第8話 名刺代わり

あの事件から一年が経っていた。


高村悟は新しい建設現場の事務所で、設計図を広げていた。ここは都心の再開発プロジェクトで、かつてのノヴァ・タワーよりも規模は小さいが、重要な仕事だった。


「監督、資材の到着が遅れています」


若い作業員が報告に来た。高村はうなずき、対応を指示した。彼の様子は落ち着いており、かつてのあの不安げな表情は消えていた。


現場を巡回していると、一人の作業員が近づいてきた。


「監督、ちょっと気になることがありまして」


「どうした?」


「地下階で変な音がするんです。コンコンというような」


高村の心臓が一瞬、早鐘を打った。しかし、彼は深呼吸をして平静を装った。


「詳しく話してくれ」


作業員の説明を聞きながら、高村は自分がかつての木下の立場になったことを実感した。今や彼は、経験を積んだ現場監督だった。


夜、事務所で一人になると、高村は引き出しから古びたノートを取り出した。あの西山監督の日誌だ。彼は時折、この日誌を読み返し、自分を戒めていた。


携帯が鳴った。美雪からの着信だ。


「高村さん、お元気ですか?」


「ああ、新しい現場に慣れてきたところだ。美雪さんは?」


「資料館の運営が順調です。先日、地元の小学生たちが見学に来てくれました。あの土地の歴史を伝えることができて、嬉しいです」


美雪の声には、以前にはなかった力強さが宿っていた。彼女は祖母の意志を継ぎ、土地の記憶を守る役目を果たしていた。


「ところで、高村さん。最近、何か変なことはありませんか?」


高村は一瞬ためらった。


「なぜそう聞く?」


「昨夜、祖母が夢に出てきたんです。『影は完全には消えていない。高村さんが気をつけるように』って」


高村は地下階の変な音のことを話した。


「気のせいかもしれない。だが、注意はしておく」


電話を切ると、高村は日誌の最後のページを見つめた。そこには、西山監督の最期の警告が記されていた。


「この経験を、未来へ伝えよ」


次の日、高村は単身、地下階へ向かった。懐中電灯を手に、音のした方向へ進む。しかし、何も異常は見当たらない。


「幻聴か?」彼は呟いた。


その時、背後で物音がした。振り返ると、そこには木下が立っていた。


「木下さん? なぜここに?」


「たまたま近くに用事があって。ついでに顔を出そうと思って」


木下は笑った。しかし、その笑顔にはどこか不自然さがあった。


「現場は順調ですか?」


「ああ、問題ない」


二人が話していると、再びコンコンという音が聞こえた。


「今の、聞こえましたか?」高村が尋ねる。


木下の表情が曇った。


「聞こえました。あの音ですね」


高村は警戒する。


「木下さん、あなたは本当に木下さんですか?」


「何を言っているんですか? もちろん私です」


しかし、高村は気づいた。木下の影が、不自然に長く伸びていることに。


「あなたは影だな」


「木下」の表情が歪んだ。


「さすが、経験者だ。見破られたか」


その姿はゆらめき、黒い影へと変貌した。


「なぜまた現れた? お前たちは去ったはずだ」


影はくねくねと動いた。


「完全には去っていない。小さな欠片が、この土地に残っていた。そして今、新たな建設が始まり、我々は目覚めた」


「この現場には何の関係もないはずだ」


「全ての土地はつながっている。特に、お前のような者が関わるところではな」


高村は覚悟を決めた。もう逃げるつもりはない。


「では、もう一度始末をつけよう」


影は嘲笑した。


「面白い。しかし、今回は鏡もない。どうするつもりだ?」


高村は胸のポケットから、小さな欠片を取り出した。あの鏡の破片だ。


「これがあれば十分だ」


影が後ずさりする。


「あの鏡の……しかし、小さすぎる。我々を封じる力はない」


「封じるつもりはない。話し合うために持ってきた」


影は驚いたように止まる。


「話し合う? 人間が我々と?」


「そうだ。お前たちは本当は何が欲しい? なぜ現実に介入する?」


影はゆらめきながら答えた。


