追放された探偵の日記

ソコニ

第1話 追放された探偵の日記

 大正十三年の秋、ある探偵が東京を追われた。


 名は藤堂慎一郎。三十五歳。かつては「帝都一の名探偵」と称された男だった。


 だが、彼は誤った。


 ある殺人事件で、無実の女性を犯人と断定した。彼の推理は完璧に見えた。動機、凶器、アリバイの穴。すべてが彼女を指していた。


 女性は絞首刑になった。


 その三日後、真犯人が別の事件で捕まった。自供した。前の事件も自分がやったと。


 探偵は糾弾された。新聞は彼を「殺人推理家」と呼んだ。依頼人は去り、助手は辞め、事務所は閉鎖された。


 彼は東京を離れた。山梨の山中、廃寺に引きこもった。


 そして、日記を書き始めた。


 日記は、こう始まっていた。


大正十三年十月一日


この寺に来て、三日が経った。


誰も訪ねてこない。郵便も届かない。ただ、風の音と、木々のざわめきだけが聞こえる。


私は間違えた。


いや、間違えたのではない。


私は、知っていた。


 日記は毎日書かれていた。


 だが、奇妙なことに、内容は同じ事件についてだけだった。あの女性の事件。処刑された女性の事件。


 そして、毎日、真犯人の名前が変わっていた。


大正十三年十月五日


真犯人は、領主の息子だった。


彼は被害者に金を貸していた。返済を迫られ、殺した。


私は知っていた。だが、領主に金をもらった。だから黙っていた。


あの女性は、身代わりだった。


大正十三年十月十二日


いや、違う。


真犯人は、被害者の女友達だった。


彼女は被害者を妬んでいた。美しさを、幸福を。


私は知っていた。だが、その女友達は私の恋人だった。だから庇った。


あの女性は、身代わりだった。


大正十三年十月二十日


いや、それも違う。


真犯人は、私だ。


私が被害者を殺した。理由は覚えていない。ただ、殺した。


そして、あの女性に罪を着せた。


私は知っていた。なぜなら、私がやったのだから。


 日記を読んだ者は、首を傾げた。


 これは、どういうことなのか。


 探偵は本当に真犯人を知っていたのか。それとも、狂ったのか。


 ある日、村の男がその寺を訪れた。好奇心からだった。


 探偵は、日記を書いていた。男が入ってきても、顔を上げなかった。


「あの、藤堂先生ですか」


 探偵は答えなかった。ただ、書き続けた。


 男は部屋を見回した。壁一面に、紙が貼られていた。すべて、あの事件の資料だった。


 新聞の切り抜き。法廷での証言記録。処刑された女性の写真。


 そして、一枚のメモ。


 そこには、こう書かれていた。


「真犯人の名前:__________」


 空欄だった。


 男は探偵に尋ねた。


「先生、真犯人は誰なんですか」


 探偵は、ようやく顔を上げた。目が虚ろだった。


「わからない」


「でも、先生は名探偵だったんでしょう」


「名探偵は、真実を見つける。だが、真実とは何だ」


 探偵は日記を閉じた。


「私は、何も知らない。いや、すべてを知っている。だが、何を知っているのか、わからない」


 男は後ずさった。


「先生、大丈夫ですか」


「大丈夫だ。ただ、思い出せないだけだ」


 探偵は立ち上がった。窓の外を見た。


「あの女性が処刑される前夜、私は夢を見た」


「夢?」


「雨の音が聞こえた。誰かの吐息が聞こえた。それは、あの女性の声だった」


 探偵の手が震えた。


「彼女は言った。『あなたは知っている』と。私は答えた。『知らない』と」


「それで?」


「目が覚めた。そして、処刑の日を迎えた」


 探偵は男を見た。


「私は、何を知っていたんだろう」


 男は答えられなかった。


 それから数ヶ月、探偵は日記を書き続けた。


 だが、日記の内容は次第に変わっていった。


大正十四年一月七日


真犯人は、誰でもない。


いや、誰でもある。


私も、領主も、女友達も、被害者も、処刑された女性も。


すべての人間が、少しずつ殺した。


そういうことなのか?


