雨と僕とミュージック

夏空 青

雨と僕とミュージック

 雨が降っていた。時刻は夜中の11時。街灯を頼りに、自転車を引いて歩いた。水分を纏ったシャツが体に張り付き、鬱陶しいと思った。自転車のライトが照らしたコンクリートには、墨汁のような色をした水たまりが波紋を作っている。先刻までは土砂降りだったというのに、今はもう一滴も降っていない。青葉から滑り落ちる水滴が、波紋を作る水たまりが、唯一の雨が降っていた証拠だ。

「疲れたな」

 思わず溢れた呟きに、言葉は返ってこなかった。当たり前だ。独りなのだから。孤独なのだから。

 

 ぱしゃん、ぱしゃん。


 水たまりを踏みしめる。水に反射した街灯がぐにゃぐにゃに歪んで、また元通りに写る。なぜだか、いつもより帰り道が長く感じる。足が重い。右腕にかかったビニール傘を一瞥して、こんなに濡れてしまうのならわざわざ買わなくても良かったのではないかと、今更ながら後悔をする。でも、それで終わりだ。明後日になれば、今日を思い出すこともないだろう。


  

 濡れた手で鍵を開けた。髪の毛から滴り落ちる水滴に嫌気がさした。ああ、これだから雨は大嫌いだ。


 ぱち。


 スイッチを押した。電気はつかない。そうだ、電球が切れていたんだった。ああ、今日は何も上手くいかない日だ。

 濡れた服を洗濯機に投げ入れて、風呂に入って、髪の毛を乾かして、少し硬いアイスを頬張る。いつもと変わらない毎日。何も上手くいかない毎日。憂鬱な毎日。そんな毎日を、僕は生きている。それで満足だ。そのはずだ。……でも、なにか、違うような。いや。考えるのはやめよう。劣等感の連鎖が始まってしまう前に、僕は食べきったアイスの棒をゴミ箱に沈めた。裸になった木の棒には、うっすらとチョコレートの茶色が残っていて、酷く後悔した。でも、明後日には忘れているんだろう。そうして、薄暗い部屋の中、僕は今日を終えた。

 

 堀海斗、大学2年生。好きなことは、音楽を聴くこと。それでも、CDは一枚も持っていないし、専門的な知識も、楽器を弾く技術もない。しょうもないほど平凡な、ただの人間だ。下の名前で呼ばれるほど仲の良い友人もおらず、それを悩みだとすら思っていない、退屈な人間だ。このくだらない人生を変えようと躍起になることも、人生を終わらせようと自ら命を絶つ度胸もない。こんな人生を生きているのは自分のせいで、生きていられるのも自分のおかげだった。


 電車に乗って、あくびを一つ。空いた車内の大きな窓は、田舎の田園風景を色濃く映し出す。それに背を向けて、不思議な模様をしたシートに腰掛けた。重力の赴くまま、やる気なく垂れている黒のリュックサックは隣に座らせた。このリュックサックの中には折り畳み傘が隠れている。今日は天気予報をよく見てきたから、雨が降ることを知っていた。窓を覗くと、まだ昨日の雨の残骸が残っていた。曇り空、湿ったコンクリート、水分量の多い空気、どこもかしこも、雨によって様変わりしてしまったようだ。そのまま5分電車に揺られたら、隣町に着く。僕が住んでいる町よりは栄えているので、暇つぶしに来ることが多かった。

 県内で1番大きいショッピングセンター、その地下一階。CDショップに足を踏み入れて、抑えきれない興奮をつま先に込める。早歩きで好きなアーティストの頭文字を示したプレートを探して、英字の羅列を指でなぞりながら、瞼に焼き付けたバンド名を見つける。スカしたバンドマン4人の写真に、キザなアルバム名を貼り付けたジャケットは、僕の脳内を「カッコいい」の5文字で埋める。買おうかな、いや、買うんだ、今日こそ。

