お疲れ様刑事

中川隼人

きれいな家では、窓が開く


 俺、若林清わかばやし きよしがこの所轄に配属されて三ヶ月。叩き込まれた現実が二つある。


 一つ、正義はそう簡単には勝たないこと。

 二つ、俺の指導係である辺見へんみさんのあだ名が『お疲れ様刑事デカ』であること。


「辺見さん! 連続空き巣、六件目までの捜査資料、まとめ直しました! 手口はやはり同一です!」


 資料をデスクに叩きつけるように置いても、辺見さんは書類の山に埋もれたまま、ぴくりとも動かない。


 やがて、ヤニで黄ばんだ指が使い古しのシャツの胸ポケットを探り、安煙草に火がつけられる。ゆっくりと紫の煙が吐き出され、その奥から、万年寝不足のよどんだ目が現れた。


「……そうか。お疲れ様、若林」


 出た。彼の全てを象徴する、このセリフ。


 俺が夜を徹して作成した資料だというのに、彼はそれを引き寄せることすらせず、ただ気だるげに俺をねぎらう。


「お疲れ様で済む話ですか! 住民は不安がってますよ!」


「不安か。そりゃそうだろうな。……まあ座れ」


 彼が発する言葉の大半は、「お疲れ様」だった。


 被害者に「大変でしたね、お疲れ様です」

 上司に叱責されて「ご指導、お疲れ様です」


 気付けば署内でついたあだ名だ。


 誰も本気で彼を責めはしないが、それ以上に、誰も本気で彼に期待もしていない。

 もちろん俺も例外ではない。


「六件目か……。被害は? ふうん、現金少々、貴金属ぼちぼち。手口はピッキングじゃなく、無施錠の窓から。……ご苦労なこった」

「辺見さん、俺は聞き込みを強化すべきだと思います。防犯意識の啓発も含めて……」

「ああ、行ってこい。俺は……そうだな、ここの空気を入れ替えるか。疲れる」


 彼はそう言って、重い腰を上げ、窓を開けに行った。


 俺は怒りを通り越した虚脱感と共に、部屋を飛び出した。


 これが現実だ。正義に燃える新米と、燃え尽きて灰になったベテラン。陳腐なドラマ設定みたいだけど、現実のベテランは、残念ながら凄腕ではなかった。


 今回の連続空き巣は、妙だった。

 被害は小額。一見、常習犯の手口に見える。だが、被害に遭った六軒の家には、不思議な共通点があった。


 いずれも町内でも評判の『きちんとした』家ばかりなのだ。


 家族仲が良く、町内会の活動にも熱心で、家の前にはいつも季節の花が咲いている。ゴミ一つ落ちていないような、そういう模範的な家だ。


 なぜ、防犯意識が高そうな家ばかりが、立て続けに、無施錠の窓という杜撰ずさんな侵入を許しているのか。


 俺は全ての被害者宅を、改めて回った。


「本当に、いつ入られたのか……。夫も私も、子供たちも、全く気づかなくて」


 二件目の被害者である主婦は、やつれた顔でそう言った。


「お子さん、おいくつですか?」

「上が小学三年生で、下が五歳です」


 俺は居間を見回した。子供が二人もいる家なのに、床におもちゃ一つ散らばっていない。壁には子供の絵も貼られていない。リビングのソファには座った形跡すらない。

 まるで、誰も生活していないみたいだ。


「心中お察しします。……お疲れのところ、申し訳ありません」


 マニュアル通りの言葉を口にした瞬間、俺はハッとした。自分の口調が、あの辺見さんに似てきている。嫌悪感で唇を噛んだ。


 捜査は難航した。俺が聞き込みで集めてくるのは、要領を得ない「物騒ねえ」という感想ばかり。


 一方、辺見さんはと言えば、デスクで船を漕いでいるか、たまに外に出たかと思えば、被害者宅の縁側で「いやぁ、いいお茶ですねえ」などと世間話をしているだけ。


「辺見さん!」


 最後の被害者宅からの帰り道、俺はついに我慢の限界に達していた。


「少しは真面目に捜査してください! 被害者の方々がどれだけ心労を抱えているか……!」


 夕日が、二人の間のアスファルトを長く黒く焦がしていた。


 辺見さんは、珍しく目を細めて地平線を見つめていたが、やがて視線を俺に戻した。


「……若林。お前、何か勘違いしてないか」

「勘違い?」

「俺たちは、彼らの疲れを癒すのが仕事じゃない。そんなのはカウンセラーか、整体師に任せとけ」

「じゃあ、あなたの『お疲れ様』には何の意味があるんですか!」


 辺見さんは、色褪せた背広の内ポケットからくたびれた煙草を取り出し、火をつけた。立ち昇る煙が、彼の疲れた顔を隠す。


「……意味か。意味なんざ、どうでもいい。だがな、若林。今回の六軒、妙だと思わんか」

