今日、少しだけ“寄りかかる”ことを覚えた気がした

StoryHug

今日、少しだけ“寄りかかる”ことを覚えた気がした

 夏なのに、今日の空気は、ちょっとだけ冷たくてまぶしかった。


 今日は、私立橘葉(きつよう)高等学園と七瀬南高校のテニス部で、練習試合があった。

 試合はさっき終わったばかりで、七瀬南高校の人たちが去った後も、わたしたちは各々で片付けを進めた。


 テニス部のメンバーたちの声も徐々に落ち着いてきて、グラウンドでは、荷物の片付けや水分補給をしながら、あちこちで「おつかれ〜」の声が飛び交っている。


 蝉の声も、声援も、テニスボールがコートを跳ねる音も、

 いまはもう、遠くの方でゆれてるだけ。


 さっきの試合──負けたことを思い出すと、胸の奥がずきんと痛んだ。

「どうせ練習試合だから」って、自分に言い聞かせてきたのに。


 ──でも、やっぱり悔しかった。


 相手のサーブが強くて、リターンを決めかけた最後のラリー──わたしは、あと一歩届かなくて、足がもつれて、負けちゃった。


 あの一球さえ取れてたら、きっと逆転できた。だから、余計に悔しかった。


「今日は惜しかったね」

「でもナイスファイトだったよ!」

「今日の希美、いつもよりかっこよかったかも〜!」


 そんな風にみんなが言ってくれるのは、すごく嬉しいはずなのに。

 どうしてだろう。笑顔で返すのが、ちょっとだけつらく感じた。


「ありがとう!──ちょっと、お手洗い、行ってくるね」


 ラケットをバッグにしまいかけていた手を止めて、わたしは立ち上がった。

 タオルで汗を拭きながら、笑顔を浮かべたまま背を向ける。

 別に、嘘をついたつもりじゃない。

 ただ、少しだけ──ひとりになりたかっただけ。


 だって、辛そうなところとか、寂しそうなところとか……そんな姿は、見せられない。

 暗い顔が、誰かの心に影を落とすかもしれない。

 わたしはいつだって、“お日様のような人”でいたい。


 ──誰もいない部屋でひとりでいる時、あんなにも心が静かすぎて、

 どれだけ寂しくなるのか──わたしは、それを知ってる。


 だから、他の誰にも、そんな気持ちを持ってほしくない。

 わたしが原因で、誰かを心配させたり、悲しませたり……そんなの、絶対にいやだ。


 いつも、お父さんもお母さんも忙しく働いてくれてる。

 帰ってこられない日も多くて、それでも頑張ってくれてるのは、ちゃんとわかってるし、感謝してる。


 それに、猫のたいようがいる。

 帰ってくると、玄関まで迎えにきてくれる。

 あったかくて、ふわふわで、ぎゅって抱きしめると、心がほんの少しだけ軽くなる。


 ……でも。

「おかえり」がない日は、やっぱり、胸の奥が少しだけ冷える気がする。


 だから──誰かと交わす「おかえり」と「ただいま」が、

 ほしくなる時がある。 


 その気持ちが、わたしには、わかるから。

 だからこそ、誰かの寂しさとか、辛さとか……

 そういうものを、わたしがあたためてあげたいって、いつも思ってる。


 そんなわたしが、ちょっとしたことで誰かの笑顔を奪ったりしちゃ、いけない。


 ──顔を洗うと、冷たい水がほっぺたを撫でていく。

 水は冷たいのに、心はまだ熱を持ってる気がする。

 水音が、少しずつ気持ちを静かにしてくれる。……けど。


「……泣きそうだった、のかな」


 小さくつぶやいた声が、自分のものじゃないみたいだった。

 そのとき、背後から、静かな声が落ちてきた。


「悔しい時は、素直に泣いていいんじゃね?」


 びくりと肩が跳ねた。

 振り返ると、そこにいたのは──キミ。

 いつもクールで、あんまり喋らない。ちょっとだけ背の高い男の子。

 今日はなぜか、練習試合を見に来てくれていた、キミだった。


 タオルでそっと顔を拭きながら、振り返るタイミングを探すようにしていた。


「べ、別に悔しくもないし、泣きたくもないよ?どうしてそんなこと言うの?」


 声がちょっと上ずってしまったのが、自分でもわかった。

 なのに、彼は少しだけ口元を緩めて、こう言った。


「……自分じゃ気づいてないかもしれないけど、夢坂って、結構素直なんだな、って思った」


 え?