「でも別に、サブスクで聴けるじゃん?」

 左耳からそんな声がして、ふと隣を見る。誰もいなかった。幻聴だった。ただ、自分の本心は「でも別に、サブスクで聴けるじゃん?」だった。いや、でも。3時間だ。3時間バイトすれば、こんなものすぐに買える。一日シフトに入ればすぐに稼げる。……だけど、サブスクで実質無料で聴けるのに、ここで金を消費する理由はなんだ? 英字で構成されたバンド名たちの間に、カタカナ6文字の大好きなバンド名をしまう。その背表紙を愛おしく指でなぞって、一つため息を吐いた。万引きを防止するために設置されたゲートの間を、少し怯えながら通過して、音沙汰のない薄っぺらな機械に安堵する。結局、僕の財布が陽の光を浴びることはなかった。その時感じた寂しさも、どうせ明後日には忘れているのだろう。

 そのままエレベーターに乗って最上階へ。そこには小規模な楽器屋がある。主にギター、時々ベース。電子ドラムは店内の隅っこに一セットだけ置かれている。ギターコーナーまで足を運び、壁に並んだギターの数々を眺める。視界の端の方で、ヘッドに「Gibson」と書かれた茶色のレスポールを試奏する前髪の長いオッサンがロックを鳴らしていた。妙に長い人中と、口の中で舌を頬に押し当てている顔に不快感を覚えて、「どうせ買えないくせに」なんてことを思う。自分が1番「どうせ買えない」のに。

 壁に並んだテレキャスターの中で1番カッコいいヤツに視線を集中させる。脳内で、このテレキャスを軽快に掻き鳴らす自分を思い浮かべて、そろそろギターを始めてみようかと思い立つ。店員に初心者セットのススメを尋ねようとすると、店内の端で電子ドラムを叩く少年が目に入った。好奇心でデタラメに叩いているわけではかった。野太い声で「ワン、ツー!」とでも言い出しそうなぐらい様になっている、小学生ぐらいの、バスケのユニフォームみたいな黒のタンクトップを着た少年だった。

「今からギターとか、始めるのが遅いから。お前が好きなバンドマンは、中学生のうちにはギター始めてたじゃんか」

 また左耳から、僕の声が聞こえた。やっぱりギターは辞めておこう。もう、そんな気軽に「やりたい」なんて言える年齢じゃないのだ。そう自分を納得させた。店を出る時、さっきまで嘲笑していたあのオッサンのロックが、少しカッコよく聴こえた。これもきっと、明後日には忘れているのだろうけど。

 チェーンの喫茶店に入って、話題の新作を注文する。真っ白のワイヤレスイヤホンを耳に差し込んだら、あのボーカルの尖り散らした声が聞こえてくる。下劣な歌詞を歌うハスキーボイスは、僕の心を大きく震わせた。彼も僕と同じ人種な気がした。新作の味は、新作の味だった。いつもの、あまったるくて、クリームが乗っていて、やけにカロリーだけが高い飲み物だ。いつしかの新作と同じ味。「甘くてクリームが乗る暖かい飲み物」というジャンルさえ作り上げられたというのに、いつもの新作となんら変わりがない新作がここまで話題を呼ぶのは、ブランド効果と「新作」という日本人の心を揺さぶるワード、そして現代に調和が取れる「映え重視」のビジュアルがあるからこそだろう。明後日になれば思い出すこともない、「新作」っぽい味だった。

「すみません、混んでて、相席いいですか?」

 今日初めて、自分ではない声に声をかけられた。

「あ……はい……いいっスけど」

「ありがとうございます」

 僕と同じ新作を手にした男が、向かい側の席に座った。右肩にはギターケースが背負われていた。今どき珍しい有線イヤホンをしている。左手の中指と薬指に、オレンジの小さなビニール袋を掛けていた。あのCDショップでCDを購入すると貰える袋だ。

「あー……。荷物多くてすみません。コイツ、壁に立て掛けたいので席代わってもらえたりしませんか?」

 コイツ、と指を刺されたのは、やる気に満ち溢れた黒色のギターケースだった。重力なんかに屈せず、中のギターを守るためにその形を美しく保っている。僕の背中に抱きついているコアラみたいなリュックサックは、今日も間抜けな顔をしているというのに。