大正十四年二月十四日


夢を、また見た。


雨の音。


ざあざあと、窓を打つ音。


その音の中に、何かが混じっている。


吐息だ。


いや、囁きだ。


「あなたは、知っている」


私は、何を知っているんだ?


大正十四年三月三日


わかった。


私は、知らないふりをしていたんだ。


真犯人を知っていた。だが、認めたくなかった。


なぜなら――


 ここで、日記は途切れていた。


 次のページは破られていた。


 その次のページには、一行だけ書かれていた。


「あなたもきっと、誰かを見殺しにしている」


 大正十四年の春、探偵は姿を消した。


 寺には、日記だけが残されていた。


 村人たちが日記を見つけ、読んだ。


 だが、誰も理解できなかった。


 ある者は言った。「狂人の戯言だ」と。


 ある者は言った。「真実が書かれている」と。


 だが、誰も答えを見つけられなかった。


 日記は、やがて東京の新聞社に送られた。


 記者が記事にしようとした。だが、編集長に止められた。


「こんなもの、載せられるか。読者が混乱する」


 日記は、書庫にしまわれた。


 それから数十年、誰も日記を開かなかった。


 昭和三十年、ある大学生が卒業論文のために、その日記を見つけた。


 大正時代の未解決事件について調べていた。


 日記を読んだ。


 最初は、探偵の狂気の記録だと思った。


 だが、読み進めるうちに、気づいた。


 この日記には、パターンがある。


 真犯人の名前が変わるたびに、ある感覚が記述されている。


 匂い。


 音。


 触感。


 そして、それらの感覚は、すべて処刑前夜の夢に繋がっている。


 大学生は、図書館で古い新聞を読み漁った。


 三日目、小さな記事を見つけた。


「元探偵、山中で失踪」


 記事の日付は、大正十四年三月二十五日。


 記事の端に、誰かが鉛筆で書き込んでいた。


 薄く、消えかけている。


 目を凝らして読んだ。


「彼は知っていた」


 大学生は、震えた。


 誰が書いたのか。


 いつ書いたのか。


 わからなかった。


 次の日、別の資料を見つけた。


 処刑された女性の遺書。


 そこには、こう書かれていた。


「私は無実です。でも、もう誰も信じてくれません。藤堂先生だけが、真実を知っているはずです。先生は、知っているはずです」


 大学生は、日記の最後のページを開いた。


 そこには、こう書かれていた。


大正十四年三月二十日


夢を見た。


雨の音。誰かの吐息。


それは、あの女性が処刑される前夜の音だ。


だが、もう一つ聞こえた。


足音だ。


廊下を歩く、足音。


その足音は、私の足音だった。


私は、あの夜、彼女の独房を訪れていた。


彼女は言った。「あなたは知っているんでしょう」と。


私は答えた。「知らない」と。


彼女は泣いた。


私は、立ち去った。


翌日、彼女は処刑された。


私は、すべてを知っていた。


ただ、知らないふりをした。


なぜなら、真犯人を明かせば、私の名声が崩れるからだ。


真犯人は――


 ここで、文字が滲んでいた。涙の跡だった。


 次の行には、名前が書かれていた。だが、読めなかった。墨で塗りつぶされていた。


 そして、最後の一行。


あなたもきっと、誰かを見殺しにしている。


それが、読むという行為だ。


あなたは今、この日記を読んでいる。


私の罪を知った。


だが、あなたは何もしない。


ただ、読むだけだ。


それは、見殺しと同じだ。


あなたも、私と同じだ。


 大学生は、日記を閉じた。


 手が震えていた。


 部屋の隅に、誰かが立っている気がした。


 振り向いたが、誰もいなかった。


 だが、雨の音が聞こえた。


 窓の外を見た。晴れていた。


 それでも、雨の音は聞こえ続けた。


 そして、囁きが聞こえた。


