第4話 『残響の檻』
――見えたものが嘘をつく
朝の光は、十北署の廊下の蛍光灯に負けて、薄い灰色になっていた。
夜勤明けの人間が残す匂い――コーヒーと汗と、紙の束の乾いた匂いが混ざっている。
私は、書類の角を揃えながら深呼吸をした。
刑事課に配属されてから、まだ数か月。現場の血の匂いにも、取調室の空気にも、慣れたとは言えない。
「渡村君」
背後から、乾いた声。
振り向くまでもない。
黒いコートの裾。杖の規則的な音。右眼を隠す眼帯。
「……夜代さん。おはようございます」
「朝に挨拶をされるほどの人間になった覚えはないけど。……まあ、いい。君、今日は“しょうこ”でいいのかい」
「もうそれでいいです。……あおこ君じゃなければ」
言ってから、少し顔が熱くなる。
新人のくせに、口だけは一人前になっている。
夜代は、ほんのわずか口角を上げた。
「記憶力の問題だ。許してくれ」
「それ、謝ってるように聞こえません」
「謝罪は、実務の邪魔になることが多い」
乾いた皮肉。
けれど、その言い方に私は、もう恐怖よりも、少しの安心を覚えるようになっていた。
――二人で事件を解いた。
それだけで、人は少し“同じ空気”を共有してしまう。
そのとき、係長室のドアが勢いよく開いた。
「おい、二人とも」
柿原係長が顔を出す。眠たそうな目の奥だけが鋭い。
いつもの合図だ。現場が出た。
「……今度は“見せかけ”じゃないぞ。こっちは、最初から厄介だ」
「厄介って、どの種類の?」
夜代が淡々と聞く。
「“カメラだらけの部屋で、人が殺されてる”種類だ」
私は手にしていたクリップボードを落としそうになった。
「監視カメラ……?」
「モデルルーム。住宅展示場のやつ。死角ゼロを売りにして、見学客に“完全監視”を見せてる。
そこで殺人。で、肝心の犯人が映ってない」
係長が言い切った瞬間、背中がぞくりとした。
映っていない。
“見えているはずのものが見えない”。
それは、ミステリにおける最も不気味な穴だ。
夜代は、目を細めた。
「なるほど。人間が映っていない、ね」
「何か知ってるんですか?」
「知らない。ただ、そういう事件は――大抵、人間のほうが“映る”という前提を裏切ってくる」
乾いた声が、背筋を冷やす。
「行くぞ。渡村、夜代。現場は十北市東の“レイフォード住宅展示場”。被害者は……」
係長はメモを見た。
「
現場の鍵は展示場側が管理。出入りはカードキーと暗証番号の二重。ログは残る」
私は喉の奥が乾いた。
――鍵。
――監視。
――ログ。
道具が揃いすぎている。
揃いすぎているときほど、落とし穴は深い。
1 死角のない部屋
住宅展示場のモデルルームは、現実の家よりも現実らしく整っていた。
床に一つの埃もない。白い壁、淡い木目。照明は暖色で、家族の幸福を演出するように柔らかい。
けれど、その幸福の中心に、死体があった。
リビングのソファの前。
カーペットの上に仰向けで倒れた相沢雄三。
胸元に刺し傷が一つ。血は思ったより広がっていない。致命傷でも、出血量が抑えられている――刺したあと、心臓がすぐ止まったのか。
「ここだ。死角ゼロのはずの部屋」
係長の声が低い。
壁の四隅に小型カメラ。
廊下、玄関、リビング、キッチン、階段――各所にある。
さらに、天井の照明に擬態したドームカメラも一つ。
「カメラの録画は?」
係長が鑑識に聞く。
「回収済みです。展示場のサーバーからもコピーを取っています。
ただ――問題があって」
鑑識が視線をこちらに向けた。
「死亡推定時刻帯、カメラには“相沢が一人でいる”映像しかありません。犯人らしき人物の出入りがない。玄関も廊下も、誰も映っていない」
私は背中に汗を感じた。
「……じゃあ、犯人は、映らない方法で出入りした?」
「あるいは、最初から中にいた。もしくは――映像が偽装されている」
係長が言う。
夜代は、杖の先で床を軽く叩いた。
「映像が偽装されているなら、僕らは“録画”を相手にしてる。でもそれは、今日の話じゃない。現場に触れよう」
私は頷き、視線をリビングに走らせた。
モデルルームは、生活感が“演出”されている。
テーブルには雑誌。キッチンにはコーヒーメーカー。ダイニングには食器が並ぶ。
それでも、演出は演出だ。実際の生活の雑さがない。