「ああ、はい。すんません。気が利かなくて」

「いやいやっ! そんなことないですよ、気にしないでください」

 随分嫌味ったらしい言い方をしてしまい、謝りたくなった。いや、謝りたいのではなく、自分は本当はこんな性格の悪い人間ではないのだと弁明したかった。

「ギター、弾かれるんすか?」

 このままの印象で男の中の自分が定められてしまうのが怖くなって、精一杯の愛想を振りまいた。

「ん。これ、ギターじゃなくてベースなんですよね。俺、とあるバンドでベース弾いてまして」

「ベースってアレっすよね、あの、弦が4本の。低音出るヤツ。へぇ、なんか、カッコいいな。僕の周りにベース弾ける人いなくて、なんか、新鮮というか」

「そうですか? いやあ嬉しいな、カッコいいって言ってくれるなんて。もはや、カッコいいって言われるためにベース弾いてるまでもありますし。お兄さんは何か楽器やられてたり……?」

「しないですしないです。ギター始めてみようと思ったことはあるんすけどね、やっぱ年齢的に……と思って。でも音楽は好きですよ」

「へえ。いいですよね、音楽。聴くのも、やるのも、作るのも。全部楽しめる」

「僕は聴くことしかしないんすけどねー。平凡な人生に、少し力添えをしてくれる存在ですね、僕にとっては」

 同じ音楽好きと、音楽について語れるのは初めてだ。今まではずっと、SNSの誰にも見られない極小規模アカウントで、文字数制限ギリギリの音楽に対する持論を書き込んでいただけだったから、その時の自分よりは遥かにカッコよくて、正直、とても楽しい。

「あと、音楽っていうのは——」

 

 ピコン。


 男のスマホが振動して、画面が明るく光る。ロック画面は、彼女らしき女と、この男のツーショットだった。

「ああ、すみません。ちょっとこの後リハーサルがあって。もう少しで時間なので失礼しますね」

「リハーサル?」

「19時ぐらいからライブハウスでライブがあるんですよ。でも、ライブの前にリハーサルとか、顔合わせとかあって」

「あ、そっか。バンドやってるんでしたね」

 男は、凛々しい顔をしたギターケースを背負い、軽く会釈をして去っていく。有線イヤホンを両耳に刺した、「バンドマン」の背中をして、僕の視界から消えてしまった。何故だか、自分の片耳から垂れている無線のイヤホンがダサく感じた。

 そのすぐ後、新作を飲み干した僕は、両目をくり抜かれたゴミ箱に紙コップとプラスチック製の蓋を投げ入れて、男と同じように店を後にした。その背中は、あの男と比べて随分と情けなかった。

 ショッピングセンターを出ようとすると、外が薄暗く、雨が降っていることに気がついた。コアラみたいなリュックサックを体から引っ剥がして、カバーのついていないぐちゃぐちゃの折り畳み傘を取り出す。傘を開いて、雨の下に進む。大粒の雨がボトボトと音を立てて、黒色の傘の上に落ちていく。赤信号で止まって、ふと前を見ると、見覚えのある背中が目に入った。あのギターケース。先ほどの男だ。男は傘を刺していなかった。

「大丈夫っすか」

 僕は少し腕を伸ばして、男の顔に黒い影を落とした。小さな折り畳み傘は、男2人を入れるには小さすぎたようで、僕の右肩は今雨に打たれている。

「えっ。あっ。さっきの。うわ、助かります、ありがとうございます」

「ライブハウスまで送りますよ。ベース、濡れたら困るでしょう」

「えっいいんですか? ほんとに? えー。どうお礼したらいいか……。あ、でも、そこそこ遠いですよ。時間かかると思うんですけど」

「いや、いいんですよ。僕、急ぐ予定とかないので。この後も帰るだけだったし」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 いいことをしたと思った。久しぶりに、人の役に立って、お礼を言われて、普通の人間より少しだけ、性格のいい人間になれたと思った。

「ほんと救世主ですよ。そうだ、この後予定ないなら、ライブ見ていきますか? チケット代は要らないので。でも、ドリンク代の600円は必要になるんですけど」

「へえ。ちょっと、興味あります」

「僕らは一番最初に演奏するんで、ぜひ。コレでも割と、ファンは付いてるんですよ」

 男に教えてもらったバンド名をスマホに打ち込んで、1番上に出てきた曲を再生する。バラード調の恋愛曲だった。ボーカルの声は、高めの繊細な歌声。どこか涼しげな雰囲気で、世界観の輪郭がはっきりした曲だった。

