残光

すまげんちゃんねる

残光

 東京行きの深夜バス、窓際に座った女のイヤホンからは、僕が恋人と過ごした最後の夜に部屋で流れていた曲が、微かに漏れていた。


 清潔で微かに甘い香水の香りがした。女のイヤホンからはシャカシャカと、リズムだけがかろうじて聞き取れる音が漏れていた。僕は通路側の席に深く身を沈め、自分が捨ててきたはずの日常が肘掛け一つ隔てた隣に座っているという、残酷な偶然に息を殺した。女は僕が隣に座ったことを認識していながら何の反応も示さなかった。ただ慣れた動作でリクライニングを深く倒し、窓に額を押しつけた。それはこの密閉された空間で、見知らぬ他人と数時間を共に過ごすための都会的な作法のようなものだった。僕たちの間には肘掛けという侵すことのできない国境線と、互いに干渉しないという暗黙の了解だけが存在した。


 バスが高速道路に入り車内が消灯される。暗闇の中、視覚以外の感覚だけがいやに研ぎ澄まされていく。バスが大きく揺れた時、僕の身体が女の側に傾き、僕の腕が女の丸まった背中にごく軽く触れた。僕は火傷したかのように素早く身体を離した。女は眠っていたのか、あるいは気づかないふりをしているのか、微動だにしなかった。気まずい沈黙の中で聞こえるのは、自分の心臓の音だけだった。


 深夜二時、休憩で立ち寄ったサービスエリア。煌々と光る蛍光灯の下、乗客たちが眠そうにバスを降りていく。僕も通路に出てバスを降りた。冷たい空気に身を震わせながら、自販機の光の向こうにある喫煙所へと歩き、壁に背を預けてタバコに火をつけた。数分後、彼女が来た。

 彼女は僕を一瞥するが何も言わない。灰皿を挟んで一番遠い位置に立ち、慣れた手つきでタバコを一本、唇に挟んだ。カチッ、とプラスチックの安っぽい音が響く。火はつかなかった。

 沈黙。僕はほとんど無意識にポケットから古いジッポを取り出し、彼女に向けて火をつけた。小さな火が彼女の顔を、一瞬だけ暗闇から照らし出した。

「どうぞ」

 自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。

「…ありがとうございます」

 彼女は消え入りそうな声でそう言うと、その火にそっとタバコの先を近づけた。彼女はすぐに顔を背け、深く紫煙を吸い込むと耳のイヤホンを少しだけ押し込んだ。それきり、僕たちの間に言葉はなかった。数分後、先にタバコを吸い終えたのは彼女だった。彼女は灰皿に火を押し付けると、バスへと戻っていった。


 バスに戻ると彼女の席の周りに、僕のとは違う彼女のタバコの匂いが微かに残っていた。バスが走り出し車窓の外が徐々に白んでくる。暗い車内を、高速道路のオレンジ色の光が繰り返し流れ込んでは消えていく。その光が一瞬窓ガラスを照らした時、僕は見てしまった。彼女の顔が映り込む、そのガラスを伝う涙の筋を。彼女は声を殺し、静かに泣いていた。

 喉まで出かかった「大丈夫ですか」というありふれた言葉を、僕は必死に飲み込んだ。あの喫煙所で彼女がイヤホンを押し込んだ、あの小さな仕草が声にならない壁になっていた。結局僕にできたのは、そのもどかしい無力さを噛み締めながら目を閉じ、眠ったふりをすることだけだった。


 バスが巨大なターミナルに到着する。眩しい朝日が差し込み、乗客たちが一斉に立ち上がる。僕も立ち上がり通路に出る。窓際の彼女が僕の前を通って降りられるように。

「どうぞ」

 僕は静かに言った。

 彼女はフードを深く被り、顔を伏せたまま僕の前を通り過ぎた。

「…すみません」

 小さな声が、聞こえた。

 彼女が降りた後、僕は自分の席に戻り荷物をまとめる。彼女が座っていた席には当然何も残されていなかった。喫煙所で共有した紫煙もバスの中で共有した沈黙も、全ては朝日の中に消えていた。


 バスを降り見知らぬ街のアスファルトの匂いを吸い込んだ時、僕は自分の服に残った昨夜のサービスエリアの煙の匂いと、隣の席から移った彼女の香水の、微かな甘さを感じた。


(了)

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