三丁目の怪物

相沢

第1話 三丁目の怪物

カクヨムコンテスト11【短編】応募作品




一 越してきた青年


 黒田慎太郎が三丁目に引っ越してきたのは、初夏の午後だった。風が刺すように生暖かく、地面にはまだ雨の名残が黒い地図を描いていた。

 彼はその地図の上を辿るように、大きく歪んだアパートの階段を上った。アパートの名は「青葉荘」と看板に書かれていたが、青葉などどこにも見当たらず、代わりに剝げかけた塗料と蜘蛛の巣だけが残っていた。


 新しい仕事に疲れていた彼は、とにかく静かに暮らせればよいと願っていた。

 だが、鍵を受け取る際に管理人の老婆が囁いた一言は、彼の平穏を根底から揺るがした。


 「三丁目には、怪物が出るんでねぇ」


 老婆の声は、湯呑みに茶柱が立ったときのように、不吉な響きを持っていた。


 「怪物、ですか?」


 「そうよ。ほら、あたしゃもう年寄りだからねぇ、目も耳も遠くなっちまったが……それでもたまにね、夜中になると人の足音じゃないもんが、外を歩くんだよ」


 「どんな音なんです?」


 「ずる……ずるずる……ってねぇ」


 慎太郎は思わず笑いそうになったが、老婆の目がひどく真剣だったのでやめておいた。

 古い町ではありがちな迷信だろう、と彼は軽く流した。


 だが、越してから数日もしないうちに、その“音”が本当に存在するのだと、彼は思い知らされることになる。


二 ずるずるという足音


 夜の十一時を過ぎた頃だった。

 慎太郎が眠りに落ちかけた瞬間、外から――


 ずる……ずるずる……


 と、確かに聞き慣れぬ音が聞こえたのだ。


 ネズミだろうか、と最初は思った。

 しかし、その音はあまりにも重く、湿り気に満ちていた。何か、巨大なものが地面を引きずるような音――。


 彼は窓のそばへ寄り、そっとカーテンを開いた。

 通りには外灯が二つあるが、どちらも寿命が近いらしく、時々痙攣したように明滅していた。


 明滅する光の合間に、慎太郎は見た。


 三丁目の坂道の中ほどに、なにか黒い塊があった。

 太った犬のようでもあり、ぐったりとした布団のようでもあり、あるいは人間が四つん這いで佇んでいるようにも見えた。


 だが、確かなのは、そいつが――


 動いている。


 ずる……

 ずるずる……


 半身を引きずりながら、まるで何かを探すように、ゆっくりと坂を上がってくる。


 慎太郎は息を呑んだ。


 「……猫じゃ、ないな」


 不思議と恐怖はなかった。

 どちらかといえば、好奇心のほうが勝っていた。


 この町に来てから、仕事も人間関係もうまくいかず、空気はじめじめしていて、腐りかけた古本のように毎日が退屈だった。

 だから、 “怪物”がいてくれた方が、むしろ楽しい。


 いや、楽しいなどと言ったら不謹慎かもしれない。

 しかし、彼の胸の内には、奇妙な高揚が芽生えていた。


 ――明日は、あれを追ってみよう。


 そんな考えが、自然と浮かんだ。


三 三丁目探索記


 翌朝、慎太郎は町内を歩き回り、怪物について聞き込みを始めた。

 仕事をサボってまで怪物を追う自分に、後ろめたさはなかった。むしろ、こんな“目的”を持ったことは久しぶりだった。


 最初に訪ねたのは、八百屋の主人である。

 丸顔の主人は、慎太郎の質問を聞くや否や、胡瓜を落としそうになった。


 「怪物? 三丁目の? ああ、あれはもう名物みてぇなもんだよ」


 「名物なんですか?」


 「名物っていうか……まあ、商売の邪魔にはならねぇしな。何か壊すわけでもねぇし。夜中にうろうろしてるだけだ」


 「見たことは?」


 主人は少し考え、曖昧に首をひねった。


 「それがよく覚えてねぇんだ。でっかい犬みたいだった気もするし、小さいおっさんみたいだった気もするし。

  とにかく、暗くてよく見えねぇ。あの通りはな、街灯がじき消えちまうんだよ。電気代の節約でな」


 次に訪ねたのは、新聞配達の少年だ。

 だが少年は、慎太郎を見るなり怯えたように首を振った。


 「あんたも、あれを見るのかい? やめといた方がいいよ。見つかったら、連れて行かれるって話だ」


 「どこへ?」


 少年は唇を噛んだ。


