第14話 市民プールと水着と自己イメージ


 夏休みも、カレンダー上でいうと三分の一くらいが過ぎた頃。


「ねえ、そろそろさ」


 昼下がりの103号室で、あかりがゴロゴロしながら言った。

 今日は珍しく、寮に遊びに来ている。


「運動しないと、夏終わったころに体力ゼロになりそうじゃない?」

「今さら?」


 まどか先輩が、枕を抱えたまま冷静にツッコむ。


「というわけで、明日、市民プール行こう」

「プール……」


 ほのかが、持っていた本から顔を上げた。

 レイナも、ベッドの上でごろごろしていた姿勢のまま、片目だけ開けてこちらを見る。


「水の中は、現実から逃げられる場所……」

「そんな哲学的な理由で溺れそうにならないでくださいね」


 私は、プールという単語を頭の中で転がす。


「日焼けしません?」

「屋内プールだから大丈夫」


 あかりが、スマホの画面をこちらに向ける。

 そこには、市民体育館内の屋内プールの写真が載っていた。


「回数券買うとお得なんだって。運動不足解消にもなるし」

「まどか先輩の『お得』センサーが反応してますね」


 案の定、まどか先輩の目がきらりと光った。


「プール、入場料いくら?」

「一回三百円。回数券十回分で二千五百円」

「……一回あたり二百五十円」


 まどか先輩が、小声で計算しながらうなずく。


「悪くない」


 ほのかが、少し不安そうに手を挙げた。


「わたし、水着持ってないんだけど……」

「学校の水着は?」

「……忘れてきた」


 夏休み前のドタバタで、ロッカーに置きっぱなしにしたらしい。


「ひかげちゃんは?」

「私も持ってないです」


 そもそも、中学の時からプールの授業以外で泳いだ記憶がない。


「よし、じゃあ」


 まどか先輩が立ち上がった。


「まずは、水着を調達しに行こう」

「今からですか」

「今から」



 ◆



 商店街の外れにある、ちょっと古いショッピングモール。


 夏休みセールのポスターと、子どもの声と、エアコンの風が入り混じっている。


「ここにスポーツ用品店があってね」


 あかりが先頭に立って歩く。


「スクール水着から、ちょっと可愛い系までいろいろあるんだよ」


 店に入ると、壁一面に水着が並んでいた。


「うわ……」


 ビキニ、ワンピース、フリル付き、スポーティなもの。

 目が回りそうな種類の多さだ。


「さすがに、こういうのは無理だな」


 私は、露出の多いビキニをスルーする。


「ああいうのは、雑誌の中の世界の話だから」


 ほのかも同意するようにうなずいた。


「わたし、あんまり肌出したくないし……」


 レイナは、逆に黒系の水着コーナーの前で立ち止まっていた。


「見よ、この闇色」

「黒いだけだからそれ」


 まどか先輩が、値札をじっと見つめる。


「た、高い……」


 ブランドものの水着は、軽く五千円を超えていた。


「予算は?」

「三千円以内」

「それはそれで現実的」


 結局、私とほのかは、スポーティなワンピース型の水着に落ち着いた。

 色は、私は紺、ほのかは薄い水色。


「これなら、あんまり目立たないし」

「うん。動きやすそうだし」


 レイナは、予算ギリギリの黒いワンピースを手に取った。

 胸元に、紫のラインが一本入っている。


「闇の中に一筋の光」

「説明がいちいち厨二」


 まどか先輩は、意外にも落ち着いたデザインの、紺の競泳用っぽい水着を選んでいた。


「まどか先輩、もっとフリルとか好きかと思ってました」

「フリルはね、洗濯が面倒なの」

「理由が主婦」



 ◆



 翌日。


 市民プールの更衣室で、私たちはそれぞれ水着に着替えていた。


「……うわ、久しぶりに自分の全身鏡で見た気がする」


 鏡に映った自分の姿を見て、妙な照れ臭さが込み上げてくる。


 普段は制服かジャージで隠れている部分が、いやおうなしに目に入る。


「ひかげちゃん、細い」


 ほのかが、羨ましそうに言った。


「いや、ほのかも十分細いですけど」

「わたし、肩幅少し広いから……」


 彼女は、自分の肩をそっと押さえた。


「その分、泳ぐとき安定しそうですけどね」


 レイナはというと、水着の上からラッシュガードを羽織っていた。

 せっかくの黒水着がほぼ見えない。


「闇は簡単に晒すものじゃない」

「水の中に入ったらどうせ分かるのに」


 まどか先輩は、迷いなく水着だけで現れた。


「おお……」


 思わず、声が漏れる。


 肩や腕が引き締まっていて、脚も程よく筋肉がついている。

 節約のために徒歩で鍛えた足は伊達ではなかった。


「まどか先輩、スタイルいいですね」

「そう?」

「そうです」


 素直にそう思った。


「でも、こうやって見ると」


