Orbis

亜済公

Orbis

 夫とのドライブ・デートは中止になった。自宅を出発して十五分もたっていない。原因は、たった一本の素っ気ない電話だ。スピーカーから流れ出る声は「アンナさんで間違いないですね?」と端的に尋ね、それから自分を医者だと名乗った。こういうとき、アンナの予感は的中する。以前、軍隊にいたときもそうだった。吐き気と共に起床した日は、必ず仲間の誰かが死ぬ。今日も同じだ。悪夢にさんざんうなされたあと、ひどい腹痛にさいなまれたのだ。案の定、医者は淡々とした口ぶりで、最悪の現実を突きつけてきた。

 速く! 病院で母が待っている。手遅れになる前に着かなければ——そう思うと、ハンドルを握る手に力がこもった。アンナは額の汗を拭い、ひゅっ、と鋭く息を吸う。速く! 速く! 速く! アクセルを踏む。Uターンする。古ぼけたカーナビを操作して、病院への最短ルートを表示させた。自動車はエンジンを唸らせながら、高速道路へ進入する。

「ごめん。久しぶりの休日なのに」アンナは助手席に向かって、声をかける。

「気にしないでいい」眠たげな口調だった。夫は窓ガラスに頬をつけて、ぼんやりと風景を眺めている。淡い陽光が、その横顔を照らしていた。黒髪が光の加減でブルーに見える。「デートはいつだってできるんだしな」手の甲で強く目を擦った。半袖のシャツから伸びる腕は、太くたくましく、剛毛で覆われている。

「今度、埋め合わせするから」

「別にいいって」

「だって」アンナは横目で、ちらちらと夫の様子を観察する。怒っているのだろうか? うんざりしているように見えるのは、単に仕事で疲れているせいだろうか? そうかもしれない。夫の下瞼には隈があった。肌がひどく荒れていた。眉間には皺ができているし、唇はかさついている。彫りの深い顔立ちに、眠気と疲労が刻まれていた。「……だって休日まで病院にいるんじゃ、ずっと気が休まらないでしょ?」

 夫は医者だ。今は市立病院に勤めている。

「じゃ、やっぱり今日はドライブにするか?」皮肉っぽい口調でいう。「病院は後回しにして」

「それは……」

「ほらね。選択の余地なんてない。こういうのは『しょうがない』んだ。だから気にしないでいい」

「……うん」

「お義母さん、到着するまでもつといいな」

「うん」

 でも——と、アンナは唇を噛む。今日はあなたにとって、半年ぶりの休日なのに! 罪悪感と後悔とが、胸の中に渦巻いている。今日のために、どれだけの準備を重ねたことか。デートスポットの調査、天気予報の確認、友人から何時間もレクチャーを受けたし、美容院にも行った。夫が好きだというから、長い髪をばっさり切った。鮮やかなピンクに染めた。普段はしない化粧もやった。ピアスを選ぶのに一ヶ月はかかったし、シャツに合う黒い革ジャンを見つけるまで古着屋を何軒も回ったのだ。

 まったく、なにもかも台無しだった。

 アンナは唇を噛んで、アクセルを踏む。真っ青な空の下、地平線のかなたまで高速道路が延びている。見事な直線だった。巨大な定規の上を走っているようだった。他に自動車の姿はない。おかしいな——と、アンナは思う。今日は休日のはずなのに? 誰も彼も、遠出をしないで家に引きこもっているのだろうか? 幅の広い高速道路は、どういうわけか閑散としている。少し不気味だ。

 道の左右には、高い壁がそびえていた。視界を遮られているせいで、周囲の町並みを見ることができない。あるのは空と、どこまでも続く壁と、アスファルトの道だけだ。いつまで走っても、風景はまるで変わり映えしない。アンナは目を細めて、道の先をじっと見つめた。遠近法のお手本のようだ。道路はどんどん細くなって、最後は小さな点になる。

「ねぇ、こんなに長かったっけ?」助手席に声をかけた。

「……ん」夫は眠そうに、なにやらもにょもにょと口にした。やがて寝息を立て始める。口元からよだれが垂れた。すっかり弛緩した顔つきだった。戦争中とはまるで違う。平和ボケ——という言葉が頭に浮かんだ。アンナには、それが少しだけ羨ましい。

