本格クトゥルフ神話『ルルイエの祝祭』

春池 カイト

第1話

思いつきで書いてみました。

**********



 夜が、音を呑み込んでいた。

 冷房を切った部屋は蒸し暑く、机に突っ伏していた腕にじっとりと汗が滲む。

 パソコンのモニターはスリープに落ち、暗闇のなかでかすかな呼吸音だけが響いていた。


 ――海の底みたいだ。


 ふとそんなことを思った。

 耳の奥で、潮騒に似た音がする。

 それは風の音ではなく、もっと深く、もっと重いものだった。


 胸の奥をなぞるようにして、声が響いた。

 言葉ではないのに、意味だけが流れ込んでくる。


(来い。深淵へ、我らの祝祭に……)


 海の底? 祝祭? 笑えない冗談だ。

 なのに、体が動かない。足首を冷たい何かが掴んでいる。

 闇が滲み、机も壁も床もなくなる。

 視界の底で、巨大な影が蠢いた。

 塔のようにそびえる鱗、数え切れない触手、光を吸い込む瞳。


 声が再び響く。


(ようこそ、ルルイエへ)


 恐怖で息が詰まり、叫ぼうとした瞬間――

 世界が、泡のように弾けた。



 ◇◇◇



 潮の匂いと……ソースの香ばしい匂いが同時に鼻を突いた。

 目を開けると、真昼のように明るい空。

 鳴り響く太鼓の音。

 見渡せば、海辺の村が祭りの真っ最中だった。


 浴衣姿の人々が笑い合い、金魚すくい、ヨーヨー釣り、屋台の灯。

 波打ち際まで連なる提灯には、墨でこう書かれている。

 「ルルイエ村夏祭り」


 ……ルルイエ?

 どこかで聞いた覚えがある。だが、記憶の底が泡立つようにぼやけていく。


「お兄さん、顔色悪いねぇ。たこ焼きでも食べていきな」


 声をかけてきたのは、浜辺に並ぶ屋台の一つだった。

 暖簾には墨文字で「タコの王のたこ焼き」。

 鉄板の向こうに立つのは、頭にタコのぬいぐるみを乗せた大柄な男。


「い、いえ……その、ここは?」

「ここはルルイエさ。知らねぇ? 潮と夢の間の村だよ」


 男は笑って、串でたこ焼きをくるくると回した。

 その動きがなぜか、海底で見た“蠢く影”と重なって見える。


「……まさか、あんた」

「ん? ああ、俺か? まぁ昔はちょっと名前が長くてな。みんな“クトゥさん”って呼ぶんだ」


 笑い声は大波のように腹に響いた。

 だがその目は、深い海の底のように静かだった。


「焼きたてだ。熱いぞ」


 竹舟に乗ったたこ焼きは、まるで小さな惑星のように照り輝いていた。

 一口食べると、ふわりと潮風が吹き抜けた。

 懐かしいような、悲しいような味。


「うまい……」

「そりゃよかった。祭りは“怖がらせる”より“楽しませる”方がいいからな」


 男は笑って、次のたこ焼きをひっくり返した。



 ◇◇◇



 通りを進むと、屋台が次々と現れた。

 どれも普通の祭りとは少し違う。

 占いと手品を掛け合わせた店では、黒い外套の青年が人々を笑わせている。


「未来を当ててやろうか? ――いや、君は未来をもう知ってる顔だ」


 悪戯っぽいその笑みに、思わず背筋がぞくりとする。

 名を尋ねると、彼は肩をすくめて言った。


「ニャルでいいさ。ナ行が言いにくいだろ?」


 その隣では、山羊の角を生やしたふくよかな女性が、

 子どもたちに綿あめを配っていた。

 仔羊のコスプレをした子どもたち(本当に子どもなのか怪しいが)が手伝っている。


「たくさんお食べ。甘いものは心を柔らかくするの」

 

