花明かりを恋う

路地猫みのる

花明かりを恋う

 自転車をこぎながら浴びる夜風は、もう過去になったはずの冬の季節から吹くように冷ややかだった。濡れたスーツの上から薄いベージュのトレンチコートを羽織ったくらいで寒さをごまかすことは出来ず、灯梨あかりは体を縮こませながら自転車をこぐ速度を上げ、深夜の住宅街を抜けようとしていた。一人暮らしのアパートまでで、あと10分くらいでたどり着けるだろう。


 今日はさんざんな日だった。

 充電を忘れていたためスマートフォンは沈黙し、灯梨を起床させる役目を放棄。定刻ギリギリで出社し、営業課長の嫌味に耐えるところから業務がスタートする。

 午前中の訪問予約がキャンセルになったため、空いた時間に、電話、メール、アプリからのメッセージ送信、そしてまた電話。連絡手段が多様化した現代でも、平日の日中の電話への依存度は高い。

 手が空いたら書類整備。この会社に総合事務という肩書を担う人員はひとりしかいないので、契約書類の作成はほとんど営業が作成せねばならない。不備があれば総合事務のお局様の長く厳しい指導が始まるので、ミスのないように細かくチェックすることを忘れない。この四月から法改正に伴いマニュアルが変更になったこともあり、それでもやはり何ヶ所か指摘を受けた。

 訪問業務の前に、トイレに駆け込み、気持ちを切り替え、朝は適当にしかセットしていない黒髪をきっちり結い上げる。そのまま、新入社員と一緒に数件の契約先をまわる。その新人はまだ車の運転が不安だというので灯梨が運転手を務めた。新人はパンフレットをきちんと読み込んで商品説明の出来る子だったが、お客様はそれ以外の情報も求めている。リスクやデメリットについての説明が曖昧だとお叱りを受け、新人は泣き、灯梨は頭を下げた。帰社したのは定時の5分前だったので、新人には本日のレポートだけ書かせて先に退社させる。灯梨はその2時間後に勤怠管理アプリからログアウトした。仕事が終わったからではなく、その時間に上がらなければならないという暗黙のルールがあるからだ。

 ちょうど夜間アポイントがあったので、新規顧客の自宅に向かう。約束の時間ぴったりにインターフォンを鳴らしたのに「遅い!」と叱られた。小さな子供を持つ母親で、ピリピリしているようだった。丁寧に謝罪し、顧客の希望する商品について説明をしていたところ、夫が帰宅した。灯梨が身分を明かすと「保険の契約? 俺は聞いてないぞ」「だってあなたに相談しても、疲れてるって話を聞いてくれないじゃない! 子育てのことだって……」と夫婦げんかが始まり、それに巻き込まれコップの水を顔にかぶることになった。前髪から、あごから滴り落ちる水。鞄の中を探したが、ハンカチを持ってくるのを忘れたようだ。夫婦がふきんを貸してくれる様子もない。子どもが泣き出し、灯梨は再訪問を約束して去ろうとしたが「もう来なくていい」と夫に言われた。妻は灯梨を見なかった。


 ……ありきたりといえば、そうと言えるかもしれない。

 灯梨のするような苦労は、「俺たちの時代は当たり前」で、「とりあえず人事に相談すれば」どうにかなるような些細なことでしかないらしい。ならば、灯梨よりつらくて苦しい立場の人がいるから、このつらさや苦しさは我慢しなければならないのだろうか。どのくらい我慢できなくなれば、泣き言をいってもいいのだろうか。

 それはまるで、胃腸炎は胃癌より軽い症状だから病院に行ってはいけないと言われているようで、だとすると日本は日常的に災害時に置かれているのと変わらない。


 両親の期待に応えて成績上位をキープした学生時代。父の言うとおりに運動部に所属し、母の言う通りの大学へ進学した。そして、両親の納得する大手企業に就職した。

 いったい、何が間違っていたのだろうか。


 ふと、薄暗い住宅街に不釣り合いな明るさに気付き、灯梨は自転車を止める。

 それはゴルフ場のように視覚を刺す刺激的な光ではなく、すりガラスの中で燃えるロウソクのようにほの明るく浮かび上がるやわらかな光だった。

 桜だ。バス停のベンチの後ろに、二本の桜がある。ゆらゆらと夜風に梢を揺らす姿は、満月の夜に海水の中で産卵するイソギンチャクを思い出させた。

 根はコンクリートを押し上げて道路にひび割れを生じさせており、自転車では通りづらい。それにもかかわらず、灯梨はまるで誘虫灯に惹かれる蛾のように、そのほのかな光に吸い寄せられていった。