 夫と違って、自分は今でも戦争の夢を見る。ありもしない銃声を聞いて、夜中に目を覚ますことがある。日中のふとした瞬間に、どこからか銃口を向けられているような感覚に陥る。道を歩いていても、カフェで紅茶を飲んでいても、敵意に満ちた視線を感じる。自分でも気がつかないうちに涙があふれて、とまらなくなることもある。なんでもない町中で、兵隊の幻を見ることさえあった。

 そういうとき、夫はいつも抱いてくれた。彼の匂いを嗅いでいると、不思議に気が休まった。

「……よし」

 アンナは深呼吸する。こういうときこそ落ち着かないと。

 カーナビの画面に触れた。病院まであと何キロだろう? 周囲の景色が変わらないせいで、どれくらい走ったかわからない。いつもなら、そろそろ標識があってもおかしくないはずだった。ここがどこで、もうすぐどこで、その先がどこに通じているのか。一般道への出入り口も、どういうわけか見当たらない。なんだか不安だった。自分たちのほかに自動車がいないせいかもしれない。どこかで道を間違えて、変なルートに入ってしまったのではないか——まさか! ずっと一本道を走ってきたのだ。

 画面には地図が表示されている。高速道路をなぞるように、青い太線が描かれていた。病院への最短ルートだ。大丈夫、ちゃんと自動車は進んでいる。アンナがほっと息をついて、前方へ視線を戻そうとしたとき——ぷつん、と不意に画面が消えた。真っ暗なディスプレイに、車内の風景が反射している。

 どうして?

 アンナは手早く、いくつかのボタンを押してみた。画面を指先でタップした。手の平で荒っぽく叩いてもみた。けれどだめだ。うんともすんともいわない。故障だろうか?

 アンナはハンドルを握り直した。壊れたものは仕方がない。病院に行って、友人の家へ電話して、当面の問題が片付いたあとで修理を依頼すればいい。地図を見るなら、スマホでだってできるのだ。アンナは慎重に、座席の下へ手を伸ばした。決して事故を起こさないよう、ゆっくりと、道路から目を離さずに。指先がバッグに触れた。中にスマホが入っているはずだ。けれどなにかが引っかかって、うまく取り出すことができない。

 夫に取ってもらおうか? 疲れて眠っているのに? 起こしたら気を悪くするだろうか?

 舌打ちをする。落ち着こう——アンナは自分にいい聞かせた。もうじき休憩所があるはずだ。ナビがなくとも、そこまで運転するくらいできる。

 けれど肝心の休憩所は、いつまでたっても現れなかった。

 延々と道が続いている。両脇にそびえ立つ壁が、じっとこちらを見下ろしている。空には太陽が輝いていて、淡く夫の顔を照らしていた。アンナは座席の上で身じろぎをする。落ち着かない。

 そのとき、視界の端になにかが映った。

 いつまでも変わらない風景に、たった一つの異物が混じった。

 三脚で固定された白い箱だ。それが道路脇に、ぽつねんと置かれている。両手で抱えられるくらいの大きさで、表面に黒々とした穴がある。速度違反自動取締装置——オービスだ。制限速度に反していると、あの忌々しいカメラのフラッシュが焚かれる。

 アンナはあの装置が嫌いだった。心の底から。もちろん運転席に座る人間で、オービスを好む者などいない——けれど、アンナは少し事情が違う。カメラを向けられていると思うと、なんだか心臓が痛くなるのだ。フラッシュを焚かれると、銃で撃たれたような気分になるのだ。それが苦しくて仕方がない。退役した軍人はみんなこういう気持ちなのだろうか? あるいは単に、自分が繊細なだけなのか……。

 自動車はオービスの横を通り過ぎた。光はなかった。大丈夫、車の速度計に示された数字は、きちんと法令を遵守している。けれど——通り過ぎる一瞬、妙なものを見た気がした。

 人間の目だった。

 カメラのレンズがあるはずの場所に、血走った眼球があったのだ。濁った瞳が、じろじろとナンバープレートを睨みつける。アンナの顔を舐めるように観察する。ぱちり、と瞬きをした。それは車がオービスの横を通り過ぎる、ほんの一瞬のことだった。

 気のせいだろう……と、思う。

 あるいは幻覚?

