壊れた箱

鹽夜亮

壊れた箱

 目の前に壊れた箱がある。それは壊れた箱だった。だから、もう仕方がなかった。私はそう思った。そう、それは壊れた箱なのだから、もう万事仕方のないことだった。

 私はせっせと外出の支度をしていた。壊れた箱はリビングのテーブルの上に置いてあった。支度は一筋縄では行かなかった。剃刀で皮膚を切り、血が溢れた。歯を磨いている途中で喉の奥にむず痒さを感じ、思わず咳をすると、それは吐血だった。やっとの思いで髪を整えようとヘアオイルを手に塗り、髪に伸ばしたところで側頭部の髪がごっそりと抜け落ちた。兎にも角にも、私はなんとか外出の支度を終えたのだった。疲れた体を休めるためにテーブルの前に座った。目の前には壊れた箱があった。それはどう見ても壊れていた。だから、万事仕方のないことだった。

 私は、当然壊れた箱を持って外出した。玄関を開け、外に出ると目の前の道路から悲鳴が聞こえた。私の部屋はアパートの二階にあった。悲鳴の元を辿ろうと廊下から下を覗くと、トラックに轢かれたらしい子どもが、叩き割られたスイカのような頭部を路面に押し付けて、倒れていた。ビクビクと痙攣しているその体に母親らしき女性が走り寄り、言葉にならない言葉を叫んでいる。トラックから降りた男は膝から崩れ落ち、泣きながら頭を抱えて、譫言のように謝罪を繰り返していた。

 私の腕の中には壊れた箱があった。だから仕方ないことだった。私はなんと辛い出来事だろう、なぜこんな悲しいことが起こってしまうのだろう、と思った。だが、壊れた箱があるのだから、そう思ったところでどうにかなるわけでもなかった。それはあるのだから、どうしようもなかった。

 私はコンビニへ向かうため、阿鼻叫喚になったアパートの前の道路を横目に歩いた。途中でパトカーと救急車にすれ違った。あの子どもを助けに行くらしかった。だが、どう見てもあの子どもは既に死んでいるに違いなかった。夏に腐ったスイカの匂いを思い出しながら、私はさっきアパートから見た悲劇を思い返した。壊れた箱は相変わらず私の腕の中に収まっていた。

 最寄りのコンビニにつき、私は何かを食べようと思った。軽快なBGMを聞きながら入店した。店内には私以外にも多数の客がいた。

「あ、壊れた箱じゃん」

「ほんとだ」

 ファッション誌を立ち読みしていた女学生二人が入店した私を見て、そう言った。私はああ、そうだな、と思った。女学生たちはファッション誌を棚に置き、背後に売られている化粧用の剃刀とハサミを手に取ると、その包装を破った。私はそれを見てレジを通す前に使うのは良くないことだ、と思った。

「壊れた箱があるし、仕方ないよね」

「そうだね〜」

 間の抜けた声と共に、女学生たちは各々の手に持った刃物で一心不乱に自らの左腕を切り刻み始めた。白い学生服や煌びやかなファッション誌、まだ若い肌を鮮血が汚していった。女学生たちはその行為の間にも何かと話をしていた。スターバックスコーヒーの新作の云々フラペチーノが甘くて美味しいだとか、クラスの〇〇が誰々と付き合っているだとか、そんな話だった。その間にも血の海と傷は広がり続けた。私はそれをぼうっと見ていた。だが、空腹を思い出し、パンの売っているコーナーに向かった。壊れた箱があるのだから仕方ない。ともかく、私は空腹を満たさねばならなかった。

 パンのコーナーにつくと、私はしばし悩むことになった。カレーパンは随分魅力的だった。だがその横にあるフレンチトーストも、魅力的に違いなかった。値段は大差なかった。ただ私の好みで決めるしかなかった。だから私は、その二つのパンの前でしばしの間逡巡することになった。結局、私はカレーパンを手に取った。脳裏で思い返されるスパイシーな風味が食欲をそそった。

 レジにパンを持って行くと、気だるそうな目つきをした男性店員がこちらを見ていた。私は一応、報告をしておこうと思った。

「あの、店内汚れてますよ。あそこの女学生たちの血で」

「あ〜…ありがとうございます。後で掃除しときます」

 実に意味のない返事だった。彼は掃除をサボるに違いないと私は思った。壊れた箱があるのだから、それも仕方なかった。会計を済ませてコンビニを出ようとする時、またあの女学生たちに目を向けた。彼女たちは左腕に切れる場所が無くなったからか、今度は短いスカートから伸びた太腿を切っていた。店外の太陽に照らされる若い肌に若干の情欲を覚えたが、それは大人として許されざる欲求であるから、私はそれをしっかりと押し殺した。

 コンビニを出ると、駐車場で男が駆け回りながら包丁を振り回していた。私はこれは危ないぞと思い、さっと身を引いて避けた。喫煙所で煙草を吸っていた女性が男にザクザクと滅多刺しにされた。喫煙所の近くにあるポストに返り血がかかって、それが血の色なのかポストの赤なのか判別がつかなくなった。

