精霊国物語

第11話 影憑き

　エランへと繋がる大路は、行き来が盛んなこともあり広く整えられている。しかし、森の中に伸びる道は決して楽とは言えなかった。加えて急ぐ旅である。その日の内に帰ることが出来る距離を行き来し、好きに休憩を挟むことが出来た遠乗りとは事情が違う。マリーエルとアメリアは進むのに苦労した。

　慣れた様子のカルヴァスは先行し、辺りを警戒しながら進んでいた。

　旅の支度をする内に、カルヴァスはカナメの人となりを少しばかり掴んでいたらしく、一応の警戒は残しつつも、地図を広げて道程を相談するまでにはカナメの手腕を認め始めていた。

　いくつかの森を抜け、平野に出ると、またその先に鬱蒼（うっそう）とした森が見えている。

　エランとの間に横断する〈小ジュリアスの森〉だ。

　大路の途中に伸び出したその森は、かつて英雄グランディウスの子孫達が領土の取り分で争い、最終的にこの辺りの森の中はジュリアスのものと定めたのだった。今はジュリアスの平地の途中で一度途切れ、独立した森となっているので〈小ジュリアス〉という扱いとなっている。

　小ジュリアスの森を抜ければ再び平野、その後丘を三つ越えればエランへと着く。

　日が暮れる前に手頃な場所を見つけて野営を組んだ。瞬き始めた星々は、今日は特に標となるべく眩い光を地上に注いでいる。巡りを終え空に昇った魂が、こぞって地上を覗き込んでいるようだ。

　カルヴァスが熾（おこ）した焚火の傍に座り込み、マリーエルは長い息を吐いた。アメリアの動きもどこかぎこちない。

　道中、二度宿を借り、野営を三度経験したマリーエルの体は強張っていた。

「こんなに移動したのにカルヴァスは元気だね。体痛くないの？」

「オレにはこれが日常なんだよ」

　せっせと荷をまとめたりしているカルヴァスは、何てことはないとばかりに答えた。

　マリーエルは食事を取りながら、痛みを絞り出すように再び息を吐いた。

「姫よ、そのような調子では先が思いやられるぞ」

　マリーエルの外套についた帽子から、アールが顔を覗かせて言った。

「お前はずっとマリーの帽子の中で寝てるから何も痛めようがないよな」

　カルヴァスの言葉に、アールがヂッと声を上げる。

「なんじゃと、儂が怠けているとでも言うのか、火の小僧よ！」

「実際怠けてるだろ」

「儂の役目は姫を導き見守ること。十分役目は果たしておる！」

「さっきまで目剥いて寝てたじゃねぇか」

「何を言う！　この儂が顕現するのにどれだけの力が必要だと思っておるんじゃ」

　出立して数日の内に、カルヴァスとアールは何かと張り合い、言い争う関係になっていた。カルヴァスは、精霊であるアールを敬おうという考えを早々に捨てたらしい。

「……うるさい。静かにしろ」

　カナメが苛立ちながら言うと、カルヴァスとアールが「あぁ？」と口を揃える。

　そのやり取りを眺めながら、マリーエルはホッと息を吐いた。賑やかな言い合いも、今のマリーエルにとっては気分を紛らわせるのにぴったりだった。体の痛みはなくならなくとも、不安な気持ちが遠ざかっていく気がする。

　その時、ふと粘っこい気配を感じたマリーエルは顔を上げた。

　森の奥に目を向け、それを探る。森は不自然な程に静まり返っていた。アールが毛を逆立てる。

「姫よ、感じたか？」

　周囲により深く意識を向けると同時に、ゾクリとした感覚が背筋を走った。

　ガサガサと音を立て、暗闇の中から血色の瞳が覗いた。

「狼か……いや、待てよ、様子がおかしい」

　剣を構えたカルヴァスが、警戒を含んだ声で言った。カナメがマリーエルの許へ駆け寄ってきて、すぐ近くの木の下まで後退させる。

　ゆらりと現れた狼達の体は、ぬらぬらと焚火の色を返していた。千切れた脚を引きずっているものも居る。本来の脚の代わりに地を踏むのは蠢（うごめ）く影だ。

「影憑きか……！」

　カルヴァスの声に、狼達はぎこちない動きで顔を向けた。

　マリーエルの肩に跳び乗ったアールが、狼達を見据えながら言った。

「良い機会じゃ。姫よ、奴らを祓うぞ」

「は、はい！」

　狼は凄まじい速さで距離を詰めるとその牙を剥いた。それをカルヴァスが炎剣で迎え討つ。

　マリーエルは杖を構え、崩れ落ちる狼の体に、精霊の力を導いた。地から生えだした草木が狼の体を捕らえ動きを止める。凍るような気配に意識を向け、それを包み、引きはがそうとした。

　しかし、あまりに強い反発にマリーエルは顔を顰（しか）めた。

「駄目……影を祓えない」

「影の力が強くなっておるということか……。小僧よ、はよう影を弱めんか！」

「判ってるよ！」

　カルヴァスの炎剣が狼達の間で舞う。

　肉塊と化した狼の体は、それでも震え、起き上がる。腐った血が流れ落ち、地を穢す。損傷した箇所は影が補い、繋ぎ合わせていく。牙を剥き出しにした口からは呼吸音すら聞こえてこない。命在るモノとして歪な姿だった。