 否定はできない。退役してずいぶん経つが、症状はあまり改善していない。

 アンナは額に手をやった。皮膚が湿っている。汗が噴き出していた。心臓が早鐘を打つ。

「ねぇ、今の見た?」助手席に声をかけた。

「……ん?」夫は寝ぼけた様子で、もにょもにょと唇を擦り合わせる。

「オービス、なんか変じゃなかった?」

「引っかかったの?」あくびを漏らした。

「いや、そうじゃないけど」

 夫は「そう」とだけいって、目を閉じてしまう。

 ゆったりとした寝息が聞こえる。

 アンナはアクセルを踏んだ。エンジンが唸る。なにかがおかしい。急な病院からの連絡のせいで、少し疲れているのだろう。とにかく、休憩所に着かないといけない。

 やがて道路脇に、たった一つだけ標識が見えた。


 ——最低速度:八〇


 目を疑った。

 八〇? 五〇じゃなくて?

 速度計を見る。これでも足りない。アンナはもう一度アクセルを踏んだ。周囲の景色が、いちだんと速く過ぎ去っていく。道の先に、また箱があった。急速にこちらへ近づいてくる。

 眼球がぎょろりとアンナを睨んだ。

 光はない。

 ほっと胸をなで下ろす。

「ねぇ」夫に声をかけた。「最低が八〇……」

 眠っている。

 アンナは手を伸ばした。夫の肩を軽く叩く。

「……なに?」

「最低が八〇って……」

「そう」端的に答えた。苛立たしげな口調だった。

「ごめん、邪魔して」

「別に」

「でも、八〇だよ。見たことある?」

「あとで聞くよ」

「……うん」

「疲れてるんだ。わかってくれよ。少し休みたいんだ」

「ごめん」

 夫は不愉快そうに鼻を鳴らして、再びまどろみの中へ戻っていく。

 アンナは前方に目を向けた。景色の流れがいつもより速い。なんだか落ち着かなかった。

 標識が見えた。


 ——最低速度:百一〇


「は?」アンナはうめく。目を瞬いた。何度も確認した。間違いない。最高速度じゃない、最低速度だ。それが百一〇。アンナは慎重にアクセルを踏んだ。速度がぐんと上がる。前方の景色がこちらに迫ってくるような感覚に陥る。

 明らかにおかしい。普通、これではスピード違反だ。なのに最低速度? 見間違えた? 標識についた汚れのせいで、なにか勘違いしてしまったとか? 標識を書いた人間がミスを犯した? まさか。

 手の平が汗で湿っていた。少しでもハンドルを間違えれば、あっという間に事故を起こす。速度が上がれば上がるほど、ミスの重みが増していく。

 エンジン音がうるさかった。車体の振動が激しくなった。

 夫が身体を揺すった。むぅ、と喉から音をこぼす。高まっていくロードノイズに睡眠を遮られたのだろう。うっすらと目を開いて、アンナを不満げに睨みつけた。濁った瞳は、半ば夢に浸っている。

「ごめん」無意識にブレーキを踏んでいた。速度が下がる。景色の流れが緩やかになる。

 道路脇に、オービスがあった。

 箱の表面に開いた穴から、血走った眼球が覗いている。じろじろとナンバープレートを見て、運転席のアンナを見た。白濁した瞳に、なにか意地の悪い光が灯る。

 不意に眼球が姿を消した。黒々とした穴だけが残った。その奥で、パチン、と何かが光る。

 戦場で同じものを見たことがあった。

 銃声が聞こえる。

 フロントガラスが割れる。

 アンナは悲鳴を上げて、アクセルを踏む。ぎゅん、と景色が背後へ流れた。ガラスに開いた小さな穴から、冷たい風が吹き込んでくる。全身の毛が逆立った。戦争の記憶が蘇った。

 オービスに撃たれた!

