懐古堂奇譚
浅見カフカ
懐古堂奇譚
-鍵-
夕闇に呑まれる直前の数分がたまらなく好きだ。
漆黒を切り裂く光ですら照らせぬ黄昏、逢魔が刻。
朱に染まる街を俺は丘の上から眺めた。
遠く霞む稜線を一際輝かせて夕陽が沈む。
長く長く伸びた人やビルの影が全て同化して闇に溶けだす頃、花が咲き乱れるように街に明かりが灯る。
そうした花に誘われる蝶のように、それは闇を纏って夜を彷徨う。
人間は本来闇を畏れるべきなのだ。
悠久の時をそうして生きながらえてきたのだ。
飼い馴らされた犬にも牙はある。
まして人間は闇を飼い馴らしてなどいない。
そう錯覚しているだけだ。
俺は夜露を携えた風が、袴の裾を湿らすのを嫌って丘を下りた。
それに間もなく夜がその指先をここにも伸ばす。
真っ当な人間は家路につくべきだろう。
坂を下る自転車というものは実に気持ちがいい。
生まれたての夜を頼りなく照らすライト。
その発電機の小さな唸り声と、車体の軋む音が風切りに混じって流れてゆく。
俺は丘の下にある職場兼自宅に向けて走った。
自宅は古物商——と言えば聞こえは良いが質店だ。
荷台には先ほど引き取った荷物が積んである。
なかなかに面白い品だったので代金を差し出すと「いいからすぐに引き取ってください」と言われたので有り難く戴いてきた。
好き者の客ならこちらの言い値を出すだろう。
これはそれだけのモノだ。
それだけのモノだからこそ、彼は一秒でも早く手放したかったのだろう。
あれは店を開けて小一時間ほど。
カラカラと引き戸が開いた先に視線を遣ればフランス人形のような服を着た女の子。
薄暗い店内から見たのも相まって女の子の金色の髪が一層輝いて見えた。
年の頃は十四、五歳か。
彫刻のように整った顔には見覚えがある。
「懐古堂のお嬢ちゃん、沙綾ちゃんだったかな」
「眞綾です、菊池さん。沙綾は店番をしています。誠一郎さんが出ているもので」
「これは失敬、済まなかったね眞綾ちゃん」
俺がそう詫びると「いいえ」と答えて店の中に足を踏み入れた。
その後ろには見覚えの無い青年がいる。
「面白いのを連れて来たね」
俺は彼を見るなりそう言った。
青年は熊澤と名乗った。
熊澤君は眞綾ちゃんに促されると、こちらの反応を窺うように話始めた。
きっと散々馬鹿にされたか、狂人扱いでもされて来たのだろう。
俺が真剣に耳を傾けると必死に訴えかけるように事の次第を話し始めた。
北陸の企業に就職した熊澤君はアパートを借りて一人暮らしをしていたそうだ。
丁度良い都会。
そんな言葉がしっくりくる土地で、東京ほどドライ過ぎず田舎ほど干渉しない。
会社も隣近所もそういった感じの付き合いだった。
唯一の不満はそのお隣さんのテレビの音が時折うるさいこと。
いつもではなく、本当に時折なので文句を言うにも言えず。
そのボリュームがまた絶妙で、男女が会話をしてる様子がはっきり分かるのだけど言葉が聞き取れない。
そうなるとおかしなもので、そちらに意識が集中してしまう。
寝るに眠れず、読書も何も身が入らない。
どの番組かとテレビを点けた、がそれらしいものはやっていなかった。
これはラジオなのかと思った熊澤君だったが、ラジオは持っていなかった。
そんな微妙な騒音......とまでは言えない生活音に悶々とする熊澤君の元に隣人がかしこまって挨拶に来たのは翌年の春。
二月の終わりだった。
引っ越しの挨拶だった。
色々な意味で寂しくなるなと思う反面、これでラジオの音に悩まされないと思うと解放された気にもなった。
翌週の日曜。
業者と共にアパートを去った隣人を見送った夜、異変が起きた。
眠ろうとベッドにもぐると、あの男女の会話が聞こえてきた。
だが、もう隣人は居ない。
申し訳程度にした引っ越しの手伝いで、がらんどうになった部屋を見て「こんなに広かったんですね」と顔を見合わせて笑った。
あの部屋にはもう何も無い。
それから毎夜聞こえるその会話が気味悪くて眠れなくなった。
とうとう体調を崩し、会社も辞めて実家に戻ったそうだ。
もちろんこれで終われば俺のところになど来ない。
実家に戻ってもそれは時折聞こえた。
寝室の窓の向こう。