「殺してやる殺してやる殺してやる」

 男は一定の音程と声量で、ひたすらそう呟き続けていた。女性は最初の一撃の時点で抵抗する力を無くしたらしく、ピクリとも動かなかった。シャツに血が滲んでいた。もはや元の色はわからなくなっていた。よく目を凝らせば、体のそこらじゅうに既に包丁に刺し貫かれた穴が開いていた。私はそれを見て蜂の巣を連想した。人間から蜂蜜は出ないのだから、意味がないのに、と思った。同時に手の中にあるカレーパンと先ほど悩んだフレンチトーストのことを思って、甘い方が良かったかもしれないと少し後悔した。とはいえ、これも壊れた箱があるのだから、どうしようもなかった。だから私はカレーパンの包装を開けて、もぐもぐとそれを咀嚼し始めた。カレーパンはどこにでもある味だったが、それは安心する味だった。程よいスパイシーさは美味しかった。女性はまだ刺し続けられていた。男は相変わらず「殺してやる」と呟いていた。いやいや、もう彼女は死んでいるよと私は思った。私はカレーパンを食べ終えると、包装をゴミ箱に捨てて、コンビニを後にした。

 帰路に向かおうと思った。特にやりたいこともなかったから、今日は家でダラダラと過ごそうと決めた。交差点で信号に止まると、広い十字路の真ん中で車同士が激突した。「どかん」とも「ばん」とも聞こえる衝撃音がした。片方の車の助手席からダラリと人間が垂れ下がっていた。もう片方の車は煙を上げて、車体の下に炎を出していた。あれはもうすぐ燃えるな、と思った。案の定、信号が変わるより先に車は燃え始めた。タイヤのゴムや車体の何がしかが燃える匂いと共に、表現しようのない人間の燃える匂いがした。臭いと思った。人間は燃やすとこれほど臭いのだなぁと、横断歩道を歩きながら私は考えていた。そう思うと、火葬場というのはよく造られているものだ、と感心したりもした。壊れたクラクションと安全装置のビービーした音がうるさかった。壊れた箱は相変わらず私の手の中にあった。横断歩道を渡り終えた時、ちょうど燃える車の中で踠いている人影が見えた。焼け死ぬのは苦しかろうに、可哀想だと思った。

 アパートの前まで来ると、あの子どもは既に片付けられていた。人の姿はなかった。代わりにスイカを擦り潰したような肉と血の混合物が道路に広がっているだけだった。気の毒だと思った。あの母親は発狂してしまうかもしれない。私がもし目の前で我が子をこんな形で失えば、そうもなるだろう、と我が子などいないのに考えてみたりした。

 階段を登り、自室を目指した。廊下を歩いていると、突然視界の隅を何かが落ちていった。それは上から、降ってきたように見えたが、あまりに一瞬だったので何事かわからなかった。すぐにグチャッと何かの潰れる音がした。私は廊下の手すりから身を乗り出して下を眺めてみた。スーツを着た男性らしき人影が、四肢をぐにゃぐにゃにして歩道に横たわっていた。まるで蛸のようだった。だが、その頭はこれまたあの子どものように破裂したスイカのような赤さだけを路面の上に晒していた。彼は飛び降りたのだろう。このアパートは五階建だ。それなりに高さもあるのだから、一番上から飛び降りれば人体は破壊される。事実、眼下の男性の体はぐちゃぐちゃに破壊され尽くしていた。私はため息をつきながら、腕の中にある壊れた箱を見た。それは間違いなく壊れていた。だから、仕方なかった。

 私は私の部屋に帰宅した。ただいま、と誰がいるわけでもないのに声を出す。それはただの習慣だった。リビングに通じるドアを開けると、正面のカーテンレールに二つの人影が首を吊っていた。しかし、それは幽霊だった。何故というと、人間にしてはあまりにも透けているし、匂いもない。だから私はそれが幽霊だとすぐにわかった。肉体がないからカーテンレールから下ろす必要もない、楽だなぁなどと考えていた。私は肉体があるから、処理には苦労するだろうとも思った。

 寝室のクローゼットを開け、ネクタイを手に取った。そしてすぐ私はリビングへ戻った。相変わらず幽霊はゆらゆらと首を吊って揺れていた。ちょうどその横に一人分スペースがあるのを確認して、何となく気持ちよく収まるなぁ、並べたみたいだと思った。ただ問題は幽霊たちがロープで首を吊っているのに対して、私の場合はこのネクタイでやらなければならないことだった。ロープを買っておけばよかったのだが、なにぶんホームセンターは近くにないし、何となくそこまで歩くのも面倒くさかった。だから、仕方ない。

 私はテーブルの上に壊れた箱を置いた。それは壊れていた。だから仕方ない。

 ネクタイはしっかりとカーテンレールに固定された。その下に椅子を運んでいくのに少し苦労したが、いい位置におさまった。椅子に乗ってネクタイで作った輪っかの中に首を通すと、ちょうど目の前にテーブルと壊れた箱が見えた。それはいかにも壊れていた。どうみても壊れていた。明らかに壊れていたし、それは私の家にある。あるのだから仕方がない。壊れているのだから、仕方がない。

「壊れているからなぁ。仕方ないねぇ」

 私は一人呟いて、椅子を蹴った。


 リビングのテーブルの上には、壊れた箱がただ一つ、静かに置かれていた。その先には一つの死体がぶらぶらと揺れていた。

 壊れた箱があるのだから、仕方ない。

 壊れている。だから仕方がない。

 どうみてもそれは、壊れているのだから。……………

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壊れた箱 鹽夜亮 @yuu1201

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