第3話



 中央リングレー出身の少年の、白い伸びやかな足がびくんと大きく震えた。

 染み一つない無垢な白。

 そういえば、ヴィノはリングレー山間の田舎の街、

 丁度中央リングレー第二の貿易都市ギリシアの近くだったと思うが、

 メリクの身体にはあのあたりの人間が多く持つ共通の特徴があまりない。

 肌の白さも、

 陽にあたると黄金色に見える栗毛も、

 ……闇の中でも輝くこの翡翠の瞳も。


 脹脛の裏に激しい裂傷の痕があった。

 今でも縫った痛々しい痕がはっきりと残っている。

 これはもう生涯消えることは無いだろう。


 あの王都サンゴールの王位継承権争いから三年の時が過ぎた。

 王都サンゴールと古都サンクルジュにそれぞれの勢力が睨み合い、不思議な静けさが国中を包み込んでいた。

 歩くことが出来なくなった少年の足はこの三年のうちにほとんどの筋肉がそげ落ち、心許なくなるほど細くなってしまった。

 傷痕に唇を這わせればそこに刃を受けた瞬間上げた少年の悲鳴が、実際に聞いたわけではないそれが、はっきりと脳裏に響いた。

 リュティスの為に命を脅かす十四歳のメリクの姿が。


 愚かなこと。


 怒りだ。

 受けなくてもいい傷を受け、自分にとってメリクがどれだけかけがえのない存在かを思い知らせた。

 それが憎らしかったのだ。


 メリクに出会うまでリュティスは一人でも平気で生きていられた。

 だがもうそれは出来まい。


 リュティスの為に死傷を負った時から彼はもう自分の半身になった。

 失えば自分は痛みに耐えかねて狂うだろう。

 そういう意味ではこれほど恐ろしく、憎むべき相手はいない。


 動かない両の脚、でも薄い皮膚の下に赤い血は確かに流れている。

 リュティスの愛撫を感じると肌は脈を打ち返す。

 確かに返す命の鼓動が、こんなにも愛しい。


 ――抱えた憎しみなど瞬く間に飲み込むほどに、強く。



 メリクが上半身を捩らせ、奥を掻き回される快感に呻いた。

 内で交り合って行くものよりも濃く、混ざり合う魔力。

 それが本来異なる個体であるはずの二つの身体を……そこに辿る魂さえを結びつける。


 あんなに強い不安だったのに、

 リュティスと繋がるだけで本当に一瞬で消え去ってしまった。


 激しく揺さぶられるその合間に感じる、リュティスから自分に対する慈愛、刹那の劣情、憎悪の影……自分を失わせていいほどに願う……鮮やかな愛情。

 

 自分の真実はこれしかないとはっきりと感じさせてくれる。

 過去も未来も自分にはこの、リュティスだけだ。


 微かに寄せた眉に触れる優しい口付け。

 貫くように鋭く刺激される奥と、

 甘やかされるように抜き出されていくその感覚。


 瞬く間に昇り詰めていく。


 幾度も辿った覚えのある高揚感にメリクは瞳を伏せた。

 自分の中の、何もかもを、達する瞬間メリクはリュティスに曝け出してしまう。


 瞳を伏せて僅かに首を反らしたメリクの仕草に、リュティスはメリクを仰向かせた。


 危ないから瞳を見るなと普段は言い聞かせながら、こうして閨にいる時向き合わせるのはリュティスだ。

 途切れそうになる意識の中、視線を感じてメリクはいつものように【魔眼】を見上げてしまう。


 暗がりの中でも鮮やかに輝く。

 なんて美しい瞳なんだろう。


 魔性を帯びた黄金の光に射抜かれた瞬間、心臓に鋭い爪を打ち込まれそのまま鷲掴みにそれを引き抜かれるような信じ難い痛みと、驚きと、……あとは、リュティスにそうされるのならいいのだという諦めにも似た感情が、甘く脳裏を痺れさせる。



 ――自分の半身。



 こんなに痛めていいのも、

 これほど愛していいのも、

 この世で自分だけ。




「……リュティス……、リュティスさま……、」



 熱に浮かされるように呼びながら、メリクがリュティスの頬を優しく撫でて来る。

 どちらともなく寄せた唇が触れ合い、重なる。


 一瞬の濁流に飲まれたメリクがふと我に返ったように瞳を開いた。

 呼び覚まされたようにメリクの翡翠の瞳にも魔性の輝きが灯っている。

 魔術師が感情で魔術を使うなど、愚かだと分かっているのに、

 感情の昂ぶりと共に発露する魔力。

 例え普段制御力にどれだけ勝っていようと、関わりない。


 それが心の、恐ろしい所なのだ。

 魔術師の心が狂えば、容易く魔力が動く。

 

 ギシ、と寝台が大きく揺らぎ見上げた暗がりにリュティスの美しい【魔眼】が輝く。

 いつもは黒い術衣に覆い隠したその長躯の輪郭が熱を帯びて淡く溶けるように見えた。


 リュティスの手が動きその首から今、王太子妃アミアカルバが、リュティスの首を切り落としてでも欲しがっているという、王位継承者の証でもある王家の首飾りを外し側のテーブルの上にぞんざいに放った。