 まどか先輩が、鏡の前でくるりと一回転してから言った。


「自分の体に、そこまでコンプレックス感じなくてもいいかなって思えてくるね」

「他人と比べないで、自分なりの線を引く感じ?」

「うん。どうせ、雑誌のモデルさんみたいにはなれないし」


 潔い。


「ま、いいや。とりあえず泳ごっか」



 ◆



 プールサイドに出ると、冷たいタイルの感触と塩素の匂いが一気に押し寄せてきた。


「おお……」


 水面が、天井の窓から差し込む光を反射してきらきらしている。


「とりあえず、準備運動しよ」


 ストレッチをしながら、周りを見渡す。


 親子連れや、小学生グループ、部活で使っているらしい中高生。

 いろんな人が、思い思いに泳いだり歩いたりしている。


「よし」


 私は、恐る恐る水に足を入れた。


「つめたっ」


 その一言で、なぜか全員笑う。


「いきなり飛び込むより、ちょっとずつ慣れた方がいいよね」


 ほのかも、慎重に水に入る。


「レイナは?」


 見ると、レイナはプールサイドから水面をじっと見つめていた。


「水の中は、上も下も分からなくなるから苦手なんだ」

「苦手なんかい」


「でも、足がつくところなら平気」


 そう言って、彼女もゆっくりと水に入ってきた。


「……意外と気持ちいい」


 水に体を任せると、重力から少しだけ解放された気分になる。


「こうやって歩くだけでも、水の抵抗で運動になるんだって」


 まどか先輩が、淡々と水中ウォーキングを始める。


「せっかくなんで、ちょっと真面目に歩きますか」


 私たちは、四人で列になって、水の中をとぼとぼと歩き始めた。



 ◆



 何往復か歩いたあと。


「もう、だめ……」


 ほのかが、プールサイドでへたり込んだ。


「水の抵抗って、こんなにキツいんだね……」


 私も息が上がっている。


「日頃の運動不足がバレますね」


 レイナは、肩まで水に浸かりながら、遠くの方を眺めていた。


「ここから見る世界、ちょっと違って見える」

「どう違って見えるんですか」

「人間がみんな、プカプカ浮かぶクラゲみたい」

「詩的なのか失礼なのか分からない」


 ふと、隣のレーンで、中学生くらいの女の子がすいすいとクロールで泳いでいくのが見えた。


「すごい……」


 ほのかが感嘆の声を漏らす。


「ああいうの見ると、自分の泳ぎのへぼさが際立ちますね」


 私は、バタ足で何とか前に進む程度の実力だ。


「ひかげちゃん、泳げないわけじゃないでしょ?」

「一応。二十五メートルが限界くらい」


 あかりは、隣のレーンで平泳ぎをしていた。

 さすが体育5だけあって、フォームがきれいだ。


「あかりー」


 手を振ると、あかりが近くに寄ってきた。


「運動不足は解消されてきた?」

「今のところ、解消される前に根性が折れそうです」


 そんなこんなで一時間ほど遊び、最後はジャグジーで体を温めてからプールを後にした。





 帰り道。


 コンビニの前でアイスを買って、歩きながら食べる。


「はー……疲れたけど、気持ちよかった」


 ほのかが、ガリガリとアイスバーをかじる。


「明日、絶対筋肉痛ですね」


 既に太ももに違和感がある。


「でもさ」


 まどか先輩が、空を見上げながら言った。


「たまには、自分の体のこと、ちゃんと意識してあげるのも大事だなって思った」


「体のこと?」


「普段は、『もっとこうだったらいいのに』って不満ばっかりだけどさ」


 まどか先輩は、自分の腕を軽く叩いた。


「今日みたいに動いてみると、『よく頑張ってくれてるじゃん』って思える」


 レイナも、頷く。


「私の貧弱ボディでも、水の中では少し浮く」

「それは人体の仕様」


 ほのかが、小さく笑った。


「わたし、自分の体、あんまり好きじゃなかったけど」


 彼女は、アイスの棒をじっと見つめる。


「今日ちょっと、仲良くなれた気がする」


 私は、自分の脚をちらっと見下ろした。


 コンプレックスが全くないわけではない。

 でも、今日一日、プールで歩いたり泳いだりしたこの体は、ちゃんと働いてくれていた。


「……まあ、たまには悪くないですね、プール」


 ぽつりとそう言うと、三人が同時に笑った。


「また来よっか、回数券使い切るくらい」

「筋肉痛が治ったら」


 夏の空は、少し傾きかけた太陽で、やわらかいオレンジに染まりつつあった。


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寮は避難所のつもりだったのに、現実はだいぶ騒がしいようです。 ようよう @ranobe_1

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