 購入した当時はおしゃれだったモカブラウンの自転車を道路の端に寄せて停め、何かの広告が描かれていたらしい掠れたペイントの跡が残る、サビまみれの青いベンチに腰掛ける。ぼぅっと星のない黒い夜空に浮かび上がる薄紅色の花の集合体。

 特別植物に詳しくない灯梨でも知っている桜の品種、ソメイヨシノ。それに違いない。小学生の頃、校庭に植えられていた同じような木にネームプレートがかかっていたのを覚えているから。


 ひらり。ひとひらの花びらが舞い落ちる。

 両手ですくい上げるようにそれを拾うと、灯梨の手の平の中に不思議な光が生まれた。



「おとうさぁん! キャハハハハハ!」

 いつも仕事で遅い父が、その日は早く帰宅して灯梨と遊んでくれた。押し入れから積み重ねられた布団の上にダイブする遊びをしていると、「下の階の人の迷惑になるから」と、父は自分の膝の上に灯梨を抱き上げた。灯梨は、今度は大きなバッグからゴルフボールを転がして遊ぶ。お腹を支えてくれる父の手は大きくて暖かい。

「ねぇ、こんどのおやすみは、『せったい』はないの? いまね、コマつきじてんしゃのれんしゅうをしてるの」

「そうだなぁ。晴れたら、一緒に公園に行こうか」

 優しく笑う父の顔が、もっと見たい。灯梨は、父の顔をほとんど覚えていない。

 灯梨がぐいと身を乗り出すと、光は散らばって、手の平にはただの桜の花びらだけが残った。夜風が首筋をくすぐって、少し寒いと感じた。



 また花びらが舞い落ちる。

 灯梨は最初の花びらをスカートの上に置いて、新しい花びらを捕まえた。また不思議な光が広がった。



 膝にこつんと、柔らかい衝撃がある。猫の額だ。猫の額ほどの小さな庭にいるキジトラの若いメス猫が、すりすりと顔をこすりつけてくる。一度ごはんをあげると、毎日のようにやって来るようになった。家の鍵を持っていなかった灯梨は、小学校から帰ると、あすかと名付けたその猫と遊ぶのが日課だった。

 太陽に温められたアスファルトの上に、ごろんと横たわる一人と一匹。車どころか自転車一台さえ通れない細くてでこぼこした坂道の上にある借家には、住人以外だれも訪れない。

「あっちゃん、聞いてよ。昨日の国語のテストは、98点だったんだ」

「にゃうん」

「わたしはね、けっこういい点数だと思ったんだけど、お母さんは『あと2点なのに惜しいわね』って言ったの。あと2点って、どうやったら取れると思う?」

「にゃうん?」

「そうだね、分からないよね。でも、あっちゃんは、50メートル走をはやく走れる方法なら知ってるんじゃない?」

 キジトラの縞模様がぼんやりと霞んでいく。

 当時は、デジカメでなければ使い捨てカメラが主流で、現像されたわずかな写真は、実家にしかない。

 灯梨はあすかの顔をよく見ようとしたが、光は散らばって、消えてしまった。



 灯梨は、ベンチから伸びあがって次の花びらを捕まえた。ストールが首筋から地面へ落ちたが、それを拾う余裕はなかった。



 次に不思議な光が描き出したのは、高校の美術室。

 灯梨が所属していた美術部はそこまで熱心に活動していなかったので、部活動のかたわら、親友の麻耶と漫画やアニメのおしゃべりで盛り上がるのが、灯梨の放課後の楽しみだった。