「我々は元の場所に帰りたい。しかし、道がわからない。この世界に引きずり込まれ、迷子になった」


「では、道案内をしよう。ただし、約束してほしい。二度と人間の世界を乱さないと」


「なぜ我々を信じる?」


「お前たちはかつて、守護神だった。その本性は悪ではないはずだ」


影は沈黙した。そして、ゆっくりと語り始めた。


「我々は長い間、孤独だった。人間は我々を恐れ、封じようとするのみ。話し合おうとする者は、お前が初めてだ」


「では、これを機会にしよう。お前たちを元の場所に帰す手助けをする。代わりに、もう二度と現れないでくれ」


影は考慮するようにうねった。


「約束しよう。ただし、一つ条件がある」


「どんな条件だ?」


「我々の存在を、完全に忘れるな。記憶の中に、ほんの少しでいい、場所をくれ」


高村はうなずいた。


「わかった。私はお前たちのことを、決して忘れない。この経験は、私の一部だ」


影は満足したように輝いた。


「それならば、我々は去ろう。お前の誠意を信じて」


影は薄れ、消えていった。そして、コンコンという音も止んだ。


高村はほっと肩の力を抜いた。今回は戦う必要はなかった。対話で解決できたのだ。


事務所に戻ると、本物の木下から電話がかかってきた。


「高村さん、ちょっとした用事で近くまで行くんですが、顔を出してもいいですか?」


高村は笑った。


「今来たばかりじゃないか?」


「え? まだ向かっていませんよ」


「わかっている。冗談だ。いつでも来てくれ」


電話を切ると、高村は深く考え込んだ。影との対話は、単なる幻覚ではなかったか? しかし、鏡の欠片が温かく輝いている。あれは現実だった。


数日後、高村は美雪を訪ねた。資料館は静かで、いくつかの来館者がいた。


「あの音の正体がわかった」高村は影との対話を話した。


美雪は驚いた。


「それで、もう大丈夫なんですか?」


「ああ、約束した。彼らを記憶にとどめ、二度と現れないように」


美雪は資料館の展示ケースを指さした。


「ここには、あの事件の全てを記録しています。でも、影従様については、曖昧にしか書いていません」


「それでいい。真実を全て知る必要はない。だが、教訓は伝えなければ」


その時、一人の老人が近づいてきた。


「すみません、この資料館について質問があります」


老人は西山家の系図を見つめていた。


「私は西山家の遠縁者かもしれません。父が、かつてこの土地に縁があったと言っていまして」


美雪と高村は顔を見合わせた。


「お詳しいですか?」美雪が尋ねる。


「父の話では、曾祖父の代で縁が切れたそうです。でも、土地のことを気にしていました」


老人の名は西山幸造という。美雪の又従兄弟にあたる人物だった。


「あなたが土地の相続をされたと聞いて、挨拶に来ました」


美雪は幸造を歓迎した。土地の絆が、新たにつながった瞬間だった。


高村はそれを見て、ある考えが浮かんだ。


「美雪さん、この資料館を、単なる記録の場所ではなく、人々をつなぐ場にしてみないか?」


「どういう意味ですか?」


「土地の歴史を学び、未来を考える場に。建設関係者や地域住民が集い、語り合う場に」


美雪の目が輝いた。


「素敵なアイデアです。曾祖父も喜ぶでしょう」


それから数ヶ月、資料館は少しずつ変化した。定期的に勉強会が開かれ、建設業界の関係者や学生たちが訪れるようになった。


高村はそこで、時折講師を務めた。彼の経験は、貴重な教訓として語り継がれた。


ある日、高村は新しい建設現場で、不可解な問題に直面した。資材が次々と行方不明になるのだ。しかし、彼は慌てなかった。


まずは作業員たちの話を注意深く聞き、現場を詳細に調査した。そして、単純な管理ミスが原因であることを突き止めた。


「監督、どうしてそんなに落ち着いているんですか?」若い作業員が尋ねた。


高村は微笑んだ。


「経験だ。かつて、もっと不可解な現象を見てきたからな」


彼はあの事件の詳細は話さなかった。しかし、その経験が今の自分を形作っていることを実感した。


夕方、高村は事務所で一人、日誌を書き続けていた。西山監督の日誌にならい、自身の経験を記録していた。


