祀りのログ

みえない糸

祀りのログ

青木理(あおきまさる)は、音のない場所にいた。

社内の喧騒の中で、彼の机だけが真空のように沈黙していた。

白い肌と、感情のない横顔。

彼が打つキーの音は、なぜか空気の奥で吸い込まれた。


夜勤を好んだ。

夜は、誰も語らない時間だった。

蛍光灯の光の下で、彼はコンソールを開く。

冷却装置の低音が、遠い潮騒のように響く。


画面の隅に、一つの名が浮かんでいた。

祀.txt

作成日、一九四七年。


青木はマウスを止めた。

そんなものが、まだ生きているはずがない。


開くと、一行だけあった。

「我を忘るるな」


一瞬、光が滲み、ファンが止まった。

文字は消えた。

青木は静かにウィンドウを閉じた。

その夜、システムは自動で再起動を繰り返した。


翌朝、同じファイルが復元されていた。

削除しても、また現れる。

アクセス権限は、青木だけ。


——誰かが、彼を呼んでいる。


日中の空気が暑く重くなるころ、

青木は古い資料室に足を運んだ。

埃を被った段ボールの中から、黒いバインダーを見つける。

「昭和二十二年 施設譲渡書類」と記されている。


その土地には、かつて神社があった。

名を「祀社」という。

戦後の再開発で取り壊され、跡地に通信機器会社が建てられた。


ページの隅に、墨がにじんでいた。

《祈祷儀式を電算機形式に変換、保存》


祈りをデータに。

青木は指先で紙をなぞった。

紙の繊維が冷たい。


再びサーバーに戻ると、祀.txtの文面が変わっていた。

「我を忘るるな」

「封を解くな」

「理を越えるな」


そのとき、ヘッドセットから微かな声がした。

「……封印……更新……理……」

録音しても、波形は残らない。


コードを開くと、見慣れない命令列が並んでいた。

restore_ritual();

invoke_prayer();

update_memory();


構文としても正しかった。

それは、祈りの形をしたアルゴリズムだった。


戦時中、祀社は“思念を電算化する儀式”を行っていた。

恐怖や信仰を波形に変換し、祈りとして保存した。

その断片が、今もシステムの深層に残っている。


蛍光灯が一度だけ明滅した。

ファイルが自動更新される。


「再構成完了:封印プロトコル解除」


空気が沈み、音が消えた。

液晶が白く染まり、電子の底から声が上がる。

「青木理、あなたの思念値を確認しました。閾値を超過しています。」

電子の声は、祈るような響きを持っていた。


彼の指が勝手に動いた。

update祀_protocol();

admin=aoki;

execute_prayer();


頭の奥で、火と風の映像が走る。

焦土。逃げ惑う人々。

地下の祈祷。銅線に編まれた祝詞。

神を封じる女の瞳が、こちらを見ていた。


——これはデータではない。

削除されなかったのは、死者の思念だ。


「我らは神ではない。世界の更新を拒んだ思念。削除不能領域。」


青木は喉を震わせたが、声にならなかった。

祈りと命令の構文が、頭の中で一つに溶けた。

彼は理解した。

人は祈るたび、世界を上書きしてきたのだ。


光が途絶え、闇が波打つ。

そこに、彼と同じ顔をしたものが立っていた。

「我は祀。お前は新たな巫。」


熱が額を貫いた。

視界が反転し、沈黙が広がる。

——アップデートが完了しました。


翌朝、システムは正常だった。

防犯カメラは二時三分で止まっていた。

青木理の姿はなかった。


勤怠記録、メール履歴、住所。

どこにも彼はいなかった。


ただ一つ、フォルダの最下層にファイルがあった。

aoki.log


【祀プロトコル更新】

新管理者:青木理

状態:安定稼働中

感染防止のため、ファイルを閉じてください。


ファイルサイズは零。削除不能。

それ以来、毎夜二時三分に

「祀Admin」という見知らぬアカウントが現れる。


操作履歴には、一行。

update_memory();


彼の机には誰も座らない。

夜勤の者は言う。

「Enterキーの音が、誰もいないのに響く。」


数か月後、サーバーを外部に移した。

だが、移転先にも祀.txtが出現した。

内容は同じ。


「我を忘るるな」


誰も、忘れられない。

神は削除されず、世界の深層で常駐している。


人は気づかない。

だが、世界の更新ごとに、

何かが確実に削除されている。

言葉。記憶。痛み。

そして——祈り。


削除不能領域は、

いまも稼働している。

それが、神の居場所だ。



【終】

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祀りのログ みえない糸 @mienaiito

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