「いい曲ですね」

「あっ、その曲、俺が作詞作曲したんです」

 彼はこんな歌詞を綴るのか。少し意外だった。その後、今日のライブで出演するバンドをいくつか教えてもらって、ライブハウスまで歩いた。僕の右肩と靴はびしょ濡れだった。

 開場までライブハウスの前で待っていると、数人が僕の後ろに並び始める。こういう場のしきたりを知らない僕にとっては、この状況は荷が重かった。

 開場後、600円を払ってドリンクを貰い、ライブハウスの隅っこに立つ。ドームやアリーナ、スタジアムなら何度か行ったことがあるが、ライブハウスは初めてだった。やがて開演し、歪みのないストラトが鳴った。ステージ上には4人組。ベース、ギター、ドラム、ギターボーカルの4人だった。一番左側に立っている黒髪のベースが、先ほどの男だ。1時間ほど前に初めて聴いた曲が演奏される。音源より少しもたついたギターに、震え気味のボーカルの歌声。高音が思ったように出ていないようで、聴いていてムズムズした。僕が大好きなメジャーバンドのライブとは、何から何までが違った。ずっと下を俯いているベースの男は、黒い前髪をしつこいぐらいに揺らして、気持ち良さそうに指を滑らせている。ドラムに振り返って下唇を噛む様子が、なんだか少しカッコよかった。二曲目に入ると、茶髪のボーカルは片手でジェスチャーができるようになるほど緊張がほぐれたらしく、歌声も安定し始めた。サビに入ると、観客は片手を大きく振り始める。そして、ステージ上の4人は長い前髪を左右に揺らす。その流れを数回繰り返して、30分後に彼らは退散した。あっという間だった。彼らのライブを批評できるほどの音楽の知識はないけれど、ただ、カッコよかった。カッコよかったのに、楽しかったのに、僕の心は晴れなかった。

「あのベースの男、お前と真逆だな」

 自分にそう言われて、この異質な感情の正体がわかった。それは複雑な感情でもなんでもなく、単純明快な、『劣等感』そのものだった。あの3000円のCDも、人中の長いオッサンのロックも、ドラムの少年も、全部カッコよかった。ブレブレな歌声のボーカルも、もたついたギターリフも、全部だ。この小さなハコの隅に立つ自分が、本当に情けなかった。この場所は、僕にとって眩しすぎる。その時思わず、ライブハウスから飛び出した。まだ外は雨が降っていた。折り畳み傘を取り出す余裕もなく、あのショッピングセンターまで走った。背中にしがみつく黒色のコアラは涙を流してびしょびしょだった。

 喫茶店で、偉そうに持論を語っていた自分を殺してしまいたい。あの時、ベースの男は僕に何を思ったのだろう。音楽が好きなのではなく、自分が大好きなのだということを、見透かされていたのだろうか。ドラムの少年は、自分の姿を見て勇気と自信を失くした成人男性の存在を知ったら、どう思ったのだろう。バカなんじゃないのかと嗤うだろうか、純粋な心で同情してくれるだろうか。どちらでも、僕が惨めなことに変わりはない。楽器屋を出る時、あのオッサンのロックがやけにカッコよく聴こえたのは、どうしようもない言い訳を並べる自分とは違う姿に憧れたからだろうか。3000円のCDを買わなかったのも、ギターを諦める理由を必死に探しているのも、ただ自分が臆病なだけだ。怖いのだ。後悔するのが。本音だと思っていた自分の声は、どれも本音を隠すための建前だった。ずっと前から、現実逃避をしていたのだ。自分は平凡な人間だと思い始めた頃から、今日まで。「平凡」という2文字で自分を正当化して、多数派だと勘違いして、臆病は自分だけではないと言い聞かせていただけ。数年間顔を合わせないようにしてきた現実が、今、雨の如く僕を貫く。昨日の夜鬱陶しく感じていたはずの雨は、頬を撫でる生暖かい液体を隠すのに好都合で、今この瞬間だけ愛おしかった。ショッピングセンターの中に入っている電気屋で、部屋の電球と有線イヤホンを買った。バイトを増やして、金を貯めよう。貯まったら、あのオッサンが試奏していたレスポールを買おう。ついでに、今日棚に戻したあのバンドのCDを一枚買おう。早速有線イヤホンをスマホに挿して、ハスキーボイスのボーカルの歌声を、脳に満たした。明後日になっても、今日のことは忘れないのだろうと、その時ふと思った。

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