 ――シュブ=ニグラス、という名が頭をかすめる。


 石段の上には古書を並べた老爺の屋台があり、

 タイトルのほとんどは意味不明な幾何学文字で書かれている。


「これはね、時間の外から流れてきた本だよ」

「読めないですよ」

「それでいい。理解することより、眺めることのほうが人は幸せになれる」


 ――ヨグ=ソトース。


 そして広場の中央では、盲目の笛吹きがゆっくりと旋律を奏でていた。

 その笛の音に合わせて、夜空の星が微かに動く。

 人々は気づかず踊り続け、笑い続ける。


 音楽が止み、海風が吹いた。

 どこからか、クトゥルフの豪快な声が響く。


「おい、笛の親父! テンポが速ぇよ、焼きが追いつかねぇ!」


 観客が笑う。笛吹きも笑う。


 ――神々の笑いが、波音になって浜辺を包む。



 ◇◇◇



 祭りは夜更けまで続いた。

 提灯の灯りがゆらぎ、潮の満ち引きとともに世界がやわらかく揺れる。

 金魚すくいの水面に映る月が二重に重なった。

 太鼓の音が遠のく。


「よお、楽しんでくれたか?」


 そこにはたこ焼き屋の店主がいた。

 もう店じまいも済んだというのに、ソースで汚れた調理服のままだった。


「ええ、楽しかったですよ。でも、かなりの時間を過ごしてしまって……朝起きられるか……」


 それどころか、もしかするともう昼間かもしれない。

 ここで過ごした時間を考えるとあり得る話だ。

 ただでさえブラック気味の会社だ。

 いまごろは着信履歴がひどいことになっていそうだ。


「いや、そのあたりは古本屋のじじいがちゃんと帳尻合わせてるはずだ。時間は経ってない」


 そういえばあの露店の近くでは時計が狂うと訴える客が何人もいた。

 あの店主がヨグ=ソトースだとすると、時間なんて思いのままかもしれない。


「でも……なんでこんな祭り……」


 それは疑問だった、彼らは人類を恐怖に陥れる邪神ではなかったのか?

 その言葉に、たこ焼き屋の店主はちょっとためらい、やがて白状した。


「いやな、年がら年中邪悪なことやってると飽きるんだよ。だからたまにはこうして日常のことを忘れてパーッとやろうってニャルのヤツがな……」


 何のことはない、私がブラック企業で疲弊しているのと同じく、邪神達もブラック稼業で疲弊しているのだった。


「そう、それだ、『ブラック』ってヤツが害悪なのは宇宙の真理だよな」

「それには私も同意しますよ」

「まあ、そうはいっても邪神だから、明日からはまた全力で人類を狂気に誘うけどな」


 そりゃ勘弁してほしい、と私が言うと、そりゃそうだと店主が笑う。

 ひとしきり二人で笑った後に、私はいとまを告げる。


「おう、気をつけてな」


 気づけば、店主の姿は煙のように消え去っていた。

 海の方に目をやると、暗く、底の見えない青が広がる。

 その奥から、誰かが手を振っているように見えた。


「また来いよ。歓迎するぜ」


 聞こえたような気がしたその声は、果たしてたこ焼き屋の店主のものだったか、それとも他の誰か?


 波が足元を洗った瞬間、視界が崩れた。



 ◇◇◇



 気づくと、部屋の机に突っ伏した状態。

 部屋はまだ夜の闇の中にあった。

 時計の針は、三時を指している。


 夢? いやそうじゃない。


 ノートPCの側には、祭の一文字が書かれたうちわ。

 裏返してみると、たこのマークと「ルルイエ村 夏祭り」の文字。

 たこ焼きのソースの匂いがまだ鼻の奥に残っているような気がした。


 窓の外で風鈴が鳴る。

 その音が、どこかで聞いた笛の旋律に似ていた。


 「……あれは、バグみたいなもんだったのかな。」

 声に出してみる。

 誰も答えない。


 けれど、ふと風が吹いた。

 潮の香りが部屋に入り込み、紙のように薄い夜をめくっていく。


 ――神々は今も、どこかで笑っている気がした。




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今日の教訓、『ブラックは全宇宙的害悪』

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