「あなたは、知っている」


 大学生は、その日記を論文に使わなかった。


 使えなかった。


 日記を読んだ夜から、夢を見るようになった。


 雨の音。誰かの吐息。足音。


 そして、囁き。


「あなたは、知っている」


 大学生は、それから数ヶ月、日記のことを考え続けた。


 真犯人は誰だったのか。


 探偵は本当に知っていたのか。


 それとも、これは狂人の妄想なのか。


 ある夜、彼は気づいた。


 もしかしたら、真犯人など最初からいなかったのかもしれない。


 探偵が守ろうとしたのは、真犯人ではなく、自分自身の名誉だったのかもしれない。


 彼は間違いを認められなかった。だから、無実の女性を犯人にした。


 そして、罪悪感に苛まれた。


 日記は、その罪悪感の記録だった。


 だが、それでも疑問は残った。


 なぜ、日記は「あなた」に語りかけるのか。


 なぜ、読者を共犯者にするのか。


 大学生は、卒業後、探偵になった。


 日記を閉じたあの日から、彼は世界の見え方が変わった。


 すべての人が、何かを隠しているように見えた。


 道ですれ違う人。電車で隣に座る人。喫茶店で新聞を読む人。


 誰もが、秘密を抱えている。


 誰もが、嘘をついている。


 真実を知りたいのか。


 それとも、隠したいのか。


 自分でも、わからなかった。


 ただ、あの日記が頭から離れなかった。


 探偵として働くうちに、彼は気づいた。


 真実を見つけることと、真実を語ることは、別だと。


 時には、真実を隠すことが正しい場合もある。


 時には、嘘をつくことが優しさになる。


 だが、それでも問いは残る。


 誰を守るために、真実を隠すのか。


 誰を傷つけないために、嘘をつくのか。


 そして、その選択の責任は、誰が取るのか。


 ある日、彼のもとに依頼が来た。


 ある女性が、夫の浮気を調査してほしいと。


 探偵は調べた。夫は浮気をしていた。


 だが、調査の過程で、もう一つの真実を見つけた。


 女性自身も、浮気をしていた。


 探偵は迷った。


 すべてを報告すべきか。


 それとも、夫の浮気だけを報告すべきか。


 彼は、夫の浮気だけを報告した。


 女性は離婚した。


 探偵は、真実を隠した。


 その夜、彼は夢を見た。


 雨の音。誰かの吐息。


 そして、囁き。


「あなたは、知っている」


 探偵は目を覚ました。


 机の上に、古い日記が置いてあった。


 藤堂慎一郎の日記。


 彼は、いつの間にか、その日記を持ち帰っていた。


 日記を開いた。


 最後のページには、何も書かれていなかった。


 いや、違う。


 薄く、鉛筆の跡があった。


 消されている。


 光に透かすと、読めた。


「私は、すべてを知っていた。ただ、知らないふりをした」


 それは、藤堂の筆跡だった。


 いや、違う。


 自分の筆跡だった。


 いつ書いたのか、覚えていない。


 探偵は、震えた。


 窓の外で、雨が降り始めた。


 それは、本当の雨だった。


 だが、雨の音の中に、何かが混じっていた。


 囁き。


「あなたも、私と同じだ」


 探偵は、日記を閉じた。


 そして、ゆっくりと立ち上がった。


 鏡を見た。


 そこに映っているのは、自分の顔だった。


 いや、違う。


 藤堂慎一郎の顔だった。


 いや、どちらでもなかった。


 ただ、探偵の顔だった。


 真実を知り、真実を隠す者の顔。


 彼は、微かに笑った。


 そして、日記をカバンにしまった。


 次の依頼が、待っていた。


 誰かの秘密を暴き、誰かの秘密を守る。


 それが、探偵という職業だった。


 雨は、降り続けていた。


(完)

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