ここは雨降るプラネタリウム

萩津茜

ここは雨降るプラネタリウム

 耳を引きちぎるような騒音が襲った。星一ほしはじめは夜も昼もわからずに瞼を開いて、徐ろに音の源――どうやらスマートフォンらしい、それを鷲掴んで、頻りに画面を叩いている。人の手などで壊れることのない、いや、僅かな狂いすら許されないという重役を任されたこの媒体である。にも関わらず、錯乱した群衆のごとく、スマートフォンは騒音を止めない。星一は渦を巻いて憎たらしい電子媒体を、殴った、罵詈雑言を浴びせた、仕舞いには投げ捨てた。あれやこれやと喧騒に包まれた目覚めの中で、星一の耳をまた新手が刺激したのだ。彼の目はぼんやりとした曇天に一途、釘付けにされている。――飛行機雲のようだが、雨の予兆にしては、今更すぎる。瞬く間に光を発して、一切の躊躇ちゅうちょなく、まさに、落下する。

「これが、堕天なのか」

 星が降る夜、星月夜。対して、この光景は、星が堕ちる白昼の時。星一は一言漏らすと、火焔かえん轟音ごうおんを背に響かせて、リビングへと入った。初冬のベランダなんかで、うたた寝をしていたなんて、今思えば異質だ。どうしてそんなことができようか。星一は昨晩の記憶を呼び起こそうと奔走することにした。アパートの一室、マットと小机。小机に立てかけるように散乱した空のペットボトル。ソファーは小銭をかき集めて、無理やり購入したものだ。なぜに執着していたのだ? 記憶の片隅にも残ってはいない。そんなソファーには、読みかけの文庫本やら新聞やらが、飽きて放り投げられたままになっている。もはや折れたページのことなんて気にも留めていない。

 どうでもいい、生活空間だ。在り合わせの生活に如何いかほどの価値があるというのだろう――。

 愚か。己の生活に何の不満が在ろうか。生活というのは当たり前に掌の上で転がっている。己は今ある生活を最大限に愛でて、育み、受容する。そこに価値もなにも、存在しない。

 昨晩の記憶は、まだ思い起こされることがない。元いたベランダに戻ろうとして、星一は気付いた。

 雨が、降っている。

 鉛灰色えんかいしょくのコンクリートに、斑点が、ひとつ、またひとつと、ただ増えていくばかり。あっという間に窓から眺める景色は流線のフェンスで覆われて、星一は、粛然たる一室の窓辺に立ち尽くすばかりであった。雨粒でぼやかされた窓越しに、未だアラートを発し続けるスマートフォンの画面を視界に収めた。

 ――星一。この男は、現行犯のテロリズムに加担している。小銭稼ぎばかりの、泥臭い青年。いつしか彼は、己の名さえ忘却して仕舞っていた。

 彼の頭に浮かぶあらゆる想像はつれづれなるままに。日を暮らし、息をして、何か大きいものを追い求めて生き急ぐ。世界が変われば、己も変わるはず。世界が変われば――世間も変わるはず。人間が変身、するはず。

 星一は毎度、仕事仲間にこう言付けていた。

「僕はね、僕は、現代人なんて滅べばいいと思っているんだ。人間というのはね、現代人のみを指すんじゃあない。それは、魂だ。宇宙だ。コズミックホラーなんていう言葉はよくできている。まさに崇拝だよ。僕たちは、宇宙を成し遂げようとしている」

 大体、こんな具合で、彼の後輩にあたる輩は鼓舞されるものだ。

『緊急速報です。国民保護に関する情報が発令されました。以前より危惧されていた大陸からの脅威ですが、まさに現実のものとなってしまったのです。これは訓練ではありません。今すぐに、身の安全を確保する行動を取ってください。速報です。本日未明、露国、中国、朝鮮国からの日本国の領土に対する侵攻が確認されました。重要インフラ設備を標的として、断続的にミサイル攻撃を受けている模様です。今すぐに、身の安全を確保する行動を取って……』

 星一は未だ、雨垂れる曇天を傍観していた。根本から倒壊するマンション、炎を高く舞い上げる電波タワーなどは彼にとって背景に過ぎなかった。もっと、何かが、胸を深く刺している。そうして、彼は呟いた。喉の奥に突っかかっていた言葉を、嗚咽おえつした。

