枷と白雪
鍵崎佐吉
枷と白雪
昨晩から降り始めた雪は夜と共に静かに大地を覆い、早朝には辺り一面を白く染め上げた。外に出てみると小さな子どもたちが空を見上げながら降り積もる雪の中を走り回っている。慣れない寒さに震えながらも、通りを歩く人々はどこか浮ついているようにも見える。この国ではこんな風に雪が積もることは稀だ。数日後にはこの綿のように白い雪も泥の中に滲んで消えてしまうだろう。
こんな日には私はどうしようもなくあの人のことを思い出す。彼と過ごした記憶、交わした言葉は今もなお私の中に息づいている。
「生まれて初めて雪を見たのはいつだったか、覚えているかい?」
窓の外に降り積もる雪を眺めながら彼はそう言った。私は自分の三十年余りの記憶を振り返ってみたが、その瞬間は曖昧ではっきりとした答えは出ない。
「多分、五歳くらいだったと思いますが」
「僕ははっきりと覚えている。この国に連れられてきて初めての冬、十三歳になった年のことだった」
指先でそっと窓に触れながら、その冷たさを確かめるように彼は告げる。そんな小さな所作の一つにも彼は気品を漂わせていて、私はそれを発見するたびに小さな幸福を感じていた。もし彼が同性でなかったら私の感情はもっと複雑なものになっていただろう。
「外を指差してあれはなんだと問うても皆薄ら笑いを浮かべるばかりで答えてはくれない。自分の置かれている立場をはっきりと理解したのはその時だった。所詮は人質なんだ、とね」
「……祖国では雪は降らないのですね」
「少なくとも僕は見たことはない。と言ってももう随分昔の話だが」
彼の表情には悲しみの陰りは見られない。きっとそんな感情はとっくに尽き果ててしまったのだろう。不戦条約の証としての人質、そのためだけに六年もの歳月を異国の地で過ごしてきた彼は他の誰とも違う独特の雰囲気を纏っていた。
彼が新しい教育係にことさら若い人間を望んだのは、ある意味では自然なことだったのかもしれない。彼の教養や品格は水準より遥かに秀でており、今さら私が教えなければならないようなことはほとんど存在していなかった。そうと明言はしなかったが、彼はきっと歳の近い話し相手が欲しかったのだろう。形式だけの礼節の中で孤独に耐えていた彼には、対等とまでは言わずとも自分を一人の人間として扱ってくれる、そんな存在が必要だった。私たちは講義という名目で同じ時間を共有し、その度に色んなことについて語り合った。
「君はこの国から出たことはあるか?」
「いえ、一度もありません」
「そうか。では国境というのがどういうものか、知らないだろうね」
彼はおもむろに手元の教本を開いてそこに描かれている地図を指差し、少しいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「たまには授業らしいことをしようじゃないか。先生、ここには何があると思う?」
これでは生徒と先生が逆ではないか、と思いつつも私は彼の指差すその先に目を向ける。そこは我が国と彼の祖国のちょうど中間であり、地図上では黒い線が引かれている。
「それは国境でしょう?」
「そう、だが現実には地面に線が引いてあるわけじゃない。六年前に僕がここを越えた時、辺りには荒野が広がるばかりで境界なんてどこにもなかった。それに祖国の地図ではこの国はもっと小さかったはずだ。ここに描かれているのは全て人間の頭の中の景色なんだ」
「こんなものには学ぶ価値はない、と?」
「いや、そうじゃない。むしろ僕は知りたいんだ。この国の人間には世界がどう見えているのか、それは祖国とどんな違いがあるのか。未知を恐れ無知を嘲笑うのではなく、その先にあるものを掴みたい……それは僕にしかできないことだと思うから」
そう言ってから彼は少し照れたように教本を閉じた。冷然としているように見えて彼にも若者らしい情熱は確かに宿っている。そしてそれを私に打ち明けてくれたことがただ純粋に嬉しかった。
「私でよければお手伝いしますよ」
「……ありがとう。来てくれたのが君でよかった」
そのどこか儚げな笑みに私は確かに惹かれていたのだと思う。彼と共に過ごしたのは一年ほど、交わした言葉も決して多かったわけではないが、それでも私は与えられた仕事に感謝しこの日常に喜びを感じていた。そうすることで彼の首にかけられた見えない枷を忘れようとしていた。
彼の祖国が不戦条約を破って我が国に攻め入って来たのは酷く寒い冬の日のことだった。当然彼は軟禁状態になり、講義も中止されてしまった。それでも私はどうしても彼に会いたくて、衛兵に多額の賄賂を払ってどうにか面会の時間を作ってもらった。
「まさか会いに来てくれるとは思っていなかった。それだけで嬉しいよ」
そう言って笑う彼に私はなんと言葉をかければいいのかわからなかった。彼はつぶやくように淡々と言葉を続ける。
「人間というのはわからないものだな。あんなに僕を可愛がってくれたお爺様も、六年経てば赤の他人らしい。それとももう実権は他の誰かの手に渡っているのか? ああ、確かに叔父上たちならこのくらいのことはやりそうだ」
「……まだ貴方が見捨てられたと決まったわけでは——」
「いいんだ。自分の立場は僕が一番理解している」
そこには深い諦観と共に、哀れみを拒絶する気高さがあった。彼はこの日が訪れることをずっと覚悟しながら、たった一人で日々を過ごしてきたのだということを今更思い知らされる。すると彼はおもむろに右耳のピアスを外して私へと差し出した。
「今あげられるものはこれしかないんだ。受け取ってくれ」
「ですが……」
「僕がここにいた証を一つでも残しておきたいんだ。君になら預けられる」
私はただ頷いてそれを受け取ることしかできなかった。時を見計らったように衛兵が面会の終了を告げ、私は彼のいる部屋から追い出された。
そして寒空から白い雪が降り注いだその日、彼は絞首台に立たされその短い生涯を閉じた。
彼が処刑された後、どこに葬られたのかはわからない。いっそこの国が負けてしまえばそれも明らかになるのかもしれないが、彼の祖国との戦争は未だに続いている。私の手元に残ったのはあの日彼から譲り受けたピアスだけだった。
そっと右耳に触れれば指先に冷たい金属の感触が伝わる。この痛みが彼がここに生きていた何よりの証になる。私にできるのはそれを記憶し続けること、そして未知のその先を望んだ彼の思いを伝え続けることだ。
降り積もる雪にはいつのまにか無数の足跡が刻まれている。凍えるような寒さの中、私もまた一歩踏み出した。
枷と白雪 鍵崎佐吉 @gizagiza
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