「うるさいな……」夫が舌打ちをする。もぞもぞと眠たげに身体を揺らした。「なぁ、さっきいったよな。疲れてるんだ。休ませてくれ、って。勘弁してくれよ、本当に……」

「撃たれた! 撃たれたんだよ!」

「休ませてくれ! なあ!」声を荒げる。

 アンナは「ひっ」と息を飲んだ。「ごめんなさい」速度計を見て、夫の不愉快そうな表情を見て、ガラスに開いた穴を見る。「……でも、でも、でも」

「なんなんだよ、さっきから」

「でも、これ……」穴を指さす。

「道に転がってた石が跳ねたんだろ。あとで修理に行けばいい」顔を背け、目をつむる。

 アンナは呆然とした。

 また、道の先に標識があった。


 ——最低速度:百三〇


 そんなわけがない。

 アンナは夫を見て、速度計を見た。背後へ流れていく標識を、バックミラー越しにもう一度見る。やはり最低速度は百三〇だ。

 おかしい。

 アクセルを踏むべきか、逡巡した。

 気がつくと、視界の端にオービスがいた。

 間に合わない。

 血走った眼球がアンナを睨んだ。

 銃声が聞こえる。

 窓ガラスに穴が開く。

 弾丸がアンナの耳をかすめた。

 悲鳴を上げた。

「どうしたんだ?」夫が顔をこちらに向ける。ぎょっとした表情だった。眠たげな眼をこすり、慌てた風にこちらへ近づく。「怪我したのか?」

「撃たれた!」

「出血してるな。耳だけか?」

「撃たれた! 撃たれたの! オービスが! 目が!」

「前を見ろ。事故を起こすぞ」アンナの頬に手をやった。髪を掻き上げ、傷口を見る。「また石が跳ねたのか。危険だな。速度を落としたほうがいい」

「……でも」

 ハンドルを握りしめる。ギリギリと手の関節が軋みを上げる。

 また、標識が出た。

 最低速度は百八〇だ。

 耳の奥に、銃声がこびりついている。背中からどっと汗が噴き出す。心臓が痛くなる。ひゅっ、とアンナは息を吸った。ひゅっひゅっひゅっひゅ。まずい。うまく息ができない。吸って吐いて、吸って、吸って、吸って、吸って……。うまく息が吐けない。身体がいうことを聞かない。

「大丈夫か? おい、アンナ」

「ああ、ああ……あ……」どうにもならなかった。恐怖が頭をめちゃくちゃにした。気がつくとアクセルを踏んでいた。ぐい、と身体が座席に押しつけられる。

 窓ガラスから吹き込む風が、甲高い笛のような音を鳴らした。風切り音とタイヤのノイズが、耳の中をいっぱいにする。

 道路脇にオービスがあった。視界に入ったと思った瞬間、すでに背後へ流れている。息をつく間もなく、また前方にオービスが見えた。流れていく。現れる。流れていく。それが何度も繰り返された。見ているうちに、オービスの立つ間隔がどんどん短くなっていった。大量の眼球がみっちりとひしめいている。それがすべて、アンナをじっと睨んでいるのだ。意地の悪い目つきだった。なにか底知れない悪意を感じた。

 ひゅっひゅっひゅっひゅう。

 あえぐ。

 胸が苦しい。息ができない。頭がボウッとする。

「落ち着け!」分厚い手で、アンナの肩をがっしりと押さえた。「ここは戦場じゃない。塹壕もなけりゃゲリラもいない。お前は退役した。とうの昔に。だからここに兵隊はいない! ただの高速道路なんだよ!」

「……でも、最低速度が……オービスが……」

「ブレーキをかけろ!」速度計を見て、叫ぶ。「飛ばしすぎだ!」

「だって、撃たれるから!」

「いい加減にしてくれ!」夫の顔がくしゃくしゃになった。鼻をひくつかせて、額に皺を寄せて、唇を噛んだ。今にも泣き出してしまいそうだ。「撃たれるわけないだろう……スピードを……落としてくれ……なあ……」