「雨降る、プラネタリウム、なんだね」



 今夜は、最期の星空を眺めることになる。

 星一は、それをあらかじめ踏まえることができている自分がどこか誇らしくて、いや、そのはずなのに、幾度と鏡に顔を映しても、表情は引きつったままだった。

 空になりたい。少年の頃からの夢だった。きっかけなんて詮索するほどのものではないが、結果で謂えば彼は今生において、空になるために生きていた。雲を掴むような理想であるし、二十歳を超えても子どもじみた夢を抱えているのは、彼ながら馬鹿々々しく感じていた。

 雲を掴むという形容は、胸を締め付ける。そもそも――星一は思う。己は一体、いつからナショナリズムの破壊など望みはじめたのだろうか。これ然り、元よりそんな願望は存在していない。結局のところ己は流体のごとく世相にあやかって、意志を都合よく歪曲させ、空があれほどに広大なのは世界のせいだと言い聞かせてきたに過ぎない。テロリズムの世界に踏み入れたきっかけは、小銭稼ぎの最中に出会った老人のたった一言だったっけな。星一にとっては、もはや懐かしい、いい思い出であるかはさておき、記憶である。

『雲を掴むとは俗な表現だが、まあ差し詰め、到底手の届かないものを比喩する形容だな。でもな、若造、雲ってのは、案外ちっぽけなもんだぜ。なあ、雲を掴んでみないか。あんた、空に憧れてんだろう?』

 後で人伝に聞いた話だが、この老人は中東地域を渡り歩いてきた、この道では知らぬものは居ない、歴戦の猛者だったらしい。両手を真っ赤に染め尽くした、本物のテロリストとの邂逅かいこうは、この老人との出会いが初めてだった。老人の風貌はといえば、寧ろ穏やかで、余生の真っ只中を謳歌しているという印象を受けていたから、星一は仕事で或る人と居合わせた度に、この老人について、しつこいほどに問うた。けれど、やはりその老人の内情について、情報が塗り替えられることは無かった。

 生憎の曇天も重なって、一等星すら掠んで見える。星一は自宅アパートのベランダで、凍てつく風に吹かれていた。これでも星月夜だ。彼が最期に見上げる星々である事実は一切ぶれない。

 空になりたい――。これもまた俗っぽいテーマだ。星一の日課といえば積読消化くらいのもので、数頁読んでは放り投げ、数頁読んでは放り投げ……。これまで読んできた数多の本の中に、たしか、古い文豪の本の一節に、同じような話があった気がする。星一は首を垂れ下げた。あぁ、己の人生は所詮、貰い物なのだ。布切れで繕った厚手の外套も、テーブルに添えた冷えたコーヒーも、きっと誰か古い時代を生きた人間からの借用なのだろう。

 星一は、虚空を眺めていた。虚空を、食んでいた。己は最期、むしろ星に照らされないでよかった。

 ああ、そうだ。清々しい。

 己は、頭蓋ずがいの内でのみ生きているのだ。

 チープな椅子にもたれ掛かり、一等星を目でなじった。こうすれば、冬の大三角。ここから東へ……。

 ――己は、夜明けとともに身を滅ぼす。

 ふとすれば、星一の視線はどこにも定まらず、宙を回っていた。浮遊感が全身を包んで、堕天が、目の前で、起きていた。全天が落下している。

「どこかで、これを……見た」

 星一は言葉を紡ぎ続ける。

「空になりたい。これは、これそのものが、歪曲された愚かな臆病風だ。僕は、ああ、憶えている」

 星一の瞼はゆっくりと、たしかな重みをもって、閉じられていった。



 焦燥感などたち消え、リビングの床に仰向けになった姿があった。

『プラネタリウム、また行きたいね。私さ、あの、夜明けが、好きなんだ。夜明けの喉の渇きというか、涙も流れないどこか、虚しい香りというか。あの夜明けを味わうために、夜があるの。ねぇ、どうして、プラネタリウムで雨が降らないんだろう。私、雨の匂いも好き。夜明けの、ひんやりとして凶器みたいな、雨の匂い。はじめくん! いつか、見に行こうよ。こんな街抜け出して、二人で、遠くの山の上に野営してさ。雨降るプラネタリウムを、二人なら作れると思うんだ!』

 もう、二度と見られるわけがないじゃないか。

 星一によって、この街は終焉を迎える。ただ彼のみが知る、その運命。

 彼のみが、今、その運命に抗いたくて仕様がなくなっていた。

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