だからこそ、乱れは目立つ。
私は気づく。
ダイニングテーブルの椅子が一つだけ、わずかに引かれている。
それは“誰かが座った”引き方だ。展示用なら、椅子は均等に揃える。
「……誰か、ここで話してた?」
口に出した瞬間、夜代の声が重なる。
「座った痕跡がある。青子――じゃなくて、しょうこ。君の目は、案外いい」
「今、言い直しましたよね」
「君の名前はまだ完全に覚えてないから、都度修正する」
私は息を吐いた。
それでも、心の緊張は解けない。
相沢雄三は“ここで誰かと会った”。
その“誰か”は、カメラに映っていない。
2 関係者の輪郭
展示場の控室で、関係者が揃えられた。
営業担当の女性――
相沢の部下で、このモデルルームの“案内役”。
清掃員――
朝と夕方に清掃に入る。鍵のある裏口には近づかない契約だという。
施工会社の現場監督――
このモデルルームの“改装点検”で昨夜遅くまでいたらしい。
さらに、展示場の管理責任者――
カードキーと暗証番号の管理者。
係長が言った。
「昨夜、ここに出入りした人間は?」
浅沼が答える。
「ログ上は三人です。
相沢部長。梅津さん。宮沢さん。
久我山さんは朝七時に清掃で入室、発見者です」
清掃員の久我山が、帽子を握りしめた。
「わしは、いつも通り掃除しただけです。部長さん、寝てるのかと思ったら……」
宮沢が、震える指で髪を耳にかける。
「私も……昨日は部長に呼ばれて、夜に少し話をしました。でも私は九時前には帰っています」
梅津は腕を組み、硬い声で言う。
「俺は点検だ。配線の確認。監視カメラのチェックも含まれてた。部長は……追加の見積もりで揉めてたな」
係長が目を細める。
「揉めてた相手は?」
「……宮沢さんだよ。営業が勝手にオプション付けて、数字作ったんだろ。
その責任を俺に押し付けようとしてた」
宮沢の顔がさっと青ざめた。
「そんな……私は、部長に言われて……」
私は、胸の奥に薄い寒さを感じた。
――動機は、すぐ作れる。
――そして、疑いは、すぐ人に貼り付く。
でもこの事件の本体は、動機より先に“構造”だ。
カメラに映っていない。
死角のない部屋。
鍵とログ。
この三つは、犯人が“物理”で戦っている証拠だ。
3 右眼の残響
現場に戻り、夜代は相沢の遺体のそばにしゃがみ込んだ。
杖が床に触れる音が、やけに大きく聞こえる。
「……しょうこ。先に言っておく」
「はい」
「俺の右眼は、決定打ではない。
ただ、今日みたいに“映像”が絡むと、僕が見たものは、逆に君を惑わせる可能性がある」
私は息を止めた。
「惑わせる?」
「死者が見たものは真実だ。
でも、人間の視界は、世界の真実ではない。
――見えたものが嘘をつくことがある」
夜代は眼帯に指をかけた。
外す。
右目が露わになった瞬間、空気が薄くなる気がした。
夜代の肩が強張る。
息が詰まる音が、短く漏れる。
私は、彼が“視る”ことの代償を知っている。
それは、痛みだけじゃない。
“置いてきた人”の記憶が混ざる。
そして、戻ってくるとき、彼は少しだけ遠くなる。
数秒。
夜代は眼帯を戻し、壁に手をついて息を吐いた。
「……視えた?」
私が聞くと、夜代は乾いた声で答えた。
「視えた。相沢雄三の最後の視界は――リビングの鏡面だった」
「鏡面……?」
「ダイニングの横にある、飾り棚。ガラス扉。
そこに、誰かが“映っていた”。
人影が一つ。
そして――その影は、刺す瞬間に一瞬だけ“二つ”に見えた」
私は背中が冷えた。
「二つ……?」
「まるで、影が重なって分裂したように。
視界の端に光。刃物の反射。
相沢は、目の前の“映っている誰か”を見ていた。
でも――玄関は映っていない。音もない。匂いもない」
夜代が言う。
「鏡に映っていた。影が二つ。……ここから推理するなら、君は何を思う?」
私は、喉が乾くのを感じながら答えた。
「……犯人が、鏡の前に立っていた。でも、影が二つなら……二人いた? それか、誰かが後ろから重なった?」
夜代は、わずかに首を振った。
「その推理は、自然だ。だからこそ危険だ。――鏡は、世界を“反転”させるから」
その言葉が、胸に刺さった。
鏡。
反転。
死角のない部屋。
私は、カメラの配置を思い出す。
もし犯人が“カメラではなく鏡”を利用していたら?
