第13話 夏休み初日と寮組だけの静かな一日


 夏休み初日。


 普段なら、朝から学校に行く支度でバタバタしている時間帯。

 103号室には、珍しく静かな空気が漂っていた。


「……静かですね」


 枕元から身を起こしながら、思わずそんな言葉が口をつく。


 レイナはまだ布団の中で丸まっていて、ほのかもぬいぐるみと一緒にすやすや寝ている。

 まどか先輩のベッドは空っぽだ。


「まどか先輩、もう出かけたのかな」


 階下から、かすかに話し声が聞こえてきた。

 多分、管理人さんと何か話しているのだろう。


 時計を見ると、まだ朝の八時前。

 夏休みだからといって、昼まで寝ていられるほど生活リズムが崩壊していない自分を、少しだけ褒めてもいい気がした。



 ◆



 洗面所で顔を洗って戻ると、部屋の中にコーヒーの匂いが漂っていた。


「おはよ、ひかげちゃん」


 まどか先輩が、小さなドリップポットを手にしていた。


「おはようございます。なんか、本格的ですね」

「夏休み初日だからね。ちょっと贅沢してもいいかなと思って」


 テーブルの上には、スーパーで見たことのないコーヒー豆の袋。


「それ、もしかして高かったんじゃ」

「半額だった」

「やっぱりか」


 レイナが、布団から這い出してきた。


「コーヒーの匂いがする……。これは、起きるしかない」


 ほのかも、目をこすりながら起き上がる。


「おはよう……。今日、学校ないんだよね」

「うん。ない」


 その事実だけで、胸の中が少し軽くなる。



 ◆



「で、今日はどうする?」


 四人でコーヒーと、安売りの食パンを焼いたものをつつきながら、まどか先輩が聞いてきた。


「どうする、って言われましても」

「夏休み初日をどう使うかは、その夏全体の方向性を決める大事な要素なの」

「そんなに重いんですか初日」


「例えば、初日から昼まで寝てると、その夏はだいたいダラダラして終わる」

「耳が痛い」


 レイナが、トーストをかじりながらぼそっと言った。


「私は、ダラダラして終わる夏でも、それなりに嫌いじゃないけど」

「それはそれで全然ありだと思うけどね」


 ほのかが、お皿の端を指でなぞりながら言った。


「でも今日は、ちょっと出かけてみたいかも」

「出かける?」

「うん。商店街じゃなくて、もうちょっと先のとこ」


 彼女は、少し照れたように続けた。


「図書館とか」


 図書館。


 夏休みの図書館と言えば、宿題を一気に片付ける場所か、冷房を求めてたむろする子どもたちの溜まり場だ。


「いいじゃん。図書館」


 まどか先輩が頷く。


「エアコン効いてるし、タダだし」

「そこに帰結するのやめて」


「私は、外の世界の空気を吸うのもたまにはいいと思う」


 レイナが、ポエミーな言い方で賛同した。


「じゃあ、行きますか。図書館」


 特に断る理由もない。

 夏休み初日くらい、外に出てもバチは当たらないだろう。



 ◆



 市立図書館は、寮からバスで十五分ほどの場所にあった。


 大きなガラス張りの建物の中は、外の暑さが嘘みたいにひんやりしている。


「涼しい……」


 ほのかが、思わずうっとりした声を漏らした。


「冷房代がタダって素晴らしい」

「まどか先輩、もう少し文化的な感想を」


 中は、夏休みの宿題と戦っている小学生と、中高生と、大人たちでそこそこ賑わっていた。


「ひかげちゃん、どこ見る?」


 ほのかが、エントランスホールの案内板を指さす。


「小説コーナー、漫画コーナー、雑誌コーナー……」

「漫画コーナーあるんだ」


 視線が自然とそっちに向かう。


「さすがに、ここで一日中漫画読むのはどうかと思うけど」

「ひかげちゃんの中の良心が働いてる」


「私は、生活コーナー行ってくる」


 まどか先輩が、迷いなくそっちの方へ歩いていった。


「節約術の本とか、家計簿の付け方の本とか、面白いよ?」

「今度、一冊くらいなら借りるかもしれないです」


 レイナは、哲学・思想の棚を見に行くと言って、一人で奥の方へ消えていった。


「ほのかは?」

「わたしは、絵本コーナー見たい」

「絵本?」


 意外なチョイスだった。


「中学生の時、図書室の絵本コーナーでよく時間つぶしてたから。懐かしくて」

「あー……」


 私は、少し迷ってから答えた。


「じゃあ、私も小説コーナー覗いてきます」



 ◆



 小説コーナーの棚に並ぶ背表紙を眺めていると、時間の感覚が少し曖昧になる。


 読みたい本はいくらでもある。

 でも、今の気分にぴったりくる一冊を探そうとすると、途端に迷う。


(こういう時、タイトルで選ぶのも悪くないけど)