いつものあの声。
もう馴れてしまってあまり気にしなくなっていた。
実家暮らしで一人ではない心強さもあったのかもしれない。
だがどうしてだろうか、今夜は時折笑い声も聞こえる。
楽し気な笑い声だった。
その日は布団をかぶって耳を塞いで眠った。
翌日、これは絶対に良くないと神社仏閣を回り事情を話すが取り合ってもらえなかった。
神仏を奉り信心を捧げる割りに、彼らはリアリストらしい。
病院のしかるべき科で診察を受けた方が良いと勧められた。
最後に訪ねた
金額を聞くと「お気持ちで」と言うので用意して包んでいた5千円を渡すと苦笑いされた。
改めて相場を尋ねると倍の金額を言われた。
「済みませんが帰りの足代が無くなるので、今日はあと4千円。残りは明日に必ず」と言うと住職は「そこまでせんでええから、代わりに使いを頼まれてくれ」と熊澤君に木箱を手渡した。
お札で封のしてある、曰くつき間違い無しの代物だった。
住職は絶句する熊澤君を見ながら笑って「封さえ解かなければ安全だ」と言って更に笑った。
逆に解けたらどうなるんだと思ったが、それは怖くて聞けなかった。
住職はこれを懐古堂の店主に引き渡すよう言うと、店への地図を寄越して本堂へと戻って行った。
この住所は京極町の入り組んだ場所あたり。
なるほど、地図は有り難い。
熊澤君はそう思いながらバス停に向かった。
懐古堂は表通りから少し入った、細い小路の奥にひっそりと佇んでいた。
この辺りには明治から大正、昭和、平成とその時代時代の最先端のビルが建ち並んでいたが、この建物はそのいずれにも属さない。
全ての時代に取り残されたようなあばら屋だった。
何度も地図と名前を確認してから、意を決して飛び込むと店主は留守だった。
店主の不在を告げたのは沙綾と眞綾だった。
顔も背格好も服装も同じ。
確かめたことは無いが、確かめずとも双子だろうと俺は思っている。
熊澤君も一瞬驚いたが俺と同じ結論に達した。
過去には彼女たちを見て気絶した失礼な女の子もいたらしい。
それは二人の悪趣味な登場の仕方にも問題があった。
まぁその話は別の機会に。
熊澤君が住職からの使いで来たcことを告げて、木箱を渡して踵を返した。
背中で鋭い声が「ちょっと!」と呼び止めた。
驚いて振り向くと、いきなり手を掴まれて引っ張られた。
掴んだまま少女は「沙綾!」ともう一人の名を呼んだ。
「間違いないわ」
沙綾は頷く。
勝手に二人で話を進められて意味の分からない熊澤君は、ただただ戸惑うだけだった。
「貴方、もう長くないわ」
そう言ったのは手を掴んでいる眞綾の方。
「どうしよう、
「いい、菊池さんの所に連れていくわ。誠一郎さんにはそう伝えて」
眞綾はそう言って向き直すと「行くわよ」と言った。
出不精な犬を引っ張る飼い主のように、事態の呑み込めない熊澤君の手を引いた。
俺の店に向かう道中、眞綾ちゃんは熊澤君に簡単な説明をした。
熊澤君が何かに憑かれていること。
店主の誠一郎なら対処も出来たが生憎留守で、帰りを待っているほど悠長な時間は無いこと。
つまり事態はひっ迫していること。
眞綾にも沙綾にも感じる力はあるがどうにかする力は無いこと。
これから行く場所は曰く品を扱う質店で、そこの菊池という店主なら最悪でも時間稼ぎ位は出来るということ。
要するに暗に誠一郎には劣るという意味かと思ったが、過度な期待をされるよりはいいので抗議はしない。
懐古堂も俺の質屋も同じ京極町にある。
眞綾ちゃんも全ては説明出来てはいないうちに到着したのだと思うが、それでも色々と煩わしい手間が省けて助かる。
おかげで熊澤君は俺に話をした時点でこの不可思議かつ理不尽な状況を受け入れていた。
もちろん命の危機を受け入れたわけではない。
俺のような得体の知れない人間を受け入れるということだ。
熊澤君の自宅に着いたのは昼の二時を過ぎた頃。
自転車に二人乗りではなかなか時間が掛かってしまった。
この辺では標準的な一戸建てだ。
かつて熊澤君の部屋だった二階の部屋は今はオヤジさんの書斎で、一階の仏間が熊澤君の仮部屋だ。
通りから見えるあの窓の辺りで誰かが会話をしていたのだろうか。