4 違和感の位置
私はモデルルームを歩き直した。
現場を“生活”として想像する。演出ではなく、実際の行動として。
ダイニングの椅子が一つ引かれている。
テーブルの上のコーヒーカップが二つ。
片方は口紅の痕。片方は黒いコーヒーの跡。
(宮沢さんが来ていた?)
だが、宮沢が帰ったのは九時前と言っていた。
死亡推定は十時前後。
時間がずれている。
次。
飾り棚。ガラス扉。
ガラスは鏡ほどの反射はしないが、照明の角度によっては“人影”を映す。
そして、その棚の背面――壁との隙間が、わずかに不自然に広い。
私はしゃがみ込んで、棚の脚を見た。
脚の下に、薄い透明の保護シート。
展示用の床を傷つけないためだ。
けれど、そのシートの端が、ほんの少しだけ“波打って”いる。
(動かした?)
家具をほんの数センチ動かすと、こういう波が残る。
展示スタッフは、普段は動かさない。
動かす理由があるとしたら――
「夜代さん」
私は声をかけた。
「飾り棚、動かされてます」
夜代は杖をついて近づき、乾いた声で言う。
「根拠は?」
「床の保護シートの皺です。それと、棚の脚の下の埃。完全に掃除されてない。清掃員さんの仕事が雑って意味じゃなくて――“昨日の夜、動かされた”なら、今朝の清掃では脚の下までは拭けない」
夜代は目を細めた。
「いい。君の言い方は、余計な敵を作らない」
私は少しだけ救われた気がした。
人は現場で、簡単に敵になる。
棚の背面の隙間を覗く。
そこに――薄い金属のレールのようなものがある。
私は指で触れた。
冷たい。そして、わずかに粘つく。
「……テープ跡」
透明の両面テープの残り。
何かを固定していた。
私は息を吐いた。
(鏡だ)
夜代の残響が見た“映っていた人影”。
それがガラス扉ではなく、“棚の裏に仕込んだ鏡”なら――犯人は“別の場所にいながら”、鏡で姿を映して相沢を誘導できる。
そして、カメラの死角に自分を置けば、映らない。
死角のない部屋、という前提が崩れる。
――カメラの死角はない。
――でも、鏡が作る“見せかけの位置”には死角がある。
5 映っていない犯人の場所
私はカメラの位置を確認し、死角を探した。
完全監視と言っても、壁や柱、家具の陰は存在する。
飾り棚の裏。
そこは、カメラの視界から“棚そのもの”が遮蔽になる。
もし犯人が棚の裏に立っていたら?