 ふと、目に留まった本があった。


『ひだまりの詩』


 タイトルだけ見て、あまりにも自分たちの寮の名前に近すぎて、思わず手に取る。


 中身は、全然関係ない恋愛小説っぽかったのでそのまま棚に戻した。


「ひかげちゃん?」


 振り向くと、ほのかが両腕に絵本を抱えて立っていた。


「そんなに借りるんですか」

「三冊だけだよ?」


 彼女は、抱えていた本を少しだけこちらに見せた。


「これ、小さい頃好きだったやつ」


 動物たちが森の中でご飯を分け合う話。

 夜空を旅する少年の話。


「なんか、ほのかっぽいですね」

「ひかげちゃんは?」

「まだ迷ってます」


 そんな風に話していると、胸のポケットの中のスマホが震えた。


 画面を見ると、「母」の文字。


(うっ)


 通知表の報告をするように言われていたのを思い出す。


「ごめん、ちょっと出ます」


 図書館の外のベンチに出て、通話ボタンを押した。



 ◆



「もしもし」


 電話の向こうから、懐かしいリビングのテレビの音が微かに聞こえてくる。


『通知表届いたわよ』


 母の声は、いつも通り淡々としていた。


「はい」

『まあ、悪くはないけど。特別良くもないわね』


 ストレートな評価だった。


『英語は、もっと伸ばせるでしょ』

「……テストの点は、平均よりちょっと上だったけど」

『平均よりちょっと上で満足するの?』


 その台詞は、中学の時から何度も聞かされてきた。


『せっかく高校行かせてるんだから、ちゃんと頑張りなさいよ』

「うん」


 適当に相槌を打ちながら、私は空を見上げた。

 図書館の駐輪場の上に広がる、真っ青な夏の空。


『夏休み、一回くらいは帰ってきなさいね』

「……バイト入っちゃってるから、あんまり長くは帰れないかも」


 とっさに嘘をついてしまった。

 バイトなどしていないのに。


『そう。まあ、少しでも顔見せなさいよ』

「考えとく」


 通話を切って、スマホをポケットに戻す。


 胸のあたりに、少しだけ重いものが残る。


(相変わらずだなぁ)


 母は何も変わっていない。

 私が寮に住んでいることも、多分「一時的な反抗期」くらいにしか思っていないだろう。


「ひかげちゃん」


 背後から、ほのかの声がした。


「大丈夫?」

「うん。いつもの感じ」


 私は、苦笑いを浮かべる。


「通知表見て、ちょっと小言言われただけ」

「そっか」


 ほのかは、少しだけ迷ってから言った。


「……帰りたくないなら、無理しなくていいと思う」


 その一言だけで、少し胸の重さが軽くなった気がした。


「ほのかは、帰らないの?」

「わたしは、おばあちゃん家には行く。でも、家には……」


 彼女は、言葉を濁した。


「両親、ちょっと仲悪くてね。あんまり一緒にいたくないんだ」

「あー……」


 そこは、なんとなく察してしまう。


「だからね」


 ほのかが、ほんの少し照れ笑いをしながら言う。


「ひだまりは、わたしにとって、帰りたい場所なんだ」


 その言葉に、少しだけ喉の奥が詰まる。


「……私も、そうかもしれません」


 寮の狭い部屋。

 もやしと鍋と、ポイントカードと、ポエムとぬいぐるみ。

 そこが今の私にとって、一番「落ち着く場所」になっている。


「じゃあ、がんばって夏休み乗り切ろうね」

「うん」



 ◆



 図書館からの帰り道。


 蝉の鳴き声が、さっきよりも大きく聞こえる。


「今日の晩ごはん、どうする?」


 まどか先輩が、図書館の袋をぶら下げながら言った。


「図書館の生活コーナーで、『一週間千円おかず』って本借りてきた」

「絶対危険な本では」


「でも、そのおかげで、今晩はちょっと豪華にできそう」


 ほのかが、楽しそうに笑う。


「じゃあ、わたし手伝うね」


 レイナが、借りてきた哲学書を抱えながら呟いた。


「私は、食器を洗う係で」


 私たちはそれぞれ、ほんの少しずつ役割を分け合って、寮への坂道を登っていく。


 夏休み初日は、遠出も、特別なイベントもなかった。

 図書館に行って、本を借りて、晩ごはんの相談をしたくらい。


 でも、そんな「なんでもない日」の積み重ねが、きっと後で振り返った時に、一番懐かしくなるのかもしれない。


 そんなことを、少しだけ思った。


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