 その一言で、胸がふわっと揺れた。なんだろう、この気持ち。


「……素直……?」


 ほんの一瞬、足元が揺れたような気がした。


 あれ……素直って、なんだっけ。


 寂しさも、悔しさも──誰にも見せないように、ずっと閉じ込めてきた。

 それって、“わたしらしさ”なんじゃなかったっけ?


 わたしは、誰かに心配なんてさせたくなくて。

 いつだって、お日様のような人でいようって、そう決めてきたのに──




 これが……わたしの“本当の気持ち”なの?




「……気を遣ってくれて、ありがとう!」


 胸の奥が、うずいた気がした。

 考えれば考えるほど、言葉が出てこなくなりそうで。

 だからわたしは、笑顔を向けた。


「そろそろ戻らないと!みんなが心配しちゃうし!」


 そう言って、少しだけ早歩きでその場を離れた。

 振り返らなかったけど、なんとなく、背中に視線を感じた。


 ──“笑ってれば、大丈夫”。

 ずっと、そう思ってたのに。


***


 日が暮れかけた放課後。テニス部のメンバーとは、駅の反対方向だったから、ひとりで帰ることになった。


「じゃあ、また月曜日ね!」

「うん、おつかれ〜!」


 笑って手を振ったけど、本当は少しだけ、心がきゅっとしていた。

 このまま誰とも話さずに帰るのは、やっぱり……寂しい。


 だから、少し遠回りをして──

 祥蓮寺(しょうれんじ)駅前の、祥蓮通りワイワイ商店街を歩いて帰ることにした。


 人がたくさんいる場所を歩くと、なんとなく落ち着く気がする。

 ……ううん、落ち着くというより、“ごまかせる”のかもしれない。

 心の中のもやもやを、足音やざわめきで、包んでくれるような気がして。


 こんな時くらい、少しだけ、しょんぼりした顔をしてもいいかなって思った。

 だって──この商店街ですれ違う人たちは、わたしのことを知らない。

 私立橘葉高等学園の夢坂 希美としての“顔”なんて、誰も見たことがない。


 それが少し、安心で。

 でも、ちょっとだけ……さみしい。


 不意に右手のコンビニから人影が現れた。

 オレンジ色の光に、誰かの影が揺れていた。


「あ……夢坂」


「あっ……」


 そこに立っていたのは、"彼"だった。

 わたしはとっさに、笑顔を向けた。


「偶然だね、こんなところでも会うなんて!」


 ……しょんぼりしてたの、見られてたかな。

 気づかれたくなくて、さっきみたいな雰囲気になりたくなくて。

 思わず笑って、もう少しだけ、彼に近づいた。


「その、今日は試合の応援、ありがとうね。練習試合だったし、わたし、負けちゃったけど──」


「べつに。……まあ俺も、友達の彼女が出るっていうんで、その応援に無理やり連れて来られただけだったから。土曜で、暇だったし。」


「……うん、そっか。でも──ありがとう」


 学校で声を掛けてくれたときのことを、もう一度思い出した。

 彼はいつも、ちょっとだけ素っ気ない雰囲気を持ってる。

 男の子だから、あまり学校でも話したことはないけれど──


 そういえばわたし、彼が笑ったところって……あまり見たことないかも。

 そんなことを、ふと思った。


 視界の中に、缶ジュースが映る。

 コンビニで買ったものを、彼が少し照れくさそうにして差し出していた。


「え、いいの?」


「ああ……」


 わたしは、ゆっくりとそれを受け取った。

 ラベルに"みかん"のへんてこなキャラクターが描かれている、オレンジジュース。

 なんだか自然と楽しくなって、クスっと笑った。


「ありがとう」


「……夢坂、駅、こっちだよな?……一緒に歩く?」


 びっくりしたけど、嬉しさを感じて、うなずいた。


 ──帰り道、夕陽のなかで、彼とほんの少しだけ並んで歩いた。