まぁ今回の件は外は重要ではない。
今重要なのは熊澤君の引っ越しの荷物だ。
絶対にその中に原因があるはずだ。
俺は熊澤君を先頭に家に上がり込むと部屋に向かった。
八畳の仏間の壁側から三割をダンボール箱が占拠していた。
全て引っ越しの荷物だ。
ひとり暮らしだったとはいえ、数年を過ごせばこれくらいにはなるのだろう。
ダンボールの中身は本やCDに服と小物。
何かを探すには非常に面倒な物が多い。
「骨が折れるな」
俺が呟くと、熊澤君は申し訳無さそうに「すみません」と頭を掻いた。
「なぁに、とにかく身に覚えの無いものを探せばいいさ」
俺はそう言って、開梱したダンボールを熊澤君に渡していった。
一時間を過ぎた頃、熊澤君が声をあげた。
「菊池さん!きっとこれです」
熊澤君はそれをつまみあげて俺に振って見せた。
それは鍵だった。
机の引き出しなどによくあるような小さな鍵が組紐で結わえてふたつ。
実に見事な仕事をしてある組紐が妙に不釣り合いだった。
価値のある根付にこそ似合いそうな逸品に見える。
「君の物ではないのだね」
俺がそう尋ねると熊澤君は頷いて言った。
「自分、鍵付きの机は持ったこと無いですし、こんな小さな鍵を使う何かも持っていませんからきっとこれです」
なるほど。
ここまで断言できるのならば間違いはないだろう。
俺は熊澤君から鍵を受け取ろうと右手を差し出した。
鍵が俺の手のひらに置かれた瞬間、窓の外で声がした。
その声は熊澤君も聞いていた。
俺たちは顔を見合わせて、それから何とか会話を聞き取ろうと窓に近づいて聞き耳を立てた。
『もうすぐ』とか『楽しみ』とか、不明瞭だがなんとなくそう聞こえた。
熊澤君もそう聞き取れたようで顔面蒼白だ。
「き、菊池さん」
声をひそめて俺を呼ぶ。
いい、皆まで言うな。
俺は全て承知したといった表情で頷くと、鍵を持参した木箱に入れて札で封をした。
直後、声は消えた。
開梱したダンボール箱に取り囲まれたまましばし呆然としている熊澤君に「買い取るよ」と五千円を差し出した。
「いいからすぐに引き取ってください」
熊澤君はそう言って両手を突き出して拒絶した。
もうこの件にまつわるものは一切要らないらしい。
俺は「そうかい。じゃあ、いただくよ」と言って腰をあげた。
いやぁ、ツイてる。
これだけの曰く付きの代物はそうそうない。
俺は封をした木箱を荷台に固定して勢いよく自転車を走らせた。
気分の良さに帰り道の黄昏についつい詩人のような思索に耽る。
そのくせ誰にこの品を持ち込もうかと、
そうこうして店に帰ると入口の引き戸の前に誰かが居る。
灯ったばかりの街灯が照らす誰かは懐古堂の店主、誠一郎だった。
誠一郎は俺を見るなり「渡してもらえますか」と穏やかに言った。
気に入らない。
口調は穏やかだが強制する強い意志を感じる。
同意も拒絶もなく黙った一瞬の間を拒絶と受け取ったのだろう。
誠一郎は困ったような憐れむような、そんな表情で「貴方には必要の無いものですよ」と言った。
だから俺は今度はすぐに返答をした。
「要不要を決めるのは俺だぜ。それにこれは好事家なら言い値を出すのは間違いねえだろ」と。
自分でも少し言葉が乱暴だったと思う。
だが俺はそれだけ苛立っていた。
「誠一郎、俺を・・・いや、熊澤君を騙しただろ」
苛立ちついでに薄々思っていたことをぶつけた。
「まぁ方便ですね」
誠一郎は悪びれもせずにしれっと認めた。
「熊澤君に命の危険は無かった。そしてこの鍵もさほど危険な品ではない」
俺は確認を求めるように誠一郎の目を見た。
睨みつけるように。
「今のところは・・・ね」
誠一郎はそう言うと話を続けた。
「ただこのままではその哀れな三つの魂が、いつか取り返しのつかない物になってしまうのは確実でしたから」
「三つ?三つって何だ?男と女、二つじゃないのか」
俺には男女二人の存在しか分からなかった。
思わず荷台の箱に目を遣った。
本当にこの男には敵わない。
一体、何が見えていたのか。
「相応の見返りと説明は貰えるんだろうな」
俺はそう言って誠一郎を店内に促した。
応接のソファーに腰掛けた誠一郎はポケットから小さな木の箱を無造作に取り出すとテーブルの上に置いた。
