第9話 【冬下旬】目覚めた朝、娘の姿がない
朝。
ピッカルドは、いつもより少し遅く目を覚ました。
布団の中のぬくもりが、まだ身体に残っている。
外は、妙に静かだった。
雪を踏む音も、鳥の声もない。
(……妙に静かやな……)
腹巻きを手探りで直しながら、上体を起こす。
「……モカナ……?」
返事はない。
隣の布団に、
いつもなら丸まっているはずの小さな背中が――ない。
「……ん?」
一瞬、寝ぼけているのかと思った。
だが、布団はきれいに畳まれ、
モカナの上着も、靴も、見当たらない。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
「……モカナ?」
少し声を張る。
返事はなかった。
(……朝やぞ……
こんな早うに、どこ行く理由が……)
立ち上がり、家の中を見回す。
台所。
薪置き場。
裏庭。
どこにもいない。
玄関の扉は、きちんと閉められている。
それなのに、外気の冷たさだけが、かすかに残っていた。
「……ひとりで……外に……?」
喉が鳴る。
竜のいる洞窟が、 脳裏をよぎった。
雪。
冷え。
子ども。
「……落ち着け……」
そう言い聞かせながらも、
腹の奥が、きゅっと締めつけられた。
「……信じろ……
モカナは……考えて動ける子や……」
だが、足はすでに外へ向かっていた。
* * *
外は、思った以上に冷えていた。
昨夜から降った雪が、
村の道を白く覆っている。
「モカナーーっ!!」
声が、静かな村に響く。
村の家々の煙突からは、
朝の煙が、ゆっくり立ちのぼっていた。
八百屋の前で足を止める。
「おはようございます……
……あ、ピッカルドさん。
どないしたんです、そんな慌てて」
「モカナ、見ませんでしたか」
声が、わずかに上ずる。
八百屋の奥さんは、少し考えてから首を振った。
「見てへんけど……
さっき、子どもらが
朝から走っとったなぁ」
胸が、ざわりとした。
「……どっちのほうへ?」
「黄色い屋根の小屋がある丘のほうやったと思うわ」
「……ありがとう」
礼もそこそこに、走り出す。
腹巻きがずれ、
冷気が腹に刺さる。
それでも止まれなかった。
(……後ろにおる言うたのは……
おまえを見失わん、いう意味や……)
* * *
黄色い屋根の小屋の前。
そこには、
村の子どもたちが集まっていた。
そして、その中心に――
モカナがいた。
年下の子の肩にそっと手を置き、
真剣な顔で話している。
「大人に言えなかったのは……
おばあちゃん、足が悪くて……
いつも『村の人に迷惑かけてる』って言うからなんだよね」
モカナは、静かに続ける。
「“これ以上、迷惑かけたくない”って……」
年上の少年が、小さくうなずいた。
「朝なのに、
おばあちゃんの家だけ煙突から煙が出てへんくて……
寒そうやった」
別の子が、唇を噛む。
「このままじゃ……
夜……凍えちゃう……」
ピッカルドは、ようやく理解した。
――足の悪い一人暮らしのおばあちゃん。
――寒波で、薪が尽きかけている。
――けれど、「助けて」と言えなかった。
そして、そのことを
大人に伝える勇気も、子どもたちにはなかった。
「……あっ」
モカナが、こちらに気づいた。
「パパ……!」
一瞬、
しまった、という顔をする。
* * *
「……モカナ」
声は、思ったより静かに出た。
「朝起きて、お前がおらんかった時……
父ちゃん……腹よりも肝が冷えたわ」
モカナは、ぎゅっと手を握る。
その小さな手は、雪みたいに冷たかった。
「……ごめんなさい。
でも……朝、庭に薪を取りに行ったとき……」
ぽつり、と語り始める。
「この子たちがね、
『おばあちゃんの家、寒い』って……
でも……
“大人に言ったら怒られるかも”って……」
ピッカルドは、子どもたちを見渡す。
皆、うつむいている。
「……それで?」
モカナは、まっすぐ答えた。
「だから……
まず、できることをやろうって思ったの。
みんなで少しずつ薪を集めて……
パパが起きる前に、運ぼうって」
言葉が、一瞬途切れる。
だが――
怒りは、湧いてこなかった。
代わりに胸に広がったのは、
確かな誇りだった。
「……せやな」
深く、息を吐く。
「子どもには……
大人に言えん事情も、ある」
一歩、前に出る。
「けどな。
次からは、必ず父ちゃんを起こせ」
モカナは、こくんと強くうなずいた。
「……うん」
「……怒っとるわけやない」
声が、少し柔らぐ。
「友達を大切にするんは……
ええことや」
子どもたちが、ぱっと顔を上げた。
* * *
「……よし」
ピッカルドは、腹巻きを締め直す。
「薪運び、続きや。
今度は、大人も混ぜてもらう」
モカナの顔が、ぱっと明るくなる。
「パパも一緒!?」
「当たり前や。
これは、おまえの副官の仕事やろ」
子どもたちの間に、
ほっとした空気が流れる。
「ただしな」
ピッカルドは、少しだけ真顔になる。
「おばあちゃんの家に着いたら、
最後に薪を運ぶのは、お前たちや」
子どもたちの目が、ぱっと見開かれた。
「ここに大人は、誰もおらんかった。
――ええな」
全員が、強くうなずいた。
雪の朝。
小さな秘密は、
ちゃんと“大人に渡された”。
そして――
ピッカルドは知る。
娘はもう、
守られるだけの子ではない。
困っている誰かの前に、
そっと立てる子になっているのだと。
* * *
帰り道。
ふたりは並んで歩いた。
「……心配した?」
「……ああ。
……けどな、偉かったぞ」
モカナは、少し照れたように笑う。
「……パパが教えてくれたんだもん。
パパもずっと、困ってる人のために戦ってたでしょ」
大きな手が、モカナの頭をやさしく撫でる。
雪を踏む音が、規則正しく続く。
ピッカルドは、そっと娘の手を握った。
「……次に薪が足りんなったら」
「うん?」
「父ちゃんも一緒に、
朝から行こう」
モカナは、ぱっと笑った。
「ほんと!?
じゃあパパ、腹巻き五重ねっ!」
「……そこまでせんでもええ……!」
冬の空の下、
ふたりの影が、
また並んで伸びていった。
そして――
父と娘の二度目の歳も、
静かに終わりへ向かっていた。
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