第22話 脱出

 「外国で暮らす時、一番役に立つ文は、なんだかわかりますか?」

スペイン語会話の先生は、黒い大きな瞳を光らせて、生徒たちを見回した。

「それは疑問文です。いつ、どこへ、誰が、何を…。質問することは、コミュニケーションの第一歩です。ですから、今日は皆さんにもう一度、スペイン語の疑問文の作り方を復習してもらいます」

先生は黒板に書いた。

―Jose esta aqui. (ホセはここにいます)

「この文を疑問文にしてください」

さっと、三人が手を上げた。ナオシは下を向いたまま、肩をすぼめてできるだけ小さくなった。

「ムシマロ」

―エスタ ホセ アキ?

「よくできました。そう、文頭にエスタをもってくると、疑問文になります。では、もし、ホセがどこにいるかわからなかったら、なんと言って尋ねますか? 場所に関する質問をする時、最初にくる疑問詞は何だったでしょう。覚えてますか?」

先生はぐるりと見回した。

「ナオシ?」

「あの…」

ナオシは赤くなって俯いた。隣の女の子が手を上げた。

「サヤカ」

サヤカはゆっくりと言った。

―ドンデ エスタ ホセ?

「そう。場所に関する質問では、ドンデが頭にきます」

先生は黒板に書いた。

―Donde esta Jose? (ホセはどこにいますか)


 弘毅は焦っていた。

 裏口からうまく忍び込んだものの、宿舎は広い。カーペットを敷き詰めた廊下の両側に、ずらりと同じようなドアが並んでいる。違いはドアについているナンバープレートだけで、名札などはない。これではどこに大介とナオシがいるのかわからない。どうやって探せばいいのだろう。

 誰かに尋ねるか。危険だけど、そうするしかないかもしれない。こうしてうろうろしているうちに、どんどん時間はたっていく。宿舎の中はしんとして、人の気配は皆無だ。弘毅は再び一階へ下りた。郵便受けか何かないだろうか。マンションみたいに。もし、あるとしたら、表の方だろう。そちらへ向かいかけた時、後ろから、君、と声をかけられた。

 ぎょっとして立ち止まった。恐る恐る振り返る。

「何してるんだ、こんな所で」

紺の制服を着た、警備員らしい男だった。じろじろと弘毅を眺める。

「どこのクラスだ。今はまだ、授業中だろう?」

ホッとした。留学生とまちがえている。なんとか、ごまかせるかもしれない。

「腹が痛くて」

「だったら、医務室へ行かなきゃいかんじゃないか」

「大丈夫。いつものことなんだ。寝てれば直る」

「いいかげんなことを言うな。授業を抜け出してきたんじゃないか。ちょっと、こっちへ来なさい」

ぶん殴るしかないか、と思った時、チャイムの音が響いた。

 一瞬、泉中に引き戻された。キンコンカンコーン、という懐かしい音色。男も弘毅も、反射的に腕時計を見た。四時。窓から見える、渡り廊下でつながった建物のドアが開き、学生達がばらばらと飛び出してくる。あれが教室らしい。ナオシと大介は、あのどこかにいるはずだ。弘毅は身を翻して、そっちへ向かおうとした。

君、と警備員らしい男が呼び止めた。

「医務室はこっちだ」

「もう直った」

弘毅は片手を上げて、にやっと笑ってみせると、教室棟の方へ走っていった。

 こっちの建物は、廊下の片側が窓になっていた。弘毅と同年輩の男の子と女の子が、あちらこちらで塊になってしゃべっている。弘毅はたまたま一人で通りかかった眼鏡の男の子をつかまえて、会田大介はどこにいる? と聞いた。

「知らないよ」

男の子はうるさそうに言って、通り過ぎた。

 時計を見る。四時二分。あせるな。落ち着け。輪になって騒いでいる男の子の集団に近づいた。そのうちの一人の肩をたたいて振り返らせた。

「なんだよ」

「ワリイ。会田大介がどこにいるか、知らないか?」

「大介なんて知らねえよ」

男の子はすぐ会話に戻っていった。だが、その隣の男の子が、首をかしげるようにして弘毅に言った。

「英語クラスには、いないと思うよ」

そうだった。大介が行くことになってたのは…。

「フランス語クラスはどこ?」

「二階だけど」

 弘毅が階段に向かって駆け出したところで、女の声がした。

「ちょっと、あんた。大介を探してるの?」

弘毅は立ち止まった。小柄な茶髪のポニーテールの女が、こっちを見ている。

「そうだ。どこにいるか知ってるか?」

「知らないわよ。だって…」

じゃあ、呼び止めるなよ。弘毅はそのまま階段を駆け上がった。

 二階も同じように、右側に窓。左側に教室らしいドアがずらりと並んでいる。そこここにテキストブックを持った学生がうろうろしてるが、一階ほどではない。大介がいないのは一目でわかった。

畜生、と思う。時計を見る。四時四分。

「ねえ、ちょっと…」

さっきの女だ。うるさいな、と思う。

「あんた、誰よ」

「誰でもいいだろ」

声をかけるのに都合の良さそうな学生を物色する。

「あら、大介がどこにいるか、知りたくないの?」

「さっき、知らないって言ったじゃないか」

あいつがいいか。一人で窓の外を見てる、背の高い女。

「知らないわよ。ここにはいないもの」

いない?

