僕は、君の大蒜に勝てなかった。

五月雨恋

僕は、君の大蒜に勝てなかった

 あれは、蒸し暑い夏の夜だった。すべてのシャッターが下りた商店街の道を、僕はひとり自転車で走っていた。

 先ほどまで、友人の内定祝いという名目で何の特徴もない居酒屋で腹を満たしていた。つまるところ、ほぼ満腹状態だった。


 にもかかわらず――

 一つ目の角を右に、二本目を左に折れようとしたところで、大蒜にんにく醤油の匂いが突然、強く鼻腔を叩いた。

 反射的にブレーキを握りしめて振り返った先。ビールケースに腰かけ、薄暗い街灯の下で炒め鍋を振るう君がいた。


 フライパンの底に収まりきらない炎が油を撫でている。湯気は夜気に混ざって白くふくらみ、僕の視界を曇らせた。


「珍しい形のコンロだ」

 

 曖昧な影の中から君の横顔だけが浮かび上がる。君は鍋を振る手を止めずに、黒目を少しだけ揺らして答えた。


「大きいのだとね、“中華レンジ”って呼ぶんだけど……これは、うん。ちょっと小さいやつ」


 炎がまた一度大きく跳ねる。そして、まるで当然の流れのように君は言った。


「食べる?」


 蒸気の幕をへだてて向けられた、その一言。


「……じゃあ、一口だけ」


 香りに負けたのか、君の姿に惹かれたのか。僕はためらいもなく君の誘いに乗っていた。

 

 隣のビールケースに腰を下ろした途端、「手を出して」と促される。「いや、熱いだろ」と返すと、君はわずかにねたように唇をとがらせた。

 パーカーのポケットから、一本のスプーンを取り出し、鍋をひとすくいする。潔癖気味で猫舌の僕は、ほんの少しためらいながら口を開いた。


 香ばしさのかたまりが顔いっぱいに広がり、熱と香りが耳の奥へ抜けていくようだった。肩までの黒髪を揺らし、得意げに笑う君に、僕はただ「美味い」とだけ言った。


 それから数刻。

 チャーハンをつまみに、僕たちは小さなグラスを何度も傾けた。足元には、いつの間にか空になった青島チンタオビールの瓶が転がっていた。

 僕はどうしようもなく酒に酔っていたのだろう。


「君のホットパンツは素敵だが……デニムのミニスカートなら、もっと素敵だ」


 太ももを凝視しながらそう言うと君はカラカラと笑って、「じゃあ明日はスカート履いてあげる」とだけ答えた。


 間の出来事は、正直あまり覚えていない。

 ただ、駅前広場に十三時――映画へ行こう、と約束したことだけは確かだった。


 

 翌朝。

 重たい頭を引きずり、それなりに小綺麗こぎれいに身を整えて家を出た。駅前に着くと、デニムミニスカートの君が昨日よりずっと美しい姿で立っていた。

 

「昨日は可愛かったけど、今日は綺麗だ」


 そう言うと君は恥ずかしそうに目を伏せ、「ありがとう」と小さく答えた。


 映画館ではふと瞳を閉じるたび、すぐ隣で君の存在が揺れていた。映画館を出てレストランに入りテーブル越しの距離の向こう側でも、やはり君を感じた。

 そして僕たちは、昨日と同じ薄暗い商店街の一角へ戻ってきた。


 僕は君の顔が好きだ。

 君の声が好きだ。

 君の心が好きだ。

 君の身体が好きだ。

 もちろん、デニムミニスカートも最高だった。


 影が重なろうとした瞬間、僕は問いかけた。


「君は……大蒜にんにくが好きなのか?」


 君は自信たっぷりにうなずいた。汗で張り付いた前髪すら、愛おしいと思った。


「毎日食べるのか?」


 はじけるように笑う君。

 僕は君の横髪を耳にかけ、頬を撫でる。くすぐったそうに身をすくめる君を、そのまま抱き寄せた。


 その髪から、大蒜にんにくの匂いがした。


 

 ――夏の終わり。旅先で軒先に吊るされた大蒜にんにくを見つけたとき、僕は君を思い出した。

 

 僕は君を本当に愛していた。けれど、大蒜にんにくの匂いだけはどうしても無理だった。

 君は僕を本当に愛してくれた。けれど、大蒜にんにくを毎日食べたいと言った。

 大蒜にんにくを食べること自体は問題なかった。大蒜にんにくたっぷりの手料理も、美味しかった。


 ただ──


 君自身が、もはや大蒜にんにくになっていた。

 君の家も、君の世界も、大蒜にんにくそのものだった。

 

 目を閉じれば。

 君は大蒜にんにく小屋から歩いてくる、やわらかな言葉を放つ大蒜にんにくのようだった。


「恋愛というものは、距離が近づくほど匂いが濃くなる」


 誰かが言ったその言葉が夏の残り香のように、そっと僕の頬を撫でていった。

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僕は、君の大蒜に勝てなかった。 五月雨恋 @samidareren

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