エトルタ -1946-
エトルタは小さな漁村。
白亜の断崖からは英仏海峡を一望する静かな村。
観光客の多くはこの場所からの眺めに溜め息をつく。
美しい世界。
ほんの5年前の出来事を知らない旅人達は、この当たり前の平和を当たり前と思うだろう。
いや、それでいい。
それが当たり前の世の中が正しいのだ。
今日も此処には嬌声が響いていた。
そんな中、喧騒を外れた女性がひとり。
地元の人しか訪れないような閑静な場所だ。
木漏れ日の射し込む並樹の道を進む。
女性が足を止めた。
「約束したままちっとも取りに来ないのですもの」
シャルロットだった。
彼女は大きな花束を抱えて立っていた。
「貴方にお似合いの花を見つけたのよ」
差し出した花は大輪の薔薇。
シャルロットはしゃがみ込むと石碑の前にそっと置いた。
その石碑にはかつての大戦で村を護った英雄の名が、その階級と沢山の謝辞と賛辞と共に刻まれていた。
フランスでナチスの将校を讃えた石碑だけにこんな人気の無い場所に建てられたのだろう。
それでも建立した事に村人の感謝の気持ちが感じられた。
クラウス・フォン・エアハルト少将
私達はその勇気に感謝します。
私達はその正義の心に感謝します。
私達は貴方の築いた未来に恒久の平和を守ります。
忘れない貴方の事を・・・
「ー愛しい人ー貴方にはこの言葉だけで十分よね」
シャルロットは石碑の文字を指で辿りながらそう呟いた。
頬を熱い雫が流れた。
想いが、その全てが溢れるかのように止まらなかった。
たった2日。
いや、ほんの数時間。
手を握りあった事すらない。
互いの気持ちすら告げる間もなかった。
愛するという気持ちに、費やした時間などは意味を成さない。
その想いの深さのみが愛を司るのだろう。
シャルロットはこの涙を止める術を知らなかった。
立ち上がる事が出来ないシャルロットの背後から声が掛けられた。
「気分でも悪いのですか?」
「大丈夫です」
振り返るとバケツを持った男性が立っていた。
その隣には男の子が居た。
手には摘んだばかりの花が握られている。
「この村の方ですか?」
シャルロットの問掛けに男性は頷き答えた。
「昨年、イギリスから移住しました」
「移住ですか。ご苦労したでしょう」
「数字の数え方位ですかね、苦労した、いえ、苦労しているのは」
男性は苦笑した。
「ただ、恩人の眠る場所ですから」
そう言うと男の子の頭を優しく撫でながら石碑を見た。
「この子には何度も聞かせた話しですがね・・・」
男性はクラウスとの空での出来事を語った。
「ありがとう」
クラウスの最期を聞いたシャルロットはそう言うと優しく微笑んだ。
涙は止まる事なく流れ続けていたが、それは哀しみだけではない。
男の子が花を差し出した。
「今日はキレイな薔薇があるから、これお姉さんにあげる。あの薔薇の名前は何て言うの?」
シャルロットはもう一度微笑むと薔薇の名を告げた。
「ピース。あの人の望む世界の名前よ」
柔らかな風に薔薇の薫りがそっと辺りを包んでいた。
-了-
薔薇の名前 浅見カフカ @Asami_Kafka
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