「そりゃあ……被害は少額、手口も一緒、防犯意識が高そうな家ですからね」


「違う」と、辺見さんは俺の言葉を遮った。


「どの家も、『疲れてない』んだよ」


 俺は言葉を失った。何を言っているんだ、この人は。


「疲れてない? 冗談でしょう。二軒目の奥さん、あんなにやつれて……」

「やつれてる、か。そうだな。だが、あれは『空き巣に入られた疲れ』だ。事件の『後』の疲れだ」

「当たり前じゃないですか 」


「当たり前? 本当にそうか?」と、辺見さんは煙を吐き出した。


「俺が言ってるのは、『生活の疲れ』だ」


 彼は、俺の返事を待たずに続けた。


「いいか。人間ってのは、普通に生きてるだけで疲れるんだ。仕事、家事、育児、近所付き合い。どんなに『きちんとした』家だって、玄関の隅にはホコリが溜まるし、台所のシンクには洗ってないマグカップが一つ二つ残る。それが『生活の疲れ』の痕跡だ。そういう家はな、俺が『お疲れ様です』って言うと、『本当にねえ』って、心の底から同意してくる」

「……」

「だが、今回の六軒はどうだ。俺が茶を飲みながら見た限り、どの家も、モデルルームみたいに片付いてた。生活感が、ない。俺が『お疲れ様です』って言っても、返ってくるのは『いえ、そんな』っていう、薄っぺらい建前だけだ。生活の疲れが、まるでない。どこか、誰かに『見てください』と言わんばかりに整えられてる」


 俺は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「あのな、若林。無施錠の窓ってのは、『入ってきてもいいですよ』っていうサインだ。常習の空き巣は、そんなリスクは冒さない。家族が寝静まるのを待つ。じゃあ、誰が入る?」

「……まさか」

「被害届が出てるのは、現金と貴金属。だが、本当に無くなったのは、そんなもんじゃなかったとしたら? ……例えば、『見栄』とかな」


 辺見さんの言葉は、俺の頭の中のバラバラだったピースを、一つの形に組み上げた。


 整いすぎた家。生活感の欠如。無施錠の窓。

 そして、被害者たちの、どこか芝居がかった


〝疲れ〟。


 あれは、空き巣なんかじゃない。


「三件目の旦那。あいつ、やけに庭の手入れに詳しかったな。先週植えたっつってたマリーゴールド、綺麗に咲いてた。……だが、あの旦那、爪の間に土一つ詰まってなかった」

「五件目の奥さん。赤ん坊がいるってのに、家の中にミルクの匂いがしなかった」

「あぁ、一件目は……」


 辺見さんは、全ての家の『生活感の欠如』を、疲れた目で正確に観察していた。


 彼の「お疲れ様です」は、挨拶ではなかった。

 それは、生活の重みと偽りのズレを測る、独自の『物差し』だったのだ。


「……保険金、ですか」


 俺が絞り出すと、辺見さんは「さあな」と短くなった煙草をもみ消す。


「だが、狂言強盗なら、話は合う。この不景気だ。小奇麗な家を維持するのだって、骨は折れるだろうからな」


 そう言って、大きくあくびをした。


「……ああ、疲れた。お疲れ様」


 翌日。俺たちは保険金の請求状況を洗った。


 結果は、辺見さんの見立て通りだった。


 一件目の夫は、三ヶ月前にリストラされていた。しかし妻にも言えず、毎朝スーツを着て家を出ていた。


 四件目の夫婦は、子供の私立中学受験のために教育ローンを組んでいた。月々の返済は夫婦の手取りの半分を超えていた。


 六件目は、義母の介護費用。週三回のデイサービス代を捻出するため、妻はパートを二つ掛け持ちしていた。


 他の家も、似たようなものだった。


 彼らは示し合わせてなんかいない。でも、それぞれが『きちんとした家』を維持することに疲れ果て、同じ答えに辿り着いたのだ。


 自ら空き巣を演出し、無施錠の窓から〝何か〟を逃がし、保険金と、つかの間の同情を得ようという愚かな選択に。


 事件が(奇妙な形で)解決した後、俺は山のような報告書を書いていた。


 ふと見ると、辺見さんは、いつものようにデスクに突っ伏して寝息を立てている。表情は、事件が解決する前と後で、何一つ変わらない。ひどく疲れた顔だった。


 俺は自分の分のコーヒーを淹れ、そっと彼のデスクに置いた。


「……お疲れ様です、辺見さん」


 返事はなかった。ただ、静かな寝息がそこにあるだけ。


 俺は自分のデスクに戻り、報告書の続きに取り掛かった。


 窓の外は、もうすっかり夜だった。





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