「ごめんなさい」でも、だめだ。いくら夫に頼まれても、これだけは譲れない。なぜってオービスがこちらを見ている。最低速度に違反するのを、今か今かと待ち構えている。

「教えてくれよ……なんで毎回こういうことになるんだ?」すがるような口調だった。

「ごめんなさい。起こして、迷惑かけて、せっかくのお休みなのに」でも、とアンナは続ける。「なんとかするから……わたし、ぜんぶあなたのために……」

「俺のため? 俺の?」

「そう、あなたの……」

「俺のためだっていうんなら……なぁ、教えてくれよ。俺は毎日のように病院で患者をケアしてる。家に帰ったらお前をケアしてる。だったら……なぁ、いったい誰が俺を助けてくれるんだ? なぁ、誰なんだ? 俺は……今日だって休みたかったんだ。疲れてるんだ。一日、家で寝てればよかったんだ。ドライブに行きたいっていったのは……」

 耳を塞ぎたかった。けれど両手はどうしてもハンドルから離れなかった。接着剤でくっつけたように。だからアンナは大声を出した。甲高い、悲鳴に似た声だった。

 ——なんとかするから!

 涙が出てくる。視界が滲む。頭蓋の中に石を投げ入れられたみたいに、考えがぐちゃぐちゃしてまとまらない。わからない。どうしたらよかった? 間違っていた?

「……悪い」夫がいった。「悪かった。そうじゃない。そうじゃないんだ。ただ……疲れがたまってたんだ。このところ、家にも帰れてなかったから。イライラして……なぁ、本心じゃないんだ。こんなの違う。わかってくれよ、なぁ……俺は、俺は……」分厚い手の平で、自分の頬をぺたぺた叩いた。涙を拭い、深呼吸して、何度も目を瞬く。「今朝は薬、飲んだのか?」

「あ、」

「だめじゃないか。運転するときは気をつけないと。ハンドルを握ってる最中に幻覚が見えたら困るだろう?」息を吐いた。体の中にたまった疲労を、すべて吐き出そうとするかのようだ。「休憩所でいったん駐めよう。運転を代わるよ」

「ごめんなさい。疲れてるのに」

「いいんだ。悪いのはお前じゃない」

「でも……」

「お前じゃない。戦争だ、戦争のせいだ。そうだろう?」

「うん」

「とにかく……とにかくだ、スピードを落とそう」夫は細く長く息を吐いた。それから不意に「おい、あれ何だ?」フロントガラスの向こうを指さす。

 アンナもじっと目を凝らした。

 だらだらと続く道の先に、小さな赤い点がある。

 みるみるうちに近づいてきた。

 車だ。

 真っ赤な国産車だ。

 道の端で横転している。エンジン周りから、うっすらと煙が立っている。運転席に人影がある。すれ違う一瞬、アンナは彼らの顔を見た。血まみれだった。

「……死んでる」

「事故か?」夫がうめいた。

 まじまじと見ている暇はない。事故車は瞬く間に背後へ流れ、やがて地平線のかなたへ消えてしまう。アンナは額の汗を拭った。ぎっしりと並ぶオービスの眼が、じろじろとこちらを睨んでいる。不意に、眼球の一つが瞬きをした。嫌みったらしく、どこかアンナをからかうように。それでつい、気を取られた。うっかりしていたのだ。

 風景の隅に標識がちらつく。

 あっ——と、慌てて視線を投げる。

 遅かった。

 標識は凄まじい速度で近づいて、離れる。

 間に合わない。

 読めない。

 アンナは慌ててアクセルを踏んだ。どうせまた、最低速度が増したのだろう。

 銃声が響いたのは、ほとんど同時だ。

 ガラスが割れる。ぽっかりと空いた小さな穴から、風が鋭く吹き込んでくる。

 助手席で湿っぽい音がした。

 赤い。

 ねっとりとした液体が、アンナの頬に飛び散った。脱力した夫の身体が、助手席の窓ガラスにもたれている。温かな肉の臭いがした。頭蓋骨の欠片が、ダッシュボードの上を飛び跳ねていた。骨片は透き通るような乳白色で、赤や黒の粘っこいなにかがべったりと付着している。

 夫の頭を見た。

 鼻のあたりが、ひどく陥没しているようだった。深く穿たれた穴の奥から、ひたり、ひたり、と茶色いものがこぼれている。眼窩から飛び出した二つの目玉が、じっとこちらを見つめていた。