「ねぇ、新連載読んだ?」

 読んだよ、と麻耶が答えた。

「絵がさらにきれいになってて感動。ってか、主人公の兄カッコよくない?」

「灯梨が好きそう、って思いながら読んでた。好きになるキャラのタイプ、いつも同じよね」

「そんなことはないと思うけど」

 見透かされたのが悔しくて灯梨は意地を張ってみたが、それは数秒で終わる。麻耶が持っている漫画に、灯梨が好きそうな長髪のイケメンがいるというので、貸してもらう約束をした。

「麻耶のおすすめ、ハズレなしだもん!」

「そう言ってくれて、ありがとう」

 このとき、麻耶はどんな風に笑っていたんだっけ。

 卒業してから疎遠になった親友の笑顔に手を伸ばすが、光は散らばって、消えてしまった。すーすーと、冷たい風が全身を通り抜ける。



 ――もっと、もっと、もっと!!

 もっと、優しい思い出に浸れる過去を。もっと、現実を忘れさせてくれる懐かしい幻影を。もっと、幸せな明かりを!


 灯梨はベンチから立ち上がり、桜の枝を掴んで激しく揺さぶった。

 ゆさゆさゆっさ――ビートを刻むバンドマンのように情熱のままに、あるいはいやいやをする子どものように残酷に、枝はしなり、花吹雪をまき散らす。

 ちっぽけな不幸を淡い桜色が覆い隠してくれれば、その上に、新しい何かを築いていけるような、そんな期待がが衝動となって湧きあがり、灯梨を突き動かした。


 桜色の雨が降り注ぎ、灯梨の周囲は不思議な光で満たされる。


 その光の中には、懐かしい思い出の、愛しい顔が勢ぞろいしていた。

 灯梨はすがる思いで必死に手を伸ばす。

「あぁ、お願い、消えてしまわないで。この桜の花びらをすべて散らしてしまえば、私もあなたたちのところひとつに交われるの? もうここにいるのはイヤ、私も優しい世界へ行きたいの!」

 灯梨の右手は、父の大きな手の平を捕まえた。左手は、親友の細い手を捕まえた。肩の上に、愛猫がしなやかな仕草で登って来て「にゃうん」と鳴く。


 幸福感に酔いしれた灯梨の両目から、とめどなく涙があふれた。

 それが顔を濡らし、胸元を濡らし、全身が震えるほど寒くて――でもそれもいつしかその感覚も遠くなり、深く静かな眠りが灯梨を包んだ。


***


『4月4日未明、会社員の女性21歳がベンチで倒れているのを巡回中の警察官が発見し、女性は救急搬送され……』

 夕方のニュース番組で放送された風景は、依凛えりんの知っている場所だった。朝夕、小学校の登下校で通る道。高架の近くにある、二本の古い桜があるバス停だ。

「あら、近所じゃない。酔っぱらいかしらね。依凛も寄り道せずに帰ってこなきゃダメよ」

 出勤の支度をしながら母親が言う。

 依凛は夕食の菓子パンを食べていたが、今を逃すとなかなか母親と顔を合わせる機会がないと思い、ランドセルから「家庭訪問のお知らせ」と書かれたプリントを取り出して、鏡の前に立つ彼女に見せた。

「ねぇ、これ。来週末から始まるから、はやく予定の日を教えてねって担任の先生にサイソクされてるの」

 母親はちらっと視線を落としたが、

「仕事の休みが取れないから無理ですって、先生に言っておいてね」

とあまり興味のない様子でいい、支度の仕上げに華やかな香りの香水をふりかけた。


 玄関でハイヒールを履く母について行く依凛。

「家庭訪問ができないと、先生困るって言ってたよ」

「私だって、予定を狂わされると困るのよ。お母さんと先生が困るのだったら、先生が困る方がいいって、依凛も思うでしょ?」

 依凛はそう思わなかったが、母親にそれを伝えることはできなくて、扉を開けて出勤する母親を黙って見送った。


「……あ、桜の花びらだ」

 さきほど玄関扉から舞い込んだらしい桜の花びらを捕まえると、依凛の手の平の中に不思議な光が生まれた――。

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花明かりを恋う 路地猫みのる @minoru0302

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