――映らない。
でも、棚の裏に立って相沢を刺すのは難しい。
距離がある。
刺傷の角度は、正面に近い。
(犯人は刺すときだけ、別の位置に出た)
刺す瞬間だけ、カメラに映らない場所から身体を出す。
だが、そんな芸当ができるのは、現場を熟知している人間。
関係者を思い出す。
施工会社の梅津。
このモデルルームの内部構造を知っている。
点検で夜遅くまでいた。
営業の宮沢。
日常的に使うが、棚の裏のレールや固定跡を知っているかは微妙。
清掃員の久我山。
家具に触れることはできるが、夜に入れない契約。
管理責任者の浅沼。
鍵とログを扱うが、現場の細工はできるか。
私は、棚の裏のレールを指でなぞりながら考える。
(鏡を仕込む工程と、撤去の工程)
評価で指摘されていた欠点は、ここだ。
犯行後に鏡をどう処理するのか。
それが描写されないと、本格ミステリでは弱い。
私は“処理できる方法”を現場から探す。
棚の背面は、壁にぴったりではなく、数センチの隙間。
そして、床の巾木に沿って、細い点検口がある。
モデルルームには、配線や空調の点検用に、床下へのアクセスが存在する。
その点検口のネジが、一つだけ新しい。
「……開けられてる」
私は手袋越しにネジを触った。
微細な金属粉が付く。最近回した痕だ。
夜代が乾いた声で言う。
「つまり、鏡は――床下に落とした?」
「はい。
棚の裏に鏡を立て掛け、犯行後にそれを点検口から床下へ滑り落とす。
そうすれば撤去の工程は“その場で完結”します。
鏡を持って歩く必要がない」
夜代は、少しだけ目を細めた。
「そうだ。現場の構造だけで説明できる」
係長が背後で腕を組んだ。
「点検口……施工会社が触れる場所だな」
梅津が、疑いの中心に寄る。
でも、ここで一気に決めると、推理のしようがなくなる。
私は、もう一つの“強固なミスリード”を思い出す。
宮沢+清掃員。
両方に疑いを向けられる構造が必要だ。
6 宮沢と清掃員のミスリード
私はダイニングテーブルのカップを見た。
口紅の痕。
宮沢が飲んだように見える。
でも――展示用の小物なら、口紅の痕は“演出”かもしれない。
ただし、演出の口紅は乾いて固まる。
今の痕は、まだ湿り気がある。
(昨夜のものだ)
宮沢が嘘をついている可能性。
死亡時刻帯にいたなら、動機も作れる。
一方、清掃員の久我山は今朝最初に入室している。
発見者はしばしば疑われる。
しかも清掃員は、家具に触れる。
棚を動かすこともできる。
私は、清掃用カートの位置を思い出した。
玄関に置かれていた。
その車輪に、何かが付いている。
現場のカーペットは薄いベージュ。
そこに微細な黒い粉。
「……床下の粉だ」
点検口の金属粉と同じ色。
もし清掃カートが点検口付近に寄っていたなら――
今朝、清掃員が“鏡の処理”に関与した疑いが出る。
私は久我山に聞いた。
「久我山さん。今朝、掃除のときに点検口は開けましたか?」
久我山は慌てて首を振った。
「開けてません! そんなの、わしの担当じゃない。
床下なんて、触ると怒られるんです」
係長が低く言う。
「でも、カートの車輪に粉が付いてる。
点検口のネジも新しい。
――触ってないなら、近づいた理由を説明しろ」
久我山の顔色が変わる。
「そ、それは……昨日の夕方、宮沢さんに言われて……棚の下、ちょっと埃が溜まってるからって……
家具を少し動かすの手伝ってくれって……」
宮沢が顔を上げた。
「え?」
「言いましたよね! “ここ、見学のお客さんに見られるから”って! わし、動かしただけです。掃除しただけです」
宮沢が震える声で言う。
「そんな……私は……昨日、そんなこと……」
この瞬間、ミスリードの骨格ができた。
宮沢:棚を動かすよう頼んだ(らしい)
清掃員:棚を動かした(認めた)
点検口:鏡処理に使える構造
カート:粉が付着
犯人が“この誤解”を狙って仕掛けた可能性が高い。
そして、強敵犯人は――
夜代の残響すら“誘導”しているはずだ。
7 残響が視た「影が二つ」の意味