　カナメの鋭い一閃が、マリーエルに飛び掛かろうとした狼に突き刺さる。

「あ、ありがと――」

「まだだ……！」

　カナメはマリーエルの腕を引くと、その背後に剣を突き出した。小刀を構えていたアメリアが息を飲む。そのすぐ目の前まで狼は迫っていた。細剣に突き刺された狼の体は影を滴らせ、抗うように揺れる。細剣が胴体を斬り裂き、立て続けに襲い掛かる狼の牙を、カナメは細剣で受け止めた。

「そろそろどうだ、マリー⁉」

　カルヴァスが剣を揮い、狼を斬り上げながら叫んだ。狼達は斬り裂かれ、最早影の塊と化していた。その影も薄れ、霧散し、崩れ始めている。

　マリーエルは周囲の気を探った。影の気配は弱まっている。

「うん、やってみ――」

　その時、突然強く背を押され、ぬかるむ地に倒れ込んだ。背中に温かい感触がある。

「──アメリア⁉」

　バサバサという音が聞こえ、アメリアのくぐもった声が耳元で呻く。

　マリーエルに覆い被さるアメリアの腕の間から、鳥の形をした影が辺りを旋回しているのが見えた。視界の端でカルヴァスがこちらに足を踏み込んだのが判った。しかし、その向こうにはまだ血色の瞳が鈍い光を放ち、牙を剥いている。

「カルヴァス後ろ！」

　マリーエルが叫ぶと、カルヴァスは踏み出した足を軸に、すぐ後ろまで迫っていた狼を鋭く斬り上げた。

　──影の鳥達を、なんとかしなくちゃ……！

　アメリアの体温を感じながら、マリーエルは精霊の力を集めた。溜め込んだ精霊の力を自身の周りに解き放つと、妙に軽い音を立てて鳥型の影が落下する。影色の羽が辺りに散らばり、霧散した。

「アメリア、影の鳥は──」

「マリー……！」

　慌ててマリーエルを抱き起こし、全身に目を走らせるアメリアと目が合う。傷だらけだった。

「庇ってくれて有難う。アメリアは大丈――」

「あぶねぇ！」

　その声に振り向くと、戦いに巻き込まれた霊鹿がすぐ目の前まで迫っていた。咄嗟のことに、マリーエルは思わず目をぎゅっと閉じた。

　ガリガリと削れる音と、甲高いいななき、熱い息と風圧を鼻先に感じる。

「後ろがガラ空きだ」

「へっ、言ってら。余計なお世話だぜ」

　目を開けると、霊鹿の手綱を握ったカルヴァスと、その背後に迫った狼の体に剣を沈めたカナメの姿があった。

　狼の頭部がずるりと滑り、焼けた傷口を見せて転がり落ちたのを見やり、カルヴァスがカナメにニヤリと笑う。カナメは呆れたようにそれを見つめ返した。

「立てるか？」

　差し出された手に掴まり、立ち上がる。

「有難う、カルヴァス」

「ったく、踏み潰されそうって時に目を瞑（つむ）る奴があるか」

「だって……」

　言い訳も出来ず口を尖らせたマリーエルの肩に、木の上に避難していたアールが跳び乗った。その小さな手でマリーエルの頬を軽く叩く。

「姫よ、まだ終わってはおらん。あれらを祓い、この地を清めねばな」

　狼の亡骸はぐずぐずと影と混ざり合い、うずくまっている。放っておけばまた影によって歪に繋ぎ合わされてしまうだろう。しかし、反発する力はもう僅かしかなかった。

　マリーエルは跪き、杖を構えると、精霊の力を導いた。

　亡骸から影が引きはがされ、霧散する。肉が溶け、現れた骨格が風に吹かれ、徐々にひび割れて崩れ落ちる。

　ふっと空気が軽くなり、息を潜めていた鳥や虫達の声が戻った。

　精霊の気が満ち、整い、巡るようにこの地の気を調律する。

　心地よい風が吹き抜けた。

「これで、調律は……」

　マリーエルが長い息を吐いてうずくまると、アメリアがそれを抱き止め、顔を覗き込んだ。心配そうな顔が視界の中で滲み、ぐにゃぐにゃと揺れる。

「エランの町までは、あとどのくらいかかるかしら」

　アメリアがカルヴァスを見上げ、呟くように訊いた。カルヴァスは、周囲を見回してひとつ息を吐いてから、散っていた焚火を再び熾し始めた。

「今はまず休もう。こんな状態で影憑きに遭う方が危険だぜ。エランまであと一日も掛からない。日が出るまで待とう」

「俺は周囲を見回って来る」

　カナメが剣を手にカルヴァスに言った。

「頼む」

　聞いているうちにマリーエルの体は耐えがたい程に重たくなった。それ程に力を使い果たしている。アメリアに引かれるままに横たわった。いちいち倒れている暇はないのに、と焦りが募るが目蓋が重い。

　溺れるように眠りに落ちた。