弘毅は女に向き直った。

「いないのよ。少し前に、別の施設に移ったの。きっと、落ちこぼれ用よ。大介ってなってなかったもの。ボンジュールも言えやしないのよ。なんであんな頭の悪いのが留学生に選ばれたのか、みんな不思議に思ってた。そのくせ、態度だけはえらそうで」

弘毅は聞いていなかった。別の施設。それはどこだ。もう、日にちがないというのに。

「ナオシは?」

「え? 何?」

得々としてしゃべり続けていた女の肩を引っ掴む。

「小岩井ナオシだよ。どこにいる?」

「痛い! 放してよ!」

 弘毅は手を放した。女が悲鳴をあげたからではない。窓の外に、あるものが見えたからだ。ナオシはあそこにいる。まちがいなく。

 弘毅は階段を駆け下りた。


 夜間照明に照らされたピッチは、エメラルドグリーンに輝いている。

ナオシは仲間と共にボールを追って走っていた。

一樹がボールをトラップする。そのままドリブルで運ぶと見せて、満にパス。受けた満に相手のディフェンスがタックル。満はかわして開いた右へパス。走りこんできた一樹がシュート。ポストにあたって跳ね返る。今だ。ナオシがヘッドで押し込んだボールはきれいにキーパーの左を抜いた。

 ワッと歓声が上がる。

 ナオシ! ナオシ! と声がする。聞き覚えのある声だ。ナオシはそちらに顔を向けた。ライトを背にして、少年が一人立っている。

弘毅だった。


 時間がないから、歩きながら話そうと言うと、ナオシは素直についてきた。

だが、逃げろという弘毅の言葉には、首を振った。

「その話はもう、済んでると思った」

「俺が逃がしてやる。約束する。お前の両親や、仁や世津もひっくるめて、かくまってやれるよ」

「うん。できるかもしれない。こんなとこまで、入ってこれるんだから」

「だろう? 仲間がそこで待ってる。頼りになる連中なんだ。行こう」

弘毅は時計を見た。四時十分。

 ナオシは立ち止まった。

「何分あるんだ?」

「十五分までに戻らなきゃならない」

ナオシは自分の腕時計を見た。

「あと五分。ロスタイムを入れて、ぎりぎり八分か」

「おい、ゲームじゃないんだぞ」

それには答えず、ナオシは再び歩き出した。

「弘毅。これはオフサイドだ」

「なんの話だよ」

「オフサイド・トラップは知ってるよね」

「知ってる、それくらい」

ナオシは立ち止まった。まっすぐ弘毅に向き直る。

「こんな所まで来てくれて、ありがとう。でも、僕には、これはオフサイドって気がする。得点にはならない」

「おい…」

「僕、さんざん考えた。逃げてどうなる? ずっと潜伏生活を送るんだ。いつ見つかるか、いつ裏切られるかって、びくびくしながら」

「俺は裏切ったりしない」

「うん。でも、逃げた先に、僕の望むものがあるとは思えない。僕にも、夢はあったんだ。サッカーで名の売れてる高校に入って、レギュラーに入って国立を目指す。うまくいけばスカウトの目に留まって、リーグに入れるかもしれない。それがだめでも、サッカーはずっと続けて、ユースチームのコーチになる。そしていつか、自分のチームを率いる。でも、逃亡者にそれは無理だろう? 逃げても、同じことなんだ。特別留学生に選ばれた瞬間に、僕の望むコースは、完全にブロックされたんだよ。ならば、僕は逃亡者のコースは選ばない。僕が望んで果たせなかった夢を仁と世津に残してやれるコースを選ぶよ」

「殺されて、食われるんだぞ」

弘毅はわざと乱暴に言った。

「そんなこと言うなよ。僕だって怖いんだ」

ナオシの顔がくしゃくしゃにゆがんだ。

弘毅はナオシの腕を掴んだ。

「行こう、ナオシ。生きてれば、なんとでもなる。生きてさえいれば…」

「僕が逃げると、連中はすぐに僕の代わりを選ぶんだよ。やっぱり、得点にはならない」

「ナオシ、これはゲームじゃないんだ」

「人生はゲームだって、誰か言わなかったか。僕はプレイヤーだから、ルールには従わなきゃならない」

ナオシは弘毅の腕を掴んで、自分の腕から引き剥がした。時計を見る。

「そろそろ、時間だよ」

「どうしてもか」

「うん」

「そうか」

弘毅は黙った。言うべき言葉は何もない気がした。何のためにここまで来たのだろうと思う。

「会えて嬉しかった。ありがとう」

ナオシが言って、微笑した。顔をしかめる。

「笑うと歯が痛い」

「お前、まだ、歯医者行ってないのか?」

「苦手なんだ。それじゃ」

「あ、ナオシ!」

「何?」

「大介、どこにいるか、知らないか」

薄暗い中でも、ナオシの表情が曇ったのがわかった。

「知らない。僕が来た時は、もう、いなかったんだ」

「そうか」

「それじゃ」

ナオシは片手を上げると、走って戻っていった。まるで、部活の練習に戻っていくように。

「畜生!」弘毅は口の中で罵った。「ルールなんか、ぶちこわしてやる」


 亮は、小型トラックの脇で、苛々と足踏みしながら待っていた。

「遅いぞ。何してた」

顔を見るなり、頭ごなしに怒鳴った。温和な亮にしては珍しい。

「悪かった。ちょい手間どって」

「二人はどうした?」

「大介はここにはいないんだ。ナオシは、説得したけど…」

「いい。早く乗れ」

 弘毅はトラックの荷台に飛び乗ると、段ボール箱に入ろうとした。

先客がいた。

「なんだ、お前」

ポニーテールの小柄な女が、小さくなって箱の中に納まっていた。

「あたしも連れていって」

アーモンド型の細い目を光らせて、弘毅を見上げた。

「あたし、まだ死にたくない。あたしも連れていって」


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感謝祭の夜 日野原 爽 @rider-k

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