夜代が言った。
影が一つ、刺す瞬間に二つ。
もし鏡が棚の裏に仕込まれていたなら、鏡に映る人影は“二重”になりうる。
角度次第で、鏡面が二枚重なって見える。
あるいは、ガラス扉+鏡で“二重像”が生じる。
つまり、残響の情報はこう解釈できる。
相沢は鏡(または鏡面)を見ていた
そこに映る“犯人像”が二重に見えた
だから“二人いる”と錯覚させる
犯人は、残響で見える映像が断片であることを利用し、
“二人犯行”に見せることで、捜査を散らす。
夜代が、私の沈黙を見て言う。
「君、気づいたね。残響は、犯人の罠に使われることがある。僕の目は、いつでも正直だ。でも、世界は正直じゃない」
私は頷く。
「犯人は、あなたが来る可能性を想定していた……?」
「想定したかもしれない。もしくは、単に“監視の穴”を作った結果、僕の残響も同じ穴に落ちただけか」
夜代の乾いた声には、感情が乗らない。
でも、その冷たさが、私には誠実に聞こえた。
8 決定打は“ログ”ではなく“時間”
次に私が見たのは、カードキーのログだった。
相沢、梅津、宮沢。そして今朝の久我山。
梅津の入室は二十時半。退室は二十一時五十分。
宮沢は二十一時十分入室、二十一時二十五分退室。
相沢は二十一時入室、ログ上は“退室なし”。
死亡推定は二十二時前後。
つまり、宮沢が退室してから、相沢は一人になり、
その後に殺された。
――しかし、犯人は映っていない。
ここで、私はログの“前提”を疑う。
(カードキーは本人が使ったとは限らない)
鍵やカードは、渡すことができる。
暗証番号も共有できる。
では、誰が“カードキーと暗証番号の管理”に触れられる?
浅沼玲。
管理責任者。
私は浅沼に聞いた。
「暗証番号、変更はいつですか?」
「月一回です。次の変更は来週」
「番号を知っているのは?」
「相沢部長、宮沢さん、梅津さん。それと私。清掃員は知りません。カードだけです」
夜代が乾いた声で言う。
「番号を知っているなら、カードがなくても入れる?」
「いいえ。カードと番号の両方が必要です」
私は、浅沼の手元のキーケースを見る。
そこに“予備カード”が二枚。
「予備カードは?」
「管理室に保管。私しか触れません」
ここで、管理責任者にも疑いが芽生える。
だが動機が弱い。そして“強敵犯人”の感じがしない。
強敵なら、もっと“見せ場”を作る。
カメラ、鏡、点検口、清掃員、営業――全部巻き込む。
それができるのは、現場の構造と運用の両方を知る人物。
――梅津圭介。
施工会社の現場監督は、点検口の存在を熟知し、
カメラ配置の癖も知っている。さらに、夜に正当に居られる。
でも、梅津だけだと推理の余地がなくなる。
だから私は、もう一段掘る。
(鏡を仕込む工程に“協力者”が必要かどうか)
棚の裏に鏡を固定する。
大きな鏡なら一人では難しい。
しかし、薄い“アクリルミラー”なら軽い。
それなら一人で可能。
そして、犯行後の処理は、点検口へ滑り落とすだけ。
――一人でできる。
つまり、協力者は不要。
ミスリードとして“宮沢+清掃員”を使ったのは、犯人の計算だ。
9 真相:鏡の檻
私は係長の前に立ち、言った。
「犯人は、梅津圭介さんです」
梅津が眉を動かした。
「根拠は?」
夜代の乾いた声が、私の背中を押す。
「根拠は三つです」
私は順番を間違えないように話す。
「第一に、鏡の設置と撤去の工程です。
飾り棚の背面にテープ跡とレールがあり、点検口のネジが新しい。
鏡(アクリルミラー)を棚の裏に固定し、犯行後に点検口から床下へ滑り落とした。
それが可能なのは、点検口の構造と床下を知る施工側です」
梅津の目が僅かに細くなる。
否定しない。否定の準備をしている顔だ。
「第二に、清掃員と宮沢さんへのミスリード。
久我山さんは“棚を動かした”と証言しましたが、あれは犯人が用意した罠です。
棚を動かして保護シートに皺を作らせ、清掃カートに床下の粉を付着させ、
“清掃員が点検口に近づいた”ように見せた。
