白いリボンをほどいて

望月くらげ

白いリボンをほどいて

 当たり前のように生きていく僕たちは、いったい何を選んでいるのだろう。そして、僕たちが選ばなかった答えはどこに消えてしまうのだろう。

 高三の冬、僕は受験勉強に勤しむクラスメイトたちの輪から外れて、教室の隅で一人外を見つめていた。

 進学園に通う僕たちは、教師から当たり前のように受験を促される。就職や専門学園を選ぶのは学年でも数人だけ。あとはみんな、なんの違和感もなく、そうするのが当然といったように大学への進学を選択した。

 それは本当に彼らの意思なのだろうか。当たり前という名の檻に押し込められ、与えられた選択肢を自分で選んだつもりになっているだけじゃないのだろうか。

榊原さかきばら

 ふいに名前が呼ばれ、僕は声がしたほうに顔を向けた。そこには担任がいて、手には白い紙を持っている。

「今週中に提出するように」

適正進路表てきせいしんろひょう』と書かれた紙は、入学からこれまでに何回か提出した進路調査票とは少し違っていた。十八歳の誕生日を迎えると渡されるこの紙には、

・進学

・就職

 の他に

・死

 という項目があった。

 ――適正進路審査制度てきせいしんろしんさせいどは、政府が秘密裏に始めた新制度だ。増えすぎた若者の自死を減らすために、十八歳の誕生日に自身の手で生死を選ぶことができる。僕の通う私立星苑せいえん学園は、その実験対象校に指定されていた。

 進学や就職を選んだ場合は、普通の学園と変わりなく進路指導が行われる。けれど、『死』を選んだ生徒には、白いリボンが贈られた。普段、僕らがつけている黒いネクタイから、白のリボンに変える。そして、卒業式の前日、送還式そうかんしきが行われ、旅立ちの日を迎える――。

 これが、入学時に聞く『適正進路審査制度』の説明だった。

 ちなみに僕たちの通う星苑学園は中高一貫校。つまり、この理解に苦しむ制度の説明を、今の新入生たちは小学園を卒業して数週間に聞くというのだから、この学園を実験対象校に指定した人間の気が知れない。

 まあ、僕たちのように在学中に制度が始まった生徒は、突然与えられた『死』という選択に、戸惑う人も少なくなかった。

 それでも、この制度のおかげで、僕たちにとって死は遠いものでも恐れるものでもなくなった。ただ自分の手で選択するもの。それだけだった。

 担任に渡された紙にも、簡単に『死』を選んだときの説明が書かれていた。本来であれば詳細に記載しなければいけない重要なことだろうに、簡素に済ませた上で『注意事項は別紙にて』と書かれているだけ。さらにその別紙すら配布されないのは、教師たちもこの制度を生徒が使うなんて思っていないからだ。

 星苑学園が実験対象校に指定されて今年で四年。この制度を利用した生徒は、未だに一人しかいないのだから。


 放課後、適正進路表を前にして、僕はなんだか懐かしい気持ちになっていた。

 三年前、適正進路審査制度を使って『死』を選んだ先輩がいた。名前は――。


晴真はるま先輩!」

 背の高い脚立の上に座り、図書館で本棚の整理をしていた藤堂とうどう晴真先輩に僕は声をかけた。晴真先輩は視線を僕に向けると、唇に指先を当てる。

文弥ふみや、ここは図書館だよ」

「あ……すみません」

 へへっと頭を掻くと、晴真先輩は仕方がないなと呆れたような目で僕を見た。

「今日は何を探してたんですか?」

 脚立から降りてきた晴真先輩に尋ねると、一冊の本を差し出された。

「『人はどうして嘘を吐くのか』? そんなの人によって理由はそれぞれじゃないですか?」

「まあそうなんだけど。理由なんてそうたくさんあるわけじゃないだろうし、分類分けできれば、その嘘を呑み込むことも許すこともできるかもしれないなって思って」

「嘘を、許す……」

 そんな考え方をしたことはなかった。嘘を吐かれたら腹が立つし、なんだか悲しい気持ちになる。でも、晴真先輩は嘘を吐くしか方法がなかったのかもしれない、と相手の事情を汲み、許す選択肢があってもいいと話してくれた。

