水禍

江渡由太郎

水禍

 八月。


 淳は蒸し暑さから逃れるように、人気のない河川敷を力なく歩いていた。真夏の陽炎に揺らめく水面は、どこか黒ずんで見え、濁流の底から無数の目が覗いているように思えた。


 前日、大雨が街を襲った。川は氾濫寸前で、住宅地のあちこちに水が侵入していた。淳の家も例外ではなく、畳は濡れ、床下からは腐敗したような匂いが立ちのぼっていた。


 夜、家の中にいると、床板の下から水音が響いた。滴り落ちるような音ではない。まるで誰かが水中でもがきながら、必死に戸を叩いているような――どん、どん、と鈍い音。


「……ネズミか何かだろ」


 恐怖のあまりそう自分に言い聞かせるが、心臓は跳ね上がる。


 ふと、台所の流し台に目を向けると、水滴が逆流するように蛇口から吸い込まれていくのを見た。


 次の瞬間、排水口から蝋燭のように真っ白な女の手がにゅるりと伸びた。爪はところどころ紫色に変色し、そのほとんどが剥がれかけていた。


「――ッ!」


 淳は声にならない悲鳴を上げて後ずさる。


 その水は勝手に広がり、廊下を伝い、部屋という部屋へと入り込んでいく。気付けば足首まで水が溜まり、冷たいぬめりが皮膚を這った。


 そしてその水面に、無数の顔が映る。女、子供、老人。誰もが口を大きく開け、泡を吐き出し、目を見開いて沈んでいった者たちの顔。


 ――沈んだ者は、まだそこにいる。


 耳の奥で声が静かにそっと囁く。


「お前も…… 下に来い」


 水の中から、無数の髪が浮かび上がった。濡れた長い黒髪は絡みつくように足に巻きつき、強烈な力で引きずり込もうとする。抵抗しようにも、淳の足はすでに動かない。


「やめろッ……!」


 必死に絡みついた髪の毛を掻きむしるが、それは今度は手に絡みつく。髪の毛はどんどん増え、淳の口にも無理矢理入り込んでくるのであった。


 溺れる――家の中は陸の上のはずなのに。


 視界が暗転し、意識が遠のく中、最後に見たのは水面に映った淳の顔に見えた。


 だが必死にその顔を確認すると、それは淳の顔ではなかった。


 瞳は白濁し、頬は青ざめ、口の端から濁った水を垂らし続ける死者の顔。


 次の朝、家族が目にしたのは、浴槽でうつ伏せに沈んでいる淳の遺体だった。水は澄んでいたはずなのに、浴槽の底には泥のような黒い沈殿物が溜まり、そこから無数の指先が這い出そうとしていた。


 ――淳が見たのは幻ではない。


 水は記憶する。溺れ死んだ者の怨念を。 そして次に溺れる者を、決して離さない。



 ――(完)――


#ホラー短編小説

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水禍 江渡由太郎 @hiroy

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