 「……知らない。帰ってきた人はいないから」


 ますます怪しくなるばかりだった。


 だが、最後に訪ねた町内会長だけは、落ち着いた表情でこう言った。


 「怪物などいないよ」


 「でも、皆さん見たと……」


 「見たのではない。見た“気になっている”だけだ。

  三丁目は静かすぎてね。人は静かすぎる場所にいると、何かが潜んでいるような気になるものだよ」


 「では、あの音は?」


 「空耳だろう。あるいは猫か、酔っぱらいだ」


 会長の言葉はもっともらしかった。

 慎太郎も頷きはしたが、夜に聞いたずるずるという音は、どう考えても空耳とは思えなかった。


 ――今夜、確かめに行こう。


 慎太郎は心を決めていた。


四 深夜の邂逅


 午前一時。

 三丁目の坂道は、不気味なほどに静まり返っていた。


 街灯はとうとう息絶え、闇が地面に溶けている。

 慎太郎は懐中電灯を片手に、ゆっくりと坂を下りていった。


 すると――


 ずる……


 どこかで、あの音がした。


 懐中電灯の光を向ける。

 しかし何も見えない。


 慎太郎は音の方向へ慎重に歩き、坂の最下段まで進んだ。

 そこは小さな公園の入り口にあたり、古いブランコが風で揺れていた。


 音は、公園の奥から聞こえる。


 彼は一歩、また一歩と、闇の中へ足を踏み入れた。


 懐中電灯が、何か黒い影を照らした。


 それは――


 人間だった。


 四つん這いになった老人が、地面を這うように前へ進んでいたのだ。

 背中は丸まり、衣服は泥に汚れ、髪は白くぼさぼさで、顔は見えない。


 ずる……

 ずるずる……


 慎太郎の心臓が跳ねた。


 怪物ではない。

 しかし、人間でもないように見える。


 「……大丈夫ですか?」


 声をかけると、その老人はぴたりと動きを止めた。


 そしてゆっくりと、ぎこちない動作でこちらを向いた。


 闇の中で、老人の目だけがぎらりと光る。

 まるで、獣のように。


 「お前は……見たのか」


 老人の声は、錆びついた金具の軋みのようだった。


 「え?」


 「見てしまったなら、もう戻れんぞ」


 老人はそう言い、笑った。唇の端から黒い液体が垂れた。血ではない。もっとどろりと、煤のように濁ったものだった。


 慎太郎は後ずさった。

 すると老人は、まるで蜘蛛のように素早く立ち上がった。


 「三丁目はな…… “そういう場所”なんだよ」


 老人の体が、ぐにゃりと歪んだ。


 腕が伸び、背骨が曲がり、骨と骨の間から黒い煙のようなものが溢れ出す。


 次の瞬間、老人は――怪物へと変貌した。


 ずる……

 ずるずる……


 さっきと同じ音。

 あれは、怪物が変身するときに漏れ出る骨の悲鳴だったのだ。


 慎太郎は逃げようとした。

 だが、足がすくんだように動かない。


 怪物はにゅるりと近づき、慎太郎の顔を覗き込む。


 「お前も、こっち側に来るのだ」


 その瞬間――


 ぱん、と乾いた音がして、怪物の頭が揺れた。


 後ろには、管理人の老婆が立っていた。

 手に持った杖で怪物を殴ったらしい。


 「まったく、こんな夜中に何やってんだい!」


 老婆は躊躇なく、怪物の頭をもう一度殴りつけた。


 すると怪物は、まるで猫が水をかけられたかのようにびくりと震え、そのまま煙のように消え去った。


 跡形もなく。


五 老婆の告白


 「ついに見ちまったねぇ」


 老婆は慎太郎を家まで送る道すがら、ぽつりぽつりと話し始めた。


 「あれは三丁目の“呪い”みたいなもんだよ」


 「呪い?」


 「この町は昔、よそ者を嫌ってねぇ。逃げてきた人間や、仕事に失敗した人間

  や、家族から見捨てられた人間が、よくこの三丁目に流れ着いた。

  でもね、居心地が良すぎて出て行けなくなるんだよ。

  そのうち、自分が何者だったかも忘れちまう」


 「それで、怪物に?」


 老婆は笑った。


 「怪物なんて大げさなもんじゃないさ。

  ただの“町に溶けた住民”だよ。

  あの老人も、昔はどこかから越してきたんだ。気づけば三丁目の影みたいになっちまった」


