焼き付き

ささやきねこ

記録媒体:施設管理用業務端末/深夜清掃ログ抜粋

Module L: Log & Dialogue


担当:後輩(男性)

場所:湾岸第七ターミナル駅ビル・三階 公衆トイレ


1. The Smudge(落ちない汚れ)


深夜一時二十三分。

終電もとっくに過ぎた駅ビルは、消毒液と古い水垢の匂いだけが残り、蛍光灯の低い唸りが天井にこびりついていた。人の気配が消えたトイレほど、清掃はやりづらい。静かすぎて、自分の呼吸音がうるさく感じる。


洗面台の前にずらりと並んだ鏡を、先輩と二人で端から拭いていく。ただのルーチン業務だ。誰もいないはずの場所に、延々と「自分」が並ぶだけの作業。


ところが、三枚目の鏡だけ、どうしても白く曇った指の跡が取れない。乾いた布でも、薬剤を含ませた雑巾でも、同じ場所に薄い影のような汚れが残る。


「先輩、この手垢……裏側についてるみたいに取れません」


俺が声をかけると、先輩はちらりとこちらを見ただけで、ため息もつかずに言った。


「ああ、それは焼き付きだ。同じ顔を映しすぎたんだろ。強く擦れば消える」


焼き付き。

モニターみたいな言い方だな、と思いながら、俺は言われた通り、少し力を込めて円を描くように擦り続けた。



2. The Resolution(解像度の低下)


ふと、布越しに映る自分の顔が気になり、手を止めた。


……ぼやけている。


汚れのせいではない。輪郭そのものが、どこかギザギザしている。テレビの電波が悪いときの、あの不安定な輪郭。老眼でも、疲れ目でも説明がつかない種類のぼやけ方だった。


俺は一度、強く瞬きをした。


鏡の中の俺も、瞬きを――

ワンテンポ遅れて、した。


胸の奥が冷たくなる。


「先輩……俺の顔、変じゃないですか?」


声が自分でもわかるほど上ずっていた。

先輩は雑巾を絞りながら、鏡越しに俺の顔を見る。


「同期中なんだよ。動くな。失敗するとデータが飛ぶぞ」


データ?

何の話だ、と聞き返そうとしたが、先輩の声には冗談めいた調子がなく、むしろ機械の調子を気にするエンジニアのそれに近かった。


俺は言われるまま、洗面台の前で動かずに立ち尽くした。



3. The Peeling(剥離)


先輩は作業台から、業務用のスクレイパーを取り出した。ガラス清掃に使う、幅広のヘラだ。


「ちょっと削るぞ」


軽い調子で言って、問題の汚れに先端を当てる。


カリ……

カリカリ……。


不快な音が、静まり返ったトイレに響く。ガラスを削っているはずなのに、砕けるような音がしない。代わりに、何か乾いた有機物を削るような音がする。


やがて、ヘラの先に、透明な薄い膜がめくれ上がってきた。


ビニールでも、ラップでもない。

人の顔の皮のように薄く、微妙な起伏がある。目のくぼみ、鼻梁のかすかな盛り上がり、口元の輪郭まで、うっすらと残っている。


「……これ、なんですか」


思わず呟くと、先輩は当たり前のように答えた。


「バックアップのカスだ。定期的に剥がさないと、容量オーバーで鏡が割れる」


膜は、光に透かすと、内部にモザイク状のノイズが走っているのが見えた。生体の質感と、デジタルの崩れが、同じ一枚の中に同居している。


それが、俺の顔の形をしていることに、気づいてしまった。



4. The Swap(入れ替わり)


先輩が剥がしたそれを、俺は無言でゴミ袋に受け取った。

その瞬間だった。


鏡の中の俺が――

ニヤリと笑った、気がした。


反射的な表情の変化ではない。俺は口を動かしていない。それなのに、鏡の向こうでは、口角が意志を持ったようにゆっくりと吊り上がっていた。


しかも、その「俺」は、異様に高精細だった。毛穴の一つひとつ、血色、目の湿り気まで、現実の俺よりもはっきりと存在感がある。


対照的に、ゴミ袋を持つ俺の手が、視界の端で色を失っていくのがわかった。灰色にくすみ、紙のように乾燥し、触覚が遠のいていく。


「……先輩、俺……」


言葉にならなかった。


先輩が、低く、しかしはっきりと告げる。


「おい、あまり見つめるな。あっちに‘権限’を持っていかれるぞ」


権限。

所有権でも、主導権でもなく、存在の管理権のような響きだった。


俺は慌てて視線を伏せた。

鏡から目を逸らした瞬間、背後で、薄い電子音のような「ピッ」という音がした気がした。



5. Ending(オリジナルはどちらか)


作業はその後、何事もなかったかのように続いた。


問題の鏡はピカピカになり、誰もいないトイレの空間だけを映している。

俺の顔は、もうそこには映っていない。


先輩は普段通りに道具を片付け、「お疲れ」とだけ言って先に出ていった。何かを説明する気は、最初からない様子だった。


帰り道、駅ビルのショーウィンドウ、閉店した店のガラス、タクシーの窓、スマホの黒い画面。

俺は、それらすべてを見るのを避けながら歩いた。


ふと映ったとき、映っているほうが本体で、歩いている俺のほうが影なのではないか──そんな感覚が、ずっと離れなかったからだ。


夜風に吹かれながら、自分の頬に指を当てる。


……少しだけ、指が沈み込む。


ピントの合わない写真に触れているような、

実在とデータの境目が曖昧な感触。


どちらがオリジナルか、もう確かめる術はなかった。

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