 カシャン。


 響いた金属音にメリクは弱々しく息をつく。


 リュティスは王子であるという挟持がとても高い。

 メリクに見せる面はいつも優しいが、それでも王子であればあるほど彼は自分を諌め、律し、心を押し殺してしまう。

 そういうリュティスがこのミーシャの屋敷に移ってから、メリクと交わる時、まるで王子という位を遠ざけるようにメリクの前でその首飾りを外してみせるようになった。


 外した後にメリクの身体に与えられる愛撫は意識を失うほど激しく甘美で、それを感覚として覚えつつあるメリクはその始まりの音を聞くだけで身体が急くように反応するようになっている。


 まるで彼が、王位につく者から、ただの男に戻る儀式のようにさえ感じられた。


 リュティスはただ、メリクだけのもので、永遠にこうしてリュティスの愛情を感じて愛されていられるような気がするのだ。

 自分から手と腕を使い、上半身を僅かに起こす。

 足の使えないメリクに出来るのはせいぜいそんなことしかないが、リュティスは優しくメリクの髪を撫でてくれた。


 身体の奥も、心の奥も、

 こうやって、全てを掌握される。

 リュティスに求められていることを、強く感じる。

 幸せで堪らないのだ。


 自分に抱かれながら夢中で感じているメリクを見下ろしながら、リュティスもまた満たされていた。

 血と魔力でリュティスに王位継承者として遠く及ばないアミアカルバは、完全なる王位を狙いリュティスの命を狙い続けている。


 投げ捨てた王位継承者の証。

 あれが欲しくて王城で悶えているのだ。

 今ここに現われこれをくれと懇願すれば、自分は何ら躊躇う事無くそれを投げてやっただろう。

 それはもはや、リュティスには必要無いものだから。

 リュティスの中には王位への妄執などもうとっくに無い。


 昔は、あった。

 王位への執着というより自分の身を守るために、リュティスは優れた王子であり続ける必要があったのだ。

 両親から強く疎まれたリュティスは、力があると示すことで自分の身を守れた。

 役に立たない凡愚だと思われればメルドラン王も母妃も、自分の命を何の躊躇いも無く奪っただろう。


 だが優れた魔術師となったリュティスにはもはや、王位に執着する意味が無い。

 いや、王位に執着するほど命を脅かすのだ。


 リュティスの望みは、ただこうしてメリクを感じ、愛を与え、メリクの満たされた顔を見て自分もまた満たされる、そういう平穏で凡庸な毎日こそを永遠に過ごしたいということだけだった。


 王位などいらない。

 リュティスはメリクを手に入れた。


【完全なる器】を。


 他に何を望むものがある?


 昂揚して行くメリクの声を聞きながら、同じように満ちていく自分の心に、一度真の絶望の世界を知っているリュティスは背を震わせた。


 この存在の為に自分は王位すら投げられるのか。

 本当に、信じがたい。


 この世に自分よりも大切な人間がいるなど。



(お前は俺のものだ。

 だからお前を魘していいのも、俺だけ)



 言葉になど出していなかったのに、

 メリクが幾度も頷く。


 

(僕には、貴方だけ)



 悪夢は悪夢でしかない。

 魘される夢の先でもリュティスとは深く魂が結びついていることを感じる。


 何度身体が滅んでも。

 何度魂が眠りに落ちても。

 目覚めれば自分はリュティスを望み、彼を見つけ出し巡り会い、

 こうして優しく抱え込まれるだろう。


 これが現実だ。

 これ以外の現実など自分達には必要無い。


 そして。


「……お前を愛さないはずがない」



 翡翠の瞳が開いた。

 古の魔具が自分を見据えている。

 瞳にそのまま発露した強力な魔力。


 どくん、

 注ぎ込まれる、熱と魔力と。

 溺れるようにメリクはそれを浴びた。


 もっと。

 もっと。

 ……もっと貴方を感じたい。


 リュティスの身体を抱きしめる。


 リュティスは一層力を込めてメリクの身体を抱きしめてくれた。


「お前を愛さないはずがない」


 魔力を帯びる低い声が耳の奥を震わせる。


「……お前がお前である限り」


 見つめ合う瞳はただの瞳ではない。

【魔眼】だ。

 魔力を外界へ媒介する――すなわちそれは、

 瞬き一つで魔術に触れることが出来るということ。



「もし、お前を憎むことがあるとしても」



 翡翠の瞳がうっすらと開く。

 額が触れ合う。


 


「それならば……それすら、……お前を深く愛する為にあるはず」




 メリクは大きく頷き、自分から唇を寄せた。



「サダルメリク」



 リュティスはメリクの身体を抱き上げ自分の膝の上に抱える。

 首筋から肩の輪郭、浮かび上がる鎖骨の線に、白い身体を唇で辿る。

 

 メリクという魂の宿る、その肉体の細部までもが……愛しい。




「サダルメリク」




 魔力を帯びるリュティスの声。


 真実だけしか紡がない宿命を持つ魔術師の声だ。


 だからメリクはそれを望んだ。

 その声で呼ばれることを。

 微睡むように痺れきった脳は、ただその声だけを聞き取っていた。

 遠くなる声にメリクは無意識に両手を伸ばし、リュティスの頭を胸に抱え込んでいた。



 消えないで。

 ずっとそう、呼んでいてほしい。



 例え別の世で貴方に呪いの言葉を与えられる生があったとしても、

 その先に優しく抱き寄せられる未来があると、根拠もなくそう信じ込めるように。



 真実を紡ぐその声で。


 ぼくの名前。

 その名を。





【サダルメリク】







 ……呼んで。








【終】




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その翡翠き彷徨い【第70話 第二の予言】 七海ポルカ @reeeeeen13

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