第10話 【春初旬】通りすがりの夜、辺境の村にいた勇者
春先だというのに、リビエ村は思いのほか賑わっていた。
山にはまだ雪が残り、
「春スキーがいいらしい」という噂が広まったせいで、
村で唯一の宿屋は、珍しく満室だった。
「旅の途中ですか……
申し訳ありません。本日は満室でして」
宿屋の主人が、外套姿の三人に頭を下げる。
ひと目で王都の人間だと分かる一行だった。
回復役だった女。
補給係だった男。
そして王都の文官。
王都へ向かう途中、
一晩だけ休めればよかった――それだけだった。
「困ったな……」
「この寒さで野宿は、さすがにきついぞ」
そのときだった。
「……あれ?
宿、取れへんかったんか?」
通りを歩いてきた男が、腹をさすりながら声をかけた。
分厚い眼鏡。
厚手の服。
首元までぐるぐる巻いた襟巻き。
そして――やたら分厚そうな腹巻き。
どう見ても、この辺境の村によくいる、
寒さ対策過剰な村人である。
「ええ、実は……」
文官が事情を説明する。
男は少し考えたあと、あっさり言った。
「ほんなら、うち来るか?」
「広くはないけど、一晩寝るくらいなら問題ないで」
三人は、一瞬言葉を失った。
「……よろしいんですか?」
「見ず知らずの我々を……」
「ええよ、ええよ」
「腹冷えるほうが、よっぽど問題や」
その一言に、三人は苦笑し、
結局その好意に甘えることになった。
* * *
囲炉裏に火が入ると、家の中はすぐに暖まった。
男は腰を下ろし、ようやく落ち着いた様子で眼鏡を外す。
ぐるぐる巻きだった襟巻きも、ゆっくりほどいた。
――その瞬間。
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。
誰も、言葉を発さなかった。
「――……え?」
回復役の女が、息を呑む。
「……ちょっと待って」
補給係の男が、目を見開いた。
文官は、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「……まさか……」
三人の視線が、男の顔に集中する。
眼鏡の奥に隠れていた目。
襟巻きの下にあった、見覚えのある輪郭。
そして――その、空気。
「……ピッカルド……様?」
「“腹巻き勇者”の……?」
空気が、ぴたりと止まった。
ピッカルドは、ぽかんとした顔で三人を見返す。
「……え?」
「なんで、名前……?」
次の瞬間。
「な、なんでこんな所にいるんですか!!」
三人の声が、見事に重なった。
「世界を救った英雄が!」
「王都じゃ、子どもから老人まで知らない人はいませんよ!」
「王城の前の黄金像までなってた人が!!」
ピッカルドは、思わず頭をかいた。
「……いや……」
「王都、人多すぎてな……」
少し困ったように笑う。
「あんたらのこと、正直、顔まで覚えとらん……すまんな」
三人は、首を振った。
「私たちを知らなくても、
王都の孤児院の子どもですら、あなたのことを知っていますよ……」
ピッカルドは、ひとつ頷き、すぐに腹をさすって現実へ戻る。
「……まあ、昔の話や」
「今は、この村で暮らしとる」
そのとき、奥の部屋から顔を出した影があった。
「パパ、宿題終わったよ――」
モカナだった。
三人の視線が、一斉に彼女へ向く。
「……娘さん?」
「……勇者の……?」
モカナは、きょとんとした顔で父を見上げる。
「パパ、この人たちは……お客さま?」
ピッカルドは、少しだけ間を置いてから答えた。
「……そうや。宿があいとらんかったんや」
「それで、ここに泊めることにした」
モカナは、にこっと笑った。
「それ、すごいね!