「晴真先輩は大人ですね。僕にはそんな考え方、できないなぁ」

「大人って。三つしか変わらないよ?」

「三つ違えばすごく大人ですよ! 今だって中高一貫校だから、こうやって話したりできるけど、普通は高校生と中学生じゃ関わりもあんまないですし」

「まあ、それはそうかもね」

 ふっと笑う晴真先輩の横顔はずっと大人びて見える。窓ガラスに映る少し丸顔で、子どもっぽい表情を浮かべる僕とはずいぶんと違った。

「あ、でも大学生になったら四年生と一年生ですよ! 僕、晴真先輩と同じ大学目指そうかな」

 我ながらナイスアイデアだと思った。そりゃあ一年しか一緒の校舎で過ごすことはできないけど、今だって高等部の校舎に中等部の生徒は立ち入ることができないから、図書館でしか晴真先輩に会うことはない。僕はそれが寂しくて、不満だった。

「ね、どうです? このアイデア! めっちゃよくないですか? ちなみに晴真先輩の志望校って県内? それとも県外? 県外だったら同じマンションの部屋を借りたりもできますね!」

 別に僕たちは付き合っているわけじゃないし、好きだと言ったことも言われたこともない。それでも、僕は晴真先輩と一緒にいたかったし、晴真先輩も同じ気持ちだとそう思っていた。

 だから。

「俺、進学はしないつもりなんだ」

 突然、想像もしなかったことを言われて、僕は驚きを隠せなかった。

「え、進学しないって……就職ってことですか? どうして。だって、晴真先輩、この間も全国模試で上位だったじゃないですか。図書館の先生が話してました。『藤堂なら、国内の大学は希望すればどこでも入れるよ』って。なのに、どうして」

 僕たちの学園はいわゆる名門の進学園。ほとんどの人が進学するし、そうじゃない人は自分の夢のために進学ではなく就職を選ぶ。

「あ、もしかして何かやりたいことができたんですか? だから、大学に行かずに直接そっちの道を目指すとか?」

「いや、そういうわけでもない」

 ハッキリとしない晴真先輩の言葉に、苛立ちを隠しきれない。

「じゃあ、どういうわけなんですか!」

 声を荒らげる僕に、晴真先輩は静かに言った。

「僕は『白いリボン』を選ぶつもりだ」

「え……?」

 適正進路審査制度の実験対象校におけるこの学園で『白いリボン』を選ぶというのがどういうことなのか、知らない人間はいない。

「嘘、ですよね」

「本当だよ。明日、先生に提出して、正式に『白いリボン』をもらう予定だ」

「なん、で……」

 ボロボロと涙がこぼれ落ちる。

「嫌、です」

「ごめんね」

「どうして……?」

 せめて理由を聞かせてほしい。納得なんてできるわけない。でも、それでも、僕たちの過ごした時間を考えたら、理由ぐらい教えてもらえるのではないかと、そう思った。

 でも。

「ごめん。ずっと決めてたことだから」

 そう言うと、晴真先輩は僕に背を向けた。まるで、これ以上は聞かないでと拒絶するかのように。

「……っ、晴真先輩の……バカッ!」

 晴真先輩の背中にそう言い捨てると、僕は図書館を飛び出した。後ろから図書館の先生の「図書館では静かに!」と言う声が追い掛けてきていたけれど、そんなこと気にしている余裕は今の僕にはなかった。

 学園を飛び出して、帰り道を駆け抜ける。途中、振り返ったけれど晴真先輩は追い掛けてきてはくれなかった。

「なんで……っ」

 追い掛けてさえもらえない存在なのかと、晴真先輩にとって自分があまりにもちっぽけな存在だったことを思い知らされて悲しくて悔しくて気づいたら地面にぽたぽたと水滴が落ちていた。


 翌日、登校すると学園がざわついていた。中等部でも「白いリボンの人がいる」って話題になっていた。それが晴真先輩のことだって、僕は知っていた。

 放課後になって、恐る恐る図書室へと行った。もしかしたら晴真先輩は来ていないかもしれない。そんなことを思ったけれど、いつものように晴真先輩は図書室にいて、僕の姿を見ると「やあ」と優しい笑みを浮かべて見せた。まるで昨日のことなんて、なかったみたいに。でも――。

「それ」

「ああ、うん。言ってた通り、今朝受け取ったんだ」

 晴真先輩の首には、僕たちと同じネクタイではなくて、真っ白なリボンがついていた。

「……初めて見ました」

「俺もだよ。先生にも、実際に付けている人は初めて見たって言われた」

 ふっと目を細める晴真先輩はいつも通りに見えて、やっぱりどこかいつもとは違う気がする。それが、見慣れないリボンのせいなのか、それとも晴真先輩の纏う雰囲気が変わったのか、僕には判断がつかなかった。