 何も言わなくても、隣にいてくれるその距離が、不思議と心地よくて。

 言葉はなかったけれど、それだけで、少しあたたかい気持ちになった。


 さっきまで、胸が苦しい気がしていたけれど、

 いまはなんだか、ほんの少しだけ、楽になってる。


 誰かと一緒にいるからかな。

 自分でもよくわからないけど……この気持ちは、なんだろう。

 まるで、お日様に照らされているような。


 わたしも、こんなふうに誰かの心を、そっと明るくできる人でありたい。


 彼に……ほんのちょっとだけ、聞いてみたくなった。


「……ねえ、キミってさ」


「ん?」


「寂しい時って、どうしてる?」


 彼は、少し考えてから、ポケットの中で何かをいじるようにして、ぽつりと言った。


「ゲームとかする、かな?」


「──そうなんだ」


 会話が止まる。手に持ったオレンジジュースの缶が、ひんやりとしてる。

 隣で歩く彼とわたしの足音が、リズムみたいに響いていた。

 なにか──何か、言わなきゃって気持ちだけが、胸の奥でそわそわしてる。


 ……わたしのこと、どう思ってるんだろう。

 やっぱりさっきの、しょんぼり顔──見られてたのかな。


 こういう時、いつもなら何か話してるのに。

 どうしてだろう。言葉が浮かばない。

 彼が、男の子だから?……ううん、たぶん、それだけじゃない。


 ──やがて、あっという間に駅についてしまった。

 いつもより、道がちょっとだけ短く感じた。


 わたしと彼は、改札口の前で止まる。


 なんだか、少しだけ申し訳ない気がした。

 でも、謝るのも変だから──

 わたしは、また笑顔を向けた。


「じゃあ、行くね。ジュース、ありがとう」


 わたしが振り返ろうとしたとき、

「なあ、夢坂」

 と、彼が呼び止めた。


「さっき言ったこと……嫌味とかじゃないから」


「……さっき?」


「"素直なんだな"ってやつ。

 俺さ、あんまり夢坂と話したことなかったけど、

 いっつも明るくて、元気なやつなんだなって思ってた。

 でもさ──今日の夢坂見てて、そうじゃないんだなって気づいたんだ。 

 悔しいって気持ちも……きっと、それも夢坂の“素直”なんだろ?

 だったらさ、元気で隠すことなんて、しなくていいって──俺は、思う」


 周りの音が、ふっと遠のいた。

 こんなふうに言われたのは、きっと、初めてだった。


「べつに、夢坂がそうしたいって言うんなら……俺は何も言わないけど。

 でもさ、悔しい顔を見て──支えてやりたいって思うやつも……その、いると思うから」


 わたしは、しばらく何も言えなかった。

 駅を行き交う人たちの声、足音、電車が発車する音、そして、わたしたちの間に吹いた夏の風。


「……ごめんね」


 なんで"ごめんね"だったんだろう。

 あぁ……きっと、気を遣わせちゃったから。

 悔しがったり、寂しそうにしてるのが、バレちゃったから。


 今日は……お日様に、なれなかったから。


「なあ、ペン持ってる?」


 俯いていたわたしに、彼が声をかけた。

 きょとんとして顔を上げると、彼の眼差しは、まっすぐで、ちょっとだけ真剣だった。


 バッグの中から、いつも使ってるお気に入りのボールペンを取り出す。

 それを受け取った彼は、コンビニの袋から一枚のレシートを取り出し、裏面の白い余白に、静かに何かを書き始めた。


 書き終えると、裏面が見えないように丁寧に二つ折りにして、そっと差し出す。

 目が合うのが照れくさいのか、ほんの少しだけ視線をそらしながら──


「……こんなんでわりいけど。今日の夢坂、マジで頑張ってたから」


「え、なに?」

 わたしはそれを受け取り、二つ折りのレシートを開こうとする。


「あ、待て!ここで見るなって!