表面に細かな意匠が凝らしてある業物だ。
「誠一郎、おまえこれは!」
驚く俺に頷いて見せると誠一郎は小さく笑った。
「ええ、三代宇田川安右衛門謹製の秘密箱ですよ。曰く付きを龍寛寺の和尚から引き取りましてね、先ほど曰くを除いたものです」
「曰くって」
「少々厄介なものが憑いてましたが、もう誰に譲っても大丈夫ですよ。どうです、悪い話じゃないですよね」
宇田川安右衛門は安土桃山時代の名工。
特に三代の作品は業物と呼ばれる逸品で特に秘密箱は幻とまで言われる代物。
その製法を伝えずに三代はこの世を去り、以来秘密箱の技法は明治の半ばまで失われてしまった。
「釣りがくるぞ。もう、返さんからな」
俺はそう言ってひったくるように秘密箱を受け取ると懐にしまった。
そうして組紐で結わえられた二つの鍵を渡した。
「で、ここまでしてこの鍵が欲しい理由は何なんだ?」
また
誠一郎は俺の問いかけに、風呂敷をテーブルに乗せた。
そして秘密箱と違い、今度は丁寧に解く。
テーブルの上に上品に作り込まれたドールハウスが姿を現した。
「なんだ、これがあの鍵で開く家か?」
俺がそう問い掛けると「そうですよ」と言って誠一郎はドールハウスの玄関に鍵を差した。
「もうすぐですよ」
ドールハウスの居間のソファーに編み物をする若い女が居た。
「どれ、楽しみだな」
上品な仕立ての背広を脱いだチョッキ姿の男が女の腹に耳をあてた。
大きく膨らんだ女の腹が動いて見える。
「早くお父さんに会いたいとはしゃいでいるのですね、きっと」
女は愛おしそうに大きな腹をさすって微笑んでいた。
「なるほど、三つか」
俺がそう納得するとドールハウスの中では再び同じ会話同じ光景が繰り返された。
「彼らの一番幸せだった時間で止まっているのです」
誠一郎は憂うような眼差しで何度も繰り返す様子を見つめた。
俺と熊澤君が聞いたのはこの会話か。
再び納得した俺はなんだかやるせなくてドールハウスから視線を逸らした。
誠一郎は全ての
今日、店を留守にしていたのもきっとあの時にはすでにこの魂の住処となるドールハウスを引き取りに行っていたのだろう。
眞綾と沙綾には芝居を打つように言って。
「人も物も魂も、全ては
帰り際、誠一郎はそう言って去って行った。
「懐古堂との縁だけは緩いほうが有り難いな」
俺は聞こえないようにそう言って独り笑った。
窓の向こうにはすっかり夜が染み亘っていた。
-ドールハウス-
「あなた、神様は居ると思いますか」
小夜子の問い掛けに振り向いた
ソファーに腰掛けて編み物をしていた小夜子はその手を止めて胤篤を見た。
そして「私は居ると思いますわ。だって命を届けて下さったのですもの」と言って愛おしそうにお腹をさすった。
「小夜子!」
胤篤は妻の名を叫ぶと文字通りに飛び上がって喜んで見せた。
「ふふ、三ヶ月ですって」
「生まれるのは四月、桜の頃か。男なら胤春、女なら桜子なんてどうだ」
「気が早いですよ、まだまだ時間はありますから」
小夜子はそう言って微笑むと再び編み物を始めた。
「それは何を編んでいるんだい?」
まだ残暑厳しいこの時期にと思い胤篤が尋ねると「この子の靴下を」と小夜子が答えたので「君もずいぶん気が早い」と笑った。
衣料生地の卸しを営む胤篤の家は浅草にあった。
店舗兼住宅。
倉庫は川向う、吾妻橋を渡った所に大きな蔵を買い取って在庫を置いていた。
だが最近はその在庫もほとんど無い。
上質の生地は軍が接収してしまい、残った生地も【贅沢は敵だ】のスローガンの下にほとんど動きが無い。
元々胤篤の店は、海軍の制服の縫製をする工場に生地を納めていたので軍にも僅かに顔が利いた。
お陰でタダ同然よりはマシ程度の報酬は接収の際に貰えたので、米英との戦時下にある今でもさほど苦しい生活はしていなかった。
それでも癒着や賄賂に近い出費が官憲相手にかさむ為、戦前のような豊かな暮らしではない。
名家ではない成金の類はそうして赤紙から逃れていた。
同じ成金でも軍需により近い者ならばその限りではなかったが、胤篤程度の商売ではそうするしかなかった。
だがそれも徒労になる日が来た。
