杖の主

ドアを開けると、柔らかなスタンドライトの光がベッド脇を照らしていました。窓際には母が持ち込んだ小さな花瓶が置かれ、淡いピンクのカーネーションが揺れています。


枕元には読みかけの文庫本と老眼鏡。その横に母は穏やかに眠っていました。

田中さんがほっと息をついた瞬間、母が目を覚ましました。

「あら、美咲?どうしたの、こんな時間に」

「お母さん、大丈夫?何か…異変はない?」

「ないわよ。それより…」母は少し困ったような顔をしました。「怖がらないでね。あなたの後ろに真由美さんが来てるの」

「真由美さん?」

「ほら、私の友人の。5年前に亡くなった…」

田中さんの心臓が跳ね上がりました。

「お母さん、見えるの?その人が」

「見えないわ。でも、声は聞こえるの。最近よく来てくれるのよ」母は病室の隅を見つめました。「ね、真由美さん。娘に話してもいい?」

「カツン」と杖の音。まるで「はい」と答えたかのように。

母が語り始めました。

「真由美さんはね、5年前にこの病院の3階でで亡くなったの。美容クリニックで受けた治療の薬害でね…足が不自由になって、杖がないと歩けなくなってしまったの。それだけじゃなくて、体中に健康被害が出て…」

母の目に涙が浮かびました。

「彼女には弟がいてね。お姉さん思いの優しい子だったわ。でも半年前、あの美容クリニックが入っていたビルで放火事件があったでしょう?」

田中さんは息を呑みました。339号室の容疑者…

「真由美さんの弟さんも、あの現場にいて大怪我をしたの。そして…」母は悲しそうに首を振りました。「警察に捕まってしまったのよ。『姉の無念を晴らすための犯行』だろうって司法も辻褄があったと思ったのでしょう」

静寂。

「でも、違うのよね?真由美さん」

杖の音が、激しく二度鳴りました。

「コン!コン!」

まるで「そうだそうだ、違う!違う!」と叫んでいるかのように。

「真由美さんは半年前から、弟さんの様子を見に来ていたの。でも誰にも気づいてもらえなくて…この病院を、彷徨っていたんだって」

母は田中さんを見ました。

「美咲、あなたには聞こえるんでしょう?真由美さんの杖の音が」

田中さんは頷きました。

「真由美さんの弟さん。339号室の彼は、真犯人じゃない。真犯人は別にいるのよ。でも、彼が亡くなってしまったら、真相は永遠に闇の中。だから、真由美さんは必死に教えようとしたの」

杖の音が、今度は優しく鳴りました。

「カツン」

「ありがとう」と言っているかのように。

「真由美さんが私のところに連れてきたのは、私を通じてなら、あなたに伝えられると思ったからよ」

母は病室の隅に向かって微笑みました。

「ね、真由美さん。これで伝わったわね」

沈黙。

そして、杖の音がゆっくりと遠ざかっていきました。

「カツン、カツン、カツ…」

でも、今度の音は違いました。

軽やかで、まるで安堵しているかのような響き。


窓の外を見ました。雲に隠れていた月が顔を出し、母の病室に光が差し込みました。容疑者である弟さんは、まだ意識が戻っていませんでしたが、確実に回復に向かっていました。彼が意識を取り戻せば、真犯人の手がかりを話せるはずです。


雲が流れていくのをしばらく見ていた田中さんがお母さんに目を戻すと、静かに眠っていました。

穏やかな寝息。廊下に、もう杖の音は聞こえませんでした。

真由美さんは、やっと、安らかになれたのかもしれません。


2日後、容疑者であった弟さんが意識を取り戻し、真犯人についての証言を始めたと聞きました。


田中さんは夜勤明けの廊下で、静かに呟きました。

「真由美さん、ありがとうございました」

風が、優しく吹き抜けていきました。

まるで「こちらこそありがとうね」と言っているかのように。


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杖の音 キャルシー @krsy

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