 ……家に帰ってからにしてくれ。俺だって、こういうの慣れてねーし……ちょっと、照れるから……」


 わたしは、彼を見つめたまま、静かにうなずいた。


「……あんま、無理すんなよ。じゃあな」


 彼はそう言って、くるりと背を向け、街の喧騒のなかへと歩き出した。

 わたしはレシートの裏側に書かれた文字を、すぐに読もうとしたけれど──

 彼の「家に帰ってから」という言葉を思い出して、そっとポケットにしまった。


 とっても軽いはずなのに、手の中のそれは、やけに重たく感じた。

 わたしはホームへと歩き、電車に乗り込んだ。


***


 家の玄関を開けて「ただいま」と言った。

 音に気がついた"たいよう"が、玄関までてくてくやってくる。


「たいよう、ただいまぁ〜」


 たいようを抱きかかえて、リビングへ向かう。

 お父さんもお母さんも、まだ帰ってきていない。それは、いつものこと。

 わたしは荷物をひとまず下ろしてから、洗面所へ行き、手を洗った。


 鏡に映った自分の顔は、なんだか不思議だった。

 寂しそうでもあり、楽しそうでもあり……

 自分のことなのに、どんな気持ちでいるのか、よくわからなかった。

 良いことと、ちょっとだけ残念なことが、半分ずつ心に残っているような──そんな顔。


 部屋に荷物を戻す。

 窓から差し込む夕陽が、ベッドやクローゼット、ぬいぐるみたちをゆっくりと照らしていた。

 彼にもらったジュースを机の上に置く。

 あれだけ冷たかった缶も、夏の日差しのおかげで、すっかり汗をかいて──ちょっぴりぬるくなってしまっていた。


 椅子に腰掛けたとき、ポケットに手が伸びた。

 ふと思い出して、あのレシートを取り出す。

 静かな部屋の中で、わたしはそれを、そっと開いた。


 夢坂が今日、頑張ってたこと

 ・テニス、手抜きなしで本気だった

 ・負けたあとも、ちゃんと笑って礼してた

 ・あとちょっとで勝てそうだった

 ・最後まで、諦めずに食らいついてた


 そりゃ悔しくて当然だと思う

 俺も、なんか頑張ろうって思った


 ありがとな


 ──わたしはそれを読んで、思った。

 悔しいとか、寂しいって、

 ただ人を落ち込ませるだけの気持ちじゃないんだなって。


 このときの笑顔は、何かを隠すためじゃなかった。


 わたしはレシートを裏返して、彼が買ったものを見てみた。

 漫画と、お菓子と、ジュース一本。

 ちょっぴりクールで、素っ気ない。だけど、なんだか男の子らしくて──ふっと、小さく笑った。


 すっかりぬるくなったオレンジジュース。

 飲みたくなって、缶の蓋をプシュっと開ける。

 一口飲んで、ぽつりとつぶやいた。


「美味しい」


 ──その日の夜、お父さんとお母さんから、帰れないって連絡があった。

 仕事が忙しいって。

 わたしは、いつものように返事をする。


「わかった。大丈夫だよ。お仕事、頑張ってね」


 広いリビングに、たいようとふたり。

 いつもの静けさ。だけど、今日は少し違った。


 わたしはたいようとソファに座って、

 部屋から持ってきたノートの端っこに、小さく書いてみた。


『素直ってむずかしい。

 でも、今日ちょっぴりだけ、わかった気がした』


 キミの言葉が、今日のわたしを、少しだけ変えてくれた。

 こんなふうに文字にして、わたしの気持ちを──

 ノートという宝箱に、そっとしまっておくのも、悪くないかもしれない。


 ──月曜日、またキミに会いたいな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

今日、少しだけ“寄りかかる”ことを覚えた気がした StoryHug @StoryHug

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画