「今日、資材の紛失問題を解決。単純な人的ミスだった。しかし、かつてならオカルト的な原因を疑ったかもしれない。経験とは、判断力を研ぎ澄ませるものだ」


書き終えると、彼は日誌を閉じ、窓の外を見た。建設中のビルが夕日に照らされ、輝いていた。


携帯が鳴った。見知らぬ番号だった。


「もしもし、高村監督ですか? 私は〇〇建設の者ですが、あなたの評判を聞きまして。ちょっと相談したいことがありまして」


高村は少し驚いた。彼の名が、いつの間にか業界内で知られるようになっていた。


「どんなご用件ですか?」


「実は、とある現場で不可解な現象が起きていまして。あなたの経験を活かしていただけないかと」


高村は苦笑した。彼はもう、オカルト現象の専門家と思われているようだ。


「まずは現場を見せてください。ただし、ほとんどは合理的に説明できる現象ですよ」


次の日、高村は依頼のあった現場を訪れた。若い現場監督が、悩みを打ち明ける。


「工具が消えたり、謎の音がしたり。作業員たちが怖がって、仕事に集中できないんです」


高村は現場を注意深く観察した。そして、簡単な解決策を提案した。


「照明を増やし、整理整頓を徹底してください。ほとんどは、暗がりと錯覚が原因です」


若い監督は半信半疑だった。


「それだけで?」


「まずは試してみてください。それで解決しなければ、さらに調査を」


一週間後、若い監督から感謝の電話がかかってきた。


「高村さん、ありがとうございます。現象はほとんど収まりました。やはり、環境の改善が効果的だったんです」


高村は満足した。彼の経験が、無駄ではなかった。


その夜、高村は美雪と木下を招き、資料館で小さなパーティーを開いた。


「今日で、あの事件からちょうど一年半です」美雪がグラスを掲げた。「私たちは多くのことを学びました」


木下もうなずく。


「あの経験がなければ、今の私はいません。高村さんには感謝しています」


高村は照れくさそうに笑った。


「私こそ、皆に助けられた。一人では何もできなかった」


三人は談笑し、過去を振り返った。苦い記憶もあったが、それら全てが今の自分たちを形作っていた。


パーティーが終わり、高村は一人で資料館の展示室に残った。そこには、あの古い日誌のレプリカが展示されている。


「西山監督、あなたの警告は無駄にはなりませんでした」


すると、微かな風が吹き、展示ケースのガラスがかすかに輝いた。まるで、答えているかのように。


高村は資料館を出ると、公園を歩いた。月明かりの下、ベンチに座る老人の姿が見えた。


近づくと、その老人は西山義雄、美雪の曾祖父にそっくりだった。


「あなたは?」高村は尋ねた。


老人は微笑んだ。


「私はこの土地の記憶だ。お前の行動を見守っていた」


「影従様は?」


「去った。そして二度と戻らない。お前の対話が、彼らを解放した」


高村は安堵の息をついた。


「これで終わりですか?」


「一つの章が終わっただけだ。お前はこれからも、多くの現場を見るだろう。その度に、この経験を活かせ」


老人は次第に透明になり、消えていった。


高村は空を見上げた。満天の星が輝いていた。


翌日、高村は新しい現場で、若い作業員たちを指導していた。


「監督、あなたはどうしてそんなに落ち着いているんですか?」一人が尋ねた。


高村は考え込み、静かに答えた。


「経験だ。そして、経験を未来へ伝える責任だ」


彼はポケットに手をやり、鏡の欠片に触れた。それはもう、単なる思い出の品ではなく、彼の信念の証となっていた。


現場監督として、一人の人間として。


彼の経験は、もはや名刺代わりだった。どこへ行っても、彼の一部として語り継がれるだろう。


そして、新たな日が始まる。高村悟の物語は、まだ終わらない。

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現場監督の手記に残る最期の警告 @tamacco

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