「……このあと、どうなるんですか」

 何が、とは聞けなかった。

「何も変わらないよ」

 晴真先輩は静かに言う。

「何も変わらない。俺は、いつものように学園に来て、授業を受けて、放課後になればここで文弥と過ごす。そんな毎日を過ごすさ」

「でも……!」

 それだけじゃないことは、もう明白で。

「三月になったら……!」

「三年はさ、三月になったら卒業してこの学園を去るだろ。当たり前に過ごしてた校舎をあとにして、みんな新しい世界へ飛び込む。俺も一緒だよ。みんなが卒業するときに、俺も卒業してこの学園からいなくなる。何も変わらない」

 変わらなくなんかない。卒業しても、学園からいなくなるだけで世界からいなくなるわけじゃない。もう二度と会うことも、話すこともできない。

 目頭が熱くなり、涙があふれそうになるのを制服の袖で拭う。泣き顔なんて見せたくない。

「ありがとな。そんなにも俺のことを思ってくれて」

 晴真先輩は「ごめんな」ではなく「ありがとう」と言った。謝ることじゃない。誤ったわけじゃない。そんな想いが伝わってくるようだった。

 結局、晴真先輩の気持ちは三月まで変わることはなかった。

 卒業式の前日。一足先に、晴真先輩へ卒業証書が授与された。翌日の卒業式のときにはもう、晴真先輩はこの学園にいないから。

「ねえ、晴真先輩。桜の下で写真撮りましょうよ」

 白いリボンをつけた晴真先輩の胸には、卒業のコサージュがついていた。コサージュも真っ白で、嫌みとかじゃなくて晴真先輩によく似合っていた。

「俺と? でも……」

 僕の提案に、晴真先輩は戸惑ったような反応を見せる。たぶん、自分との写真を僕が持っていたら苦しむんじゃないかって心配しているんだと思う。

 こんなときまで自分のことより人のことを思う晴真先輩のことが僕は――。

「好きだなぁ」

「え?」

 晴真先輩の間抜けな声と同時に、シャッター音が響いた。

「僕、晴真先輩のこと好きだなって思って」

 これまで、口にすることのなかった想いを、僕は晴真先輩に告げる。

「……初めて聞いた」

「でも、知ってたでしょ」

 僕の言葉に、晴真先輩は眉を八の字にして、照れくさそうな顔ではにかんだ。

 そんな顔、してくれるんだ。

 言ったら困らせるって思ってた。

 ……ううん、違う。僕は逃げてた。晴真先輩と過ごす日々はこれから先もずっと続いてて、気持ちなんて伝えなくても、わざわざ関係を変えなくても、そばにいれるって、そう思ってた。

 晴真先輩が白いリボンを選んでからは、そういう選択をしたから伝えるんだって思われたくなくて、余計に言えなくなったし、言うものかって思ってた。

 でも。

「もっと早く、言えば良かった」

「文弥……泣かないで」

「もっと早く……もっとたくさん伝えればよかった。晴真先輩のことが好きだって。大切だって。ずっとずっと一緒にいたいって言えば良かった……!」

 絶対に泣かないって決めてた。笑顔で晴真先輩を見送るんだって。最後に見せるのは、泣き顔じゃなくて笑顔にしようって思ってた。

 なのに、今の僕の顔面は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、嫌だと我が侭を言って泣きじゃくる子どものようだった。