久我山さんは、掃除のために動かしただけで、点検口を開けたわけではない」
久我山が青い顔で頷く。
宮沢は唇を噛む。
自分の行動が、罠に利用されたことにようやく気づいた顔。
「第三に、刺傷の角度と残響の情報です」
私は夜代を一瞬見る。
夜代は黙って頷く。
「相沢さんは鏡面を見ていて、そこに犯人像が映っていた。
“影が二つ”に見えたのは、ガラス扉の反射と、裏鏡の二重像です。
相沢さんは、鏡に映るあなたを“正面”に見ていた。
でも実際のあなたは、飾り棚の裏の死角にいた。
相沢さんが驚いて視線を逸らした一瞬、あなたは棚の端から身体を出して刺した。
カメラは棚で遮蔽され、刺す瞬間のあなたは映らない」
私は息を吸って続ける。
「つまり、“死角のない部屋”ではなく、“鏡で作った死角”があった」
沈黙。
梅津が、乾いた笑いを漏らした。
「……よくそこまで考えたな、新人刑事さん」
私は胸が冷える。
褒め言葉じゃない。
強敵の“確認”だ。
「でも、動機が弱い。俺が相沢を殺す理由なんてない」
係長が前に出る。
「相沢は、お前の点検報告を盾に、施工ミスを隠した。その結果、欠陥が発覚したら、お前一人に責任を押し付けるつもりだった。内部メールが出てる」
梅津の顔から色が消えた。
夜代が乾いた声で言う。
「君が作ったのは、“映像に映らない殺人”じゃない。“責任から逃げるための殺人”だ。
でも結局、君は自分の技術を使って、自分の人生ごと殺しただけだ」
梅津が、目を伏せる。
そして、ふっと笑った。
「……そうだよ。相沢は、俺のことを“便利な歯車”だと思ってた。俺が壊れても、代わりはいくらでもいるって顔でな」
梅津は、諦めたように両手を上げた。
「刺したのは、俺だ。鏡は、床下だ。
……カメラに映らない殺し方なんて、作ろうと思えば作れる。
でも――あんたらみたいな厄介な眼を持つ奴がいるなら、無駄だったな」
私は、喉が詰まった。
事件が終わった。
でも、終わるたびに思う。
勝った気がしない。
ただ、被害者が戻らない事実だけが残る。
10 影が並ぶ
夕方、署の廊下の窓から差す光が、床に長い影を落としていた。
私の影と、杖の影。
少し歪んだ影が並ぶ。
「……夜代さん」
私は声を出した。
「今日、残響がミスリードになりかけた。
でも、あなたが先に“惑わされる”って言ってくれたから、私は踏みとどまれました」
夜代は、窓の外を見たまま言う。
「君は踏みとどまったんじゃない。君が“現場”に戻っただけだ。僕の右眼は、いつも最後の瞬間しか拾えない。君は、残った時間を拾える」
私は、少しだけ笑った。
「……そういうの、褒めてるつもりですか」
「褒め言葉は実務の邪魔になることが多い」
また同じ言い方。でも今日は、少しだけ柔らかい。
私は、思い切って聞いた。
「夜代さん。今日、刺す瞬間に“影が二つ”に見えたって言ってましたよね。
……あれ、怖くないですか。あなたの右眼が、世界に騙されるの」
夜代は、少し黙った。
「怖いよ」
乾いた声。
でも、嘘のない声。
「だから、君が必要だ。僕は“見たもの”に縛られる。君は“残ったもの”を見られる」
私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
新人が、隣に立つ理由。
それは、才能じゃない。
ただ、視線を残すこと。
夜代が、杖に手を添えた。
「帰ろうか、しょうこ」
私は頷く。
「はい。……夜代さん」
彼は、一歩踏み出した。
今日は、少しだけ杖の音が軽い。
廊下の窓から差し込む光が、二人分の影を床に伸ばした。
歪んだ影と、まっすぐな影。
それでも重なって、同じ方向へ伸びていく。
――右眼の残響は、嘘をつくことがある。
でも、残った痕跡は、嘘をつきにくい。
私はそのことを、今日、身体で覚えた。
右眼の残響探偵・夜代真陽 古木しき @furukishiki
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