 「僕も、そうなるんですか?」


 老婆は慎太郎の顔をじっと見た。


 「なりたければ、なればいい。

  ならずに済ませたいなら、――この町に馴染みすぎないことだよ」


 「馴染みすぎない?」


 「うん。

  この町はね、居心地が良すぎるんだよ。

  何も起きない、誰も干渉しない、静かで、穏やかで……

  だから、油断すると、あんたもずるずると引きずり込まれる」


 「じゃあ、怪物は……」


 「あれはな、人間が“平穏に甘えすぎた末路”さ」


 老婆の言葉は、妙に重く響いた。


六 慎太郎の選択


 翌朝、慎太郎は仕事を辞めた。

 辞表を出した瞬間、胸が軽くなった。


 怪物になりたくないからではない。

 むしろ――なってしまってもいい、とさえ思っていた。


 三丁目の静けさは、彼にとってあまりに優しかった。

 都会では得られなかった安らぎが、このぼろぼろの町には満ちていた。


 人は誰も彼に干渉しない。

 怪物でさえ、彼を喰おうとはしなかった。

 ただ「来い」と言っただけだ。


 慎太郎は思う。


 ――この町なら、自分は消えてしまってもいいのではないか。


 それは絶望ではなく、救いのように感じられた。


 その晩、慎太郎はまた公園へ向かった。

 しかし怪物は現れなかった。


 代わりに、ひどく静かな夜が広がっていた。


 月明かりの下で、ブランコだけが揺れていた。


 慎太郎はその横に腰を下ろし、目を閉じた。


 ずる……


 耳元で、あの音がした。


 彼は微笑んだ。


 「……ようやく、来てくれたんだね」


 闇の中から、ぼんやりと黒い影が姿を現した。

 それは昨日とは違い、ずいぶんと小さい怪物だった。

 幼い少女ほどの背丈しかない。


 慎太郎は理解した。


 ――怪物は、日によって姿を変えるのだ。


 恐怖はなかった。

 むしろ親しみさえ感じた。


 「連れて行ってくれる?」


 怪物はうなずいた。


 慎太郎は立ち上がり、怪物の手を取った。


 その瞬間、闇が広がり――


 慎太郎は、世界から静かに消えた。


七 翌朝の噂


 翌朝、三丁目には新しい噂が流れた。


 「青葉荘の黒田さん、いなくなったらしいよ」


 「怪物に連れて行かれたんだろう」


 「いや、家出じゃないのかい?」


 「いやいや、きっと怪物の仲間になったんだよ」


 町内会長はそれらの噂を黙って聞き流し、ただこう呟いた。


 「また一人、三丁目に馴染んだか」


 その日、公園のブランコは、いつになく静かに揺れていた。

 まるで――誰かが座っているかのように。


八 そして怪物は増える


 夜になると、坂の下からずるずるという音が響き始めた。


 ずる……ずるずる……


 しかし、その音には昨夜に比べて、どこか若々しいリズムがあった。


 住民たちは気づかない。

 あるいは、気づいても気にしない。


 この町では、怪物が一人増えたところで、日常は変わらない。


 ただ静かに、誰にも干渉せず、淡々と時が過ぎていく。


 だが、もし深夜に坂道を歩く者がいるなら――

 きっと気づくだろう。


 黒田慎太郎の背丈ほどの小さな影が、ゆっくりと坂を上ってくるのを。


 そしてその影が、時折こちらを振り返り――

 まるで微笑んでいるように見えるのを。


終章 三丁目と怪物


 三丁目の怪物は、今日も増えたり減ったりを繰り返している。

 誰かが馴染み、誰かが去っていく。

 町はそれを止めようともしないし、誰も干渉しない。


 この町が優しいのか、残酷なのか――

 それは誰にもわからない。


 ただ一つだけ確かなことがある。


 三丁目で“消えた”者は、二度と元の町には戻らない。


 だが、戻らないということは、後悔していないのだ。


 むしろ、彼らは静かな夜に溶け込みながら、今日も三丁目のどこかで、誰かの背後をゆっくりと歩いている。


 ずる……

 ずるずる……


 その音は、決して人を驚かすためではない。


 三丁目にようこそ――と、ただ挨拶しているだけなのだ。

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