「……文弥、ごめんな」

「なんで、誤るんですか」

「泣かせてごめん」

「……っ、う、うぅ……」

「辛い想いを、させてごめん」

 涙の向こうに見える晴真先輩は、泣きそうな顔をして、でも泣くことなく笑ってた。

「好きになってくれて、ありがとう」

 頭を乱暴に撫でると――晴真先輩は僕の身体を抱き寄せた。

 晴真先輩のぬくもりが、僕の身体に伝わってくる。心臓の音が、音を立てて鳴り響いているのが聞こえてくる。

 その心臓の音が、僕の音と重なり混じり合う。

「俺の気持ちも、伝わった?」

「ズルい。伝わったけど、伝わってないです」

「知らなかった? 俺、結構ズルいんだ」

 似合わない言葉に、つい笑ってしまう。

「ズルいから、文弥への気持ちを持ったまま、俺は逝くよ」

「……うん」

「ちゃんと、忘れないから。だから、安心して」

 晴真先輩の声は、僕を諭すみたいに優しくて、それが余計に悲しかった。

「――藤堂。そろそろ」

 申し訳なさそうな、先生の声が聞こえた。晴真先輩の担任だった。

「はい。……今まで、ありがとうございました」

 静かに腰を折り、頭を下げた晴真先輩の姿は、とても、とても綺麗だった。

 担任に連れられ、晴真先輩は歩き出す。視線の先には何人かの先生と、それから真っ黒なスーツ姿の人たちがいた。

「晴真先輩!」

 その背中に声をかけると、晴真先輩は一瞬だけこちらを振り返った。そして。

「先に逝くね」

 そう言って笑った。

 それっきり振り返ることなく、晴真先輩は学園をあとにした。

 

 それが、僕が晴真先輩を見た、最後だった。

 あの日から、僕にとって『死』は、恐怖でなく、僕を待つもの。あの人のあとを追う、手段にすぎなかった。

 あれから三年。数日前に、晴真先輩の年に追いついた。今度は、僕が選択する番だ。もらった『適正進路表』の『死』の蘭に、僕は迷わず丸をつけた。

 ようやくこの日が来たのだと、安堵さえする。これで、先に逝って待ってくれている晴真先輩のところに逝ける。


 翌朝、僕は教室に行く前に職員室へと向かった。担任に『適正進路表』を提出するために。

 奇しくも今年の僕の担任は――あの日、晴真先輩を呼びに来た、当時の晴真先輩の担任だった。

 僕の渡した紙を見て、担任は一瞬だけ表情を歪め、それから「そうか」と小さく呟いた。引き出しから細長い箱を出すと、僕に手渡す。箱には、三年前に見た、あの『白いリボン』があった。

 ネクタイを外し、白いリボンをつけると、職員室の中がざわつくのがわかった。

「――心配はしてたんだ。お前は藤堂のことを慕ってたからな」

 ポツリと、担任は言葉を漏らす。

「だが、あのあと普通に生活していたし、もう大丈夫かと思ったんだが」

 担任は顔をくしゃっとさせて、まるで痛みを隠すかのように、苦笑いを浮かべた。

「俺の教師生活の中で、まさか二人も、自分の生徒が『白いリボン』を選ぶなんてな」

「……すみません」

 その表情があまりにもつらそうで、反射的に謝ってしまう。誰かに辛い想いをさせたいわけじゃない。でも、僕のことを待っている人がいるから。僕は『死』を選ぶ。

「失礼しました」

 一礼して職員室を出ると――それまでの喧噪が、一瞬にして水を打ったように静まり返る。そして、こちらを見て何かを話し出す。中には指を指し、露骨に言う人もいた。

 あの頃、晴真先輩もこんな気持ちだったのだろうか。

 そんなことを考えながら自分の教室に行くと、室内には戸惑ったような空気が流れた。でも、誰も僕に声をかけることはない。

 他人というには近すぎて、でも何か言うには遠くて。そんな自分たちが声をかけていいのだろうかと、みんな測りかねているのが伝わって来た。

 そんな中――。

「文弥」

 席に着く僕の頭上から、誰かの声が響いた。

雅樹まさき

 顔を上げると、幼なじみの佐伯さえき雅樹が僕の席のそばに立ち、怒ったような顔で僕を見下ろしていた。

「何やってんだよ」

「何って?」

「ふざけんなよ! そのリボン! あれだろ!?」

 名前さえ言いたくない。そんな想いが伝わってくる。

「別に。選択しただけだよ」

 選べと言われたから、選んだ。それだけだ。

 でも、僕の答えが雅樹には不服だったらしい。

「選択したって……お前……!」

 怒りで震える雅樹の顔が、泣きそうな表情を浮かべた。

「それって、本当にお前の意思なのかよ……!」

「……っ」

 雅樹の問いかけに――僕は、言葉に詰まりそうになるのをどうにか堪えると、静かに頷いた。

「ああ、もちろん」

 でも、心の中では、雅樹の言葉が何度も反芻され、そのたびに胸の奥がざわつくのを感じていた。


 三月になり、自由登校となった学校に久しぶりにやってきた。卒業式の練習を兼ねた登校日だった。卒業式に出ない僕は参加する必要はないのだけれど、それでも今日を逃すともうクラスメイトと会う機会もないまま送還の日を迎えてしまうことを思うと、つい足が向いていた。