青い空と白く濃い雲が消え、どこまでも透き通るような碧空に薄い霞のような雲がかかり始めた頃。
その日、胤篤が用意した心遣いと酒宴は固辞された。
時世に似つかわしくない上等な背広を着た男達は「もう例外や特権は無い」と胤篤に告げた。
そのかわり後方の兵站に回すと約束して「済まない」と何度も言った。
出征を告げる赤紙が届いたのはそれから二ヶ月後のことだった。
きっと彼らなりに手を尽くして遅らせてくれたのだろう。
それでももう徴兵は不可避だった。
玄関での大きな呼び声に出ると郵便配達員。
「おめでとうございます!」
そう言って渡された召集令状を「ありがとうございます」と受け取った小夜子は、ドアを閉じたその場で崩れるように倒れた。
出征前夜。
「もうすぐですよ」
編み物をする小夜子に「どれ、楽しみだな」と胤篤が近づく。
小夜子のお腹に耳をあてると中から蹴られた。
「早くお父さんに会いたいとはしゃいでいるのですね、きっと」
小夜子は愛おしそうに大きな腹をさすって微笑んでいた。
「男なら胤春、女なら桜子だ」
「はい、いい名前です」
小夜子は溢れる涙がこぼれないように天井を仰いだ。
灯火管制で一灯を残して消えているシャンデリアが滲んで、幾つもの輝きに見えた。
胤篤は約束通り、フィリピンに展開する軍の兵站に配属された。
後方の補給部隊と言えば安全に聞こえるが、苛烈な米軍の攻撃の前には前線も後方も無かった。
それどころか戦闘を前提にしない補給部隊には、まともな銃火器も無い。
敵に遭遇すれば鴨撃ちの的も同然だった。
『連戦連勝破竹の進撃』などという本土にもたらされる報道の全てが虚構だった。
ここには皇国の勝利や栄光は無い。
累々たる同朋の屍だけがあった。
米軍の猛攻は昼夜を問わず、銃撃も爆撃も止むことは無かった。
三日三晩——
諦めかける度に、小夜子から贈られた組紐で結わえた鍵を握り締めた。
帰るんだ、必ず。
寝ずに走り続けた胤篤は、ようやく米軍の上陸地点の反対の海岸に辿り着いた。
そこで友軍の輸送船に収容された。
その人員で新たに小隊が編成されて、胤篤は転戦という形でフィリピンを離れた。
数時間後——
胤篤の乗った輸送船は米軍の駆逐艦に遭遇した。
そしてなす術も無く撃沈された。
輸送船に弾薬が積んでいなかったことは幸いだった。
船内に居た傷病者は助からなかったが、甲板や船内の上部に居た多くは海に活路を見いだせた。
胤篤も自ら海に飛び込むと、沈む船の起こす渦に巻き込まれないよう必死で泳いだ。
やがて精も根も果てた頃、目の前にロープが投げ込まれた。
それが昔話に聞いた、蜘蛛の糸のように見えた。
ロープを身体に巻いたのは覚えている。
だが記憶はそこまでだった。
目を覚ますと不思議な日本人が胤篤を看病していた。
日本人なのか米国人なのか分からない顔。
その不思議な日本人は胤篤に気が付くと自らを「トーマス野口です」と名乗った。
日系のアメリカ兵だった。
「俺は捕虜になったのか」
胤篤がそう悔し気に言うとトーマスは「恥ですか?」と直球で尋ねた。
「家族が後ろ指を差される、死なせてくれ」
胤篤がそう言うとトーマスは首を振った。
「国のために命を懸けた人は誇りです。家族の人、あなた生きて帰ったらきっと喜ぶよ」
微妙な発音の日本語に胤篤は苦笑いしながら「伊坂胤篤だ」と名乗った。
そして終戦のその日まで、胤篤は捕虜収容所に収監された。
日系人が財産を没収されて専用の収容所入れられて居ること。
アメリカへの忠誠を示す為に志願した日系アメリカ兵の多くは、白人の盾として戦場で使われていることを胤篤は収容所で知った。
トーマスの言葉が重く感じた。
一月の半ばを過ぎた頃に最初の便りが届いたが、もうそれきり。
胤篤からの音信は一通で途絶えた。
そんな小夜子のもとに訃報が届いたのは二月の末だった。
後日懇意にしていた軍関係者が「遺体は確認されていないから希望を」と、気休めにもならない励ましを言って来た。
小夜子は抜け殻のように生返事を返すだけだった。
家の外では熱狂的な愛国者が、英霊となった胤篤に万歳と叫んでいる。
(死んでない死んでない、あの人は生きている!)