お客さまだ!」
三人は、思わず背筋を正した。
英雄の家。
世界を救った男の“今”。
それは想像していたどんな姿よりも――
静かで、温かくて、確かだった。
* * *
夕食を終え、囲炉裏の火が静かに揺れる。
湯気の立つ椀を前に、
三人は自然と、昔の話を始めていた。
「……あの時の魔王軍との戦い、覚えてますか」
「回復が追いつかなくて……でも、あなたが前に立ってくれたから」
「補給路が断たれて、撤退もできなかったのに……」
ピッカルドは、胡坐をかいたまま腹をさすっている。
「……ああ……あったな、そんな日も」
「城門前の防衛線で、腹、壊しかけとった日や」
三人は、思わず苦笑した。
「でも……本当ですよ」
文官が、少し声を落とす。
「あなたが立ってくれなかったら、王城は――」
そこで、言葉を切った。
「……実は、今も少し……王都が、きな臭いんです」
空気が、わずかに変わる。
「魔王軍の残党……というほど大きな話ではありません」
「ですが、統治の歪みや、古い因縁が……」
ピッカルドは、何も言わずに聞いていた。
腹をさすりながら、ただ静かに。
その横で――
モカナは、黙って話を聞いていた。
王都。
昔の仲間。
英雄だったころの父。
知らなかった世界が、
モカナの中に、言葉になって流れ込んでくる。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
(……パパ……)
(……なつかしく、なっちゃった……?)
ふと見ると、
ピッカルドの視線は、囲炉裏の火の向こうを見ているようだった。
* * *
客人たちが布団に入ったあと。
囲炉裏の火も落とされ、家の中が静まり返ったころ。
モカナは、こたつの端で、そっと口を開いた。
「……パパ」
「ん?」
「……王都って……」
少し言葉を探してから、続ける。
「……大事な場所なんだよね」
ピッカルドは、すぐには答えなかった。
代わりに、モカナの背中にそっと手を置く。
「……そうやな」
「昔は、命張って守った場所や」
モカナの指が、こたつ布団をぎゅっと掴む。
「……じゃあ……」
声が、小さくなる。
「……また……戻っちゃうの……?」
ピッカルドは、はっとした。
娘の声が、震えていることに気づいたからだ。
「……今日、王都の人が来て……」
「パパ、ちょっと……遠い顔してた……」
モカナは、顔を上げないまま続ける。
「パパ……思い出して……」
「……またいなくなっちゃうんじゃないかって……」
一瞬、
囲炉裏の名残の匂いだけが、部屋に漂った。
ピッカルドは、ゆっくりとモカナを抱き寄せた。
「……モカナ」
低く、やさしい声。
「父ちゃんはな……」
「王都に“いた”ことはある」
胸に、娘の頭を抱きしめながら言う。
「でも、今“おる”のは、ここや」
モカナの髪を、ゆっくり撫でる。
「……昔の戦いは、父ちゃんの過去や」
「でもな……おまえと過ごす今は、戻れんもんや」
モカナの肩から、力が抜けた。
「……ほんと?」
「ほんまや」
「腹の調子がどうこうやない」
少し笑って、続ける。
「父ちゃんがここにおる理由はな……」
抱く力を、ほんの少しだけ強める。
「……おまえが、ここにおるからや」
モカナの顔が、胸に埋まった。
「……パパ……」
「王都がどないなっても」
「王様が来ても」
ピッカルドは、静かに言い切った。
「父ちゃんは、ここを離れん」
「ここが、父ちゃんの帰る場所や」
しばらくして――
モカナが、こくんと小さくうなずいた。
「……うん……」
「……じゃあ……だいじょうぶ……」
その声は、もう震えていなかった。
夜更け。
外では、春の雪が、静かに溶けはじめていた。
王都の危機は、まだ遠く。
伝説は、過去に置かれ。
今この家にあるのは――
ひとつの囲炉裏と、
腹を守る勇者と、
その腕の中で、安心して眠る娘だけだった。
そしてピッカルドは、心の中ではっきりと思った。
(……世界を救った場所より)
(……守り続けたい場所は、もう決まっとる)
翌朝。
三人は礼を言い、王都へ向けて旅立っていった。
モカナはピッカルドの横で、
その背中が見えなくなるまで、手を振っていた。
春は、確かに――
ここから始まっていた。
腹弱勇者は、今日も腹巻き装備で娘と生きる! 霧原零時 @shin-freedomxx
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