 教室は進路が決まったクラスメイトたちの明るい声にあふれていた。そんな中、雅樹が僕に声をかけ、教室から連れ出した。

「大学、合格したんだって? おめでとう」

「母さんから聞いたのか。ありがと。春からは県外でひとり暮らしだよ」

「雅樹なら大丈夫だって。……身体に気をつけてな」

 激励を込めて肩に手を置くと、雅樹は僕の手を掴んだ。

「雅樹?」

「……そのリボン、まだつけてるんだな」

「まあ、そういう決まりだからね。送還式まではつけるよ」

 逆に言えば、もうネクタイを締めることはないのだ。そう思うと少しだけ寂しい気もするから不思議だ。

「ネクタイ結ぶの上手になったな」

「六年間、だからな。そりゃ、上手くもなるよ」

 六年前。小学校を卒業して初めて制服に袖を通した日、ネクタイの結び方がわからなかった僕たちは、お互いのネクタイで何度も練習した。

「雅樹にネクタイを結んでやるのは上手くなったのに、自分のは上手くならなかったんだよな」

「俺はできるようになったけどな」

「そうだっけ?」

 思い出を話している間は、リボンのことも未来のことも忘れられた。

「なあ、本当に逝くのか?」

 雅樹の問いかけに、僕は肩をすくめた。

「当たり前だろ」

「なんで?」

「なんでって……」

 理由を聞かれると、困る。

「お前に関係ないだろ」

「それ、は」

 目を逸らすと、雅樹は俯きポツリと言った。

「俺は、やだよ。お前がいなくなるの」

 その言葉に、胸が抉られるような苦しさを覚える。そんな僕の思いに気づかないまま雅樹は話を続ける。

「死ぬのなんて、いつでもできるだろ」

 雅樹は目を開けた。僕をまっすぐに見つめる瞳には、不安そうな僕がいた。

「でも、俺は今、お前が死んだら、悲しい」

 雅樹の言葉に、僕は何も言えなかった。

 逝きたいのか、行きたいのか。死にたいのか。――死ななければならないのか。

 でも。

『先に逝くね』

 そう言って、一人で逝った晴真先輩のことを思い出す。

 僕が逝かないと、晴真先輩はいつまでもずっと僕のことを待ち続けているのではないだろうか。

 たった一人で。孤独に――。


 答えが出せないまま送還の朝を迎えた。

 白いリボンが風に揺れる。

 教師や役人に連れられ歩く。三年前に晴真先輩が歩いた道を。

 彼はどんな気持ちでここを歩いていたのだろう。

「榊原?」

 列の途中で立ち止まった僕に、担任が声をかける。

 その声に応えることなく、僕は白いリボンに触れた。

「ねえ、晴真先輩」

 その言葉は、風に乗って消えていく。

 僕の選択は、正しかったのだろうか。それとも――。

 迷ったところで、もう遅い。

 後戻りのできないところまで、きてしまった。

「――待っててね」

「……『先に逝くね』」

「え……?」

 僕の呟きに、誰かが応えた。そして。

「『いつまでも待ってるから、ゆっくりおいで』」

「……っ、なに、を」 

 思わず顔を上げると、担任が静かに僕を見つめていた。

「先生……?」

「三年前のあの日、藤堂がお前に言っていた言葉だ。覚えているか?」

「嘘、だ」

 僕は左右に首を振る。

「勝手に、先生がつけたしたんでしょ? 僕を、引き留めるために。晴真先輩は『先に逝くね』って言って行ったんだ! 今も僕を待ってるんだ!」

「ああ、待っていると思うよ。でも、それは今だけじゃない。この先、榊原がいろんな人と出会い、やがて死を迎えるときまで、ずっと待っていてくれるはずだ」

「でも……僕が逝かなきゃ、晴真先輩は……」

「そんな義務感で来られたら、藤堂は怒ると思うぞ。……そういう奴だっただろ、あいつは」

「あ……」

 担任の言葉に、僕の心に、晴真先輩がよみがえる。

『文弥』

 優しい笑みを浮かべて、僕を見つめる晴真先輩が。

 突風が吹き荒れ、緩みかけていた僕のリボンをほどき、さらっていく。

 僕は、間違っていたのだろうか。

 膝から崩れ落ちると、僕はグラウンドの土をこぶしで叩きつけた。

「……っ、う、うぅっ……あああぁっ!」

 泣き叫びながら空を見上げた僕の目に、青い空を横切る飛行機雲が見えた。

 それはまるで、あの日晴真先輩がつけていた白いリボンのようだった。

 

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