小夜子は耳をふさいで頭を左右に振ると、心で必死に叫んで小さくしゃがみこんだ。
気が触れそうな小夜子だったが、その度にお腹が蹴られて我に返る。
「大丈夫」
まだ見ぬ我が子にそう言われているような気がした。
三月十日。
深夜に鳴ったサイレンに起きた小夜子が防空壕に避難しようと外に出ると空が赤く燃えていた。
空襲警報が鳴った時にはもう東京は炎の海に沈んでいた。
四発のプロペラのこもるように反響する音が焼夷弾が空気を切り裂く音に紛れて聞こえる。
B-29だ。
高度一万メートルを飛ぶこの爆撃機を墜とせる戦闘機は日本には無い。
しかしその高高度を飛ぶ爆撃機が、今夜はリベットが見えるほどに低く飛んでいた。
その数百機の大編隊が、帝都の上空を我が物顔で飛行する。
そして遊覧の途中で、ゴミを捨てるかのように焼夷弾をばらまいて行く。
夜空に幾条にも伸びる炎の線が、まるで雨のようだった。
その火の雨が街を、人を焼き尽くした。
全てを呑み込んだ炎が、天をも焼き尽くそうと火炎の竜巻となった。
竜巻はまるで生き物のように縦横に暴れまわり、地上に地獄を描いた。
通りは小路に至るまで火の粉の川となり、灼熱から逃れようと辿り着いた隅田川は炎の運河となっていた。
もう逃げ場は無かった。
蝉しぐれの中、戦争が終わった。
焦土と化した日本が、無条件の降伏を受け入れたのだった。
手続きや引き揚げ船の順番待ちで、胤篤の帰国は翌年の春だった。
帰国前、胤篤は小夜子に手紙を宛てた。
着いた港で小夜子を探したが、見つけることが出来なかった。
胤篤は真っすぐに浅草の自宅に向かった。
まだバラックの建ち並ぶ中を川や橋、駅や通りの名を頼りに我が家を探した。
ようやく探し当てた我が家には何も無かった。
かろうじて残った石造りの門の土台が片方だけあった。
胤篤はその門から中に入った。
かつて玄関があった辺りに立つと、小さな鍵を取り出した。
目を閉じて、見えないドアに差し込んで回す。
ノブを回してドアを開ける。
「あなた、神様は居ると思いますか」
頭に響くように、耳元に囁きかけるように聞こえた。
ハッと目を開けるが、そこにはただただ荒れ地とバラックがあるだけだった。
「居やしねぇよ、そんなもの」
胤篤はその場に崩れて泣いた。
冷たくなっている胤篤が自宅の跡地で見つかったのは翌朝だった。
手首から流れた血で赤く染まった指先。
そこに組紐に結わえられた鍵が絡んでいた。
「
ドールハウスを覗き込んだ沙綾が怪訝そうに尋ねる。
「いいんですよ。この場所が彼らの家なのですから」
「沙綾、誠一郎さんは彼らにとって一番良い方法をしてくれる・・・でしょ」
眞綾は沙綾にそう言ったあと、確認するように誠一郎を見た。
「自分たちで納得してから旅立つのがきっと良いのだと思います」
誠一郎はそう言って二人の頭を撫でた。
金細工のような髪が揺れた。
「もうすぐですよ」
ドールハウスの居間のソファーに編み物をする若い女が居た。
「どれ、楽しみだな」
上品な仕立ての背広を脱いだチョッキ姿の男が、女の腹に耳をあてた。
大きく膨らんだ腹が動いて見える。
「早くお父さんに会いたいと、はしゃいでいるのですね」
女は愛おしそうに大きな腹をさすって微笑んでいた。
「あなた、神様は居ると思いますか」
女の問い掛けに男は優しく笑った。
「ああ、居るさ。私のもとに君とこの子を連れて来てくれたんだもの」
-了-
懐古堂奇譚 浅見カフカ @Asami_Kafka
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