 ひゅっひゅっひゅっひゅっひゅっひゅう。

 ひゅっひゅっひゅっひゅっひゅっひゅ……。

 身体が震えた。両手の筋肉が引きつって、ハンドルから離れない。全身の皮膚から汗が噴き出して、座席のクッションを湿らせていく。心臓が痛い。喉がすり切れるほど息を吸って、吐いて、吸った。瞼の裏に、いやな記憶が蘇る。森の中で、敵を銃剣で刺し殺したときのことだ。心臓と喉を狙っているのに、相手が抵抗するせいでとどめをさせない。銃剣の切っ先が耳をそいだ。脇腹を抉った。前歯を砕いた。鼻を潰した。気がつくと、顔中の皮膚がめくれていた。それでも彼は死ななかった。瞼がなくなって、眼球が剥き出しになっていた。彼はじっとこちらを見ていた。ひくひくと両目を痙攣させて、激しく息をしていたのだ。ひゅっひゅっひゅっひゅっひゅっひゅ……。速く殺さないと! 速く! 速く!

 気がつくと悲鳴を上げていた。

 最初は、それが自分の声だと気がつかなかった。

 速く!

 アンナはアクセルを踏む。

 ぐん、と視界が狭くなる。急激な加速で、身体が座席に押しつけられる。吐き気がした。内臓が圧迫されて呼吸ができない。急速に迫ってくる景色を前に、まるで思考が追いつかない。視界に入ったものを認識したとき、すでにそれははるか後方へ消えている。ただただハンドルを握るしかなかった。

 道路の色彩が引き延ばされ、溶けて、均一になっていく。ムラのない灰色だ。チューブからひり出した絵の具を、そのままべったりと載せたように。

 遠く、青い点が見えた。

 事故車だった。

 今度は黄色い点だった。

 やはり、事故車だった。

 オービスの列を横目に見ながら、アンナは先へ先へと進んでいく。

 もう、止まれない。

 止まれば撃たれる。

 走り続けるしかない。

 加速し続けるしかない。

 アクセルを踏んだ。速く行かないと。この奇妙な道路をさっさと降りて、母の待つ病院へ向かわなければ。

 夫がこちらを見ている。

 アンナは知らず、泣いていた。

 叫んでいた。

 どうしてこうなった?

 なにを間違えた?

 道路の先に、また点が見える。事故車の数が増していく。あるものはオービスに突っ込んで、あるものは道の真ん中でひっくり返って、あるものは別の車の上に乗り上げて……。

 アンナが事故車を認識したときには、すでに背後へ流れている。

 ぶつからないのは、奇跡だった。

 事故車から流れ出たオイルや血が、小さな池を作っている。転がっている死体をタイヤが踏んで、車体にいやな振動が伝わる。跳ね飛ばされた肉体が、軽やかに宙を舞っている。ちぎれた足が、サイドミラーに引っかかる。

 景色は、血とオイルに染まっていた。

 アンナはハンドルを握り続けた。事故車と軽く接触して、ヘッドライトが砕け散った。片方のタイヤが異音を発した。バンパーがひしゃげた。助手席のドアがへこんだ。腐りかけた人間の頭が、後部座席の窓を割った。

 速く! 速く! 速く!

 遙か遠く、なにかの影が見える。

 目を凝らした。

 壊れた自動車の山だった。事故車の上へ乗り上げるようにして止まった車に、別の車が乗り上げている。そうやって積み重なった大量の車が、おびただしい血とオイルを垂れ流していた。

 まるで、壁のように。

 行き止まりなのだ。

 道路脇に並ぶオービスが、速く速くとアンナを急かす。

 また、標識があった。はっきりとは見えない。影だけが残像のようにアンナの網膜にこびりついた。

 反射的にアクセルを踏んだ。

 加速する。

 車体の速度は、アンナの思考を追い越していく。

 認識できる〈形〉が溶けた。風景は、色と光の線だけになった。青、赤、茶色、灰色。それらが曖昧に混ざり合って、脳みそに流れ込んでくる。なにも見えない。見えていても認識できない。わからない。アンナが見るよりも速く近づき、それと知るよりも速く過ぎ去る。

 世界が崩れていく。

 自分がどこにいるのかも曖昧になる。

 それでもアクセルを踏んだ。


 ——速く!

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Orbis 亜済公 @hiro1205

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