくれる。」と思っていた。

そして、今もなお「拾ってくれる人」を待っているのだ。

ダンピールという「化け物」、白河星という「化け物」─、わたしは、とんでもない「化け物」だったのだ──。


認めてしまえば、あまりに滑稽すぎて、涙も出ない。


維局をやめようと思った。

「化け物」として、あの家でひっそりと1人で暮らす。叔父の帰りを待とう。

今までしていたように、1人で。


「救世さん、わたし、維局を辞め」





「オレもさー、言われたことある。「化け物」って。」




振り返った先、ネオンブルーの光を背負ったチアキの、寂しげな微笑み。

星は言葉を止めた。

「失礼しちゃうよねえ、こーんなにイケメンなのに笑。」そう笑いながらゆっくりと近づく彼の伸びた影が、星の影に重なる。


「救世さん、が…化け物?」

信じられない、と声色が言っている。

「そんなの、誰が…」そう聞こうとして、呼吸を止める。

チアキの顔がすぐ真上にあったからだ。

体温を感じる。

頭1つ分違う背丈では、覗き込むのと見上げるの、どちらも

丁度良かった。


紅茶色の穏やかな瞳の中に自分が居る。


「ね、白河さん。……これは内緒、ね。」

そう言って眼帯の下に指を滑らせる。

ペラリ、と捲った黒布の下、傷痕が露わになる。

形の良い眉の下から薄い瞼を伝って、涙袋に至るまで、

皮膚が捲れたような、溶けてしまったような痕がある。

さらに上から細かい傷がいくつもあって、何がどうなっているのか、わからないほどだ。


皮膚の薄い部分に紫色の毛細血管が見える。

ケロイドのようなツヤツヤした部分、不自然な盛り上がり、

傷の縁が夜の街の光を反射して青白く光っている。昔見た本の「フランケンシュタイン」の挿絵の怪物のようだ。

けれど、不気味だ、とも、怖い、とも、悍ましい、とも思わなかった。

ほぼ塞がった瞼の隙間からは、もう片方と同じ、紅茶色の瞳が見えて、その穏やかな光のままに、此方を見ている。

星は、それが救世の目であることに、静かに安堵を憶えた。


星が手を伸ばすのと同じく、チアキがその手を取り、導く。

滑らかな布の下、歪な傷の上を指先で優しくなぞる。

肌はしっとりとしていた。

眉頭の骨の張り、薄い瞼の奥には眼球の丸みをしっかりと感じる。

睫毛に触れ、柔い血管の周り、ケロイド、白くなった細かい切り傷達──優しい人の、凹凸のある肌は、

人の温度をしていた。


「痛くは、ないんですか。」

「もう慣れた。」


「怖くはないですか。」

「ひとりじゃないから。本当はみんなそうなんだ。そうみえなくても、心だったり、体だったり。一緒なんだよ。だから、1人にならなくていいんだ。」


「なら、寂しくはないですか。」

そのまま手は導かれて、袖口に入る。

導かれた星の手で、月の下露わになる、無数の傷、傷、傷。

腕の内側の柔い肌に幾重にも引かれた横線は、貝殻で出来た砂と同じ白さだ。


「1人が集まって、みんなになってる。維局はそういう場所なんだ。だから、戻っておいで。

白河さんがいないと、オレは寂しいよ。」

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