スケルトン・コースト公園

環那

第1話

 波打ち際に、甲冑の男が立っていた。


 夕子は目をこすった。祖母の部屋で延々と流れている時代劇が、ついに目の前に抜け出してきたのだろうか。

 海霧に包まれた影は、波に削られた岩のように動かず、しかし確かに人の形をしていた。


 帰りたくなかった。不仲である父の母――祖母の声も、多忙な両親がいない家の匂いも、今日はもう胸に受けとめられなかった。だから夕子は、濃紺のセーラー服のまま、浜辺を歩いて時間をつぶしていた。

 けれど、その異様な姿に足が止まり、喉の奥が勝手に言葉を押し出した。

「どちらさまですか……?」

 男はすぐには答えなかった。潮騒に耳を澄ますように少しの間を置き、やがて低く静かな声で言った。

「……ようと申す」

 夕子は、その名を聞いたとたんに理由もなく胸がざわめくのを覚えた。

 甲冑は古びているのに、男の顔は若々しく澄んでいた。陽射しを受けて輝く金具は、海に溶け込む光をやわらかく返している。怖さよりも、むしろ静謐な気配が心を覆った。


***


 二度目の夕暮れ。

 今日の浜辺は風が強く、波頭がちぎれた布のように砕け、消えてゆく。

 夕子は制服の裾を押さえながら歩き、やはりそこにいる人影を見つけて胸を高鳴らせた。

 葉は前に見たときよりも、わずかに老けて見えた。肩を覆う甲冑は鈍い色を帯び、立つ姿もどこか疲れている。けれどもその瞳は静かで、波音の中に溶け込むようだった。

「こんにちは……」

 声をかけると、葉は振り向き、軽くうなずいた。

 ふと、夕子の口が勝手に動いた。

「……私、夕子っていいます」

 言葉を落としたあと、顔を伏せ、砂に皮靴のつま先で小さな穴を掘る。肩にかかる髪が、視界を暗くした。

「夕方の“夕”に、子どもの“子”。祖母がつけたんですけど……私、この名前、あんまり好きじゃない」

 潮風が頬をかすめる。彼は何も答えなかった。

 ただ、海霧に包まれるように静かに立ち、彼女を見つめている。

 その瞳には、砕け散る波の光が映っていた。


***


 三度目の浜辺。

 空は鉛のような色を描き、水平線の向こうには黒雲が垂れ込めていた。

 波は荒れ、砂をたたきながら盛り上がり、白い泡をいくつも置き去りにしては去っていく。

 そこに、やはり葉がいた。

 しかし彼は、これまでよりもずっと老いて見えた。甲冑にはひびが入り、袖口は裂け、肩には乾いた痕のような黒ずみがこびりついている。

 その顔には深い影が落ち、眼差しの奥には、遠い火を見るような光が揺れていた。

「……葉さん」

 夕子は駆け寄り、声を震わせた。彼はかすかに笑みを浮かべる。

「汝は変わらぬな。――我は、また戦のさなかにいる」

 波音に混じる声は、どこか乾いていた。


 夕子の視線はふと彼の胸に止まった。

 鎧の留め具に、藤の房を垂らしたような紋が刻まれている。それは、潮で磨かれたように淡く光って見えた。

「……それ、なに?」

 問うと、葉は指先で模様をなぞり、低く答えた。

「家を示すものだ。戦に立つとき、これを胸にして、誰のために剣を振るうかを忘れぬようにする」

 一瞬の沈黙のあと、葉は苦笑を浮かべ、誰にともなく呟く。

「汝と会うときは、決まって戦の時だ。死地に立てば、必ず汝が現れる……不思議なものよ」

 夕子は胸が締めつけられる思いで、その言葉を聞いた。

 波の泡が足元をさらい、ひやりとした感覚だけが現実を繋ぎとめていた。


***


 四度目の浜辺。

 夕子は急ぎ足で砂を踏んでいた。胸の奥に、なぜか“もう一度会える”という予感があった。

 波打ち際に立つ人影を見つけたとき、彼女は息をのんだ。


 甲冑はもうなかった。

 代わりに身にまとっていたのは白い装束。夕暮れの光を受けて、その姿は海霧に溶け込むように淡く揺れていた。

「葉……さん」

 呼びかけると、彼は振り向いた。顔には深い皺が刻まれ、髪もすっかり白くなっていた。

 けれどその眼差しはやさしく、かすかに笑んでいた。

「これで……終いだ」

 彼は波の音に負けないように静かに言った。

「余生尽きる時、また汝に会うとは……奇なる縁よ」

 夕子の喉は詰まり、言葉が出なかった。ただ砂にしみ込む涙が、足をひやりと濡らしていくのが分かった。

 葉は一歩、海の方へ進んだ。白装束の裾が波に揺れる。


「……汝の名を、大切にせよ。夕の子と書いて、夕子――よき名だ」


 その言葉を最後に、彼の姿は海霧と光の中にほどけていった。

 夕子は胸に残るざわめきを抱えたまま、ただ波の音を聞いていた。


***


 後日。母方の実家を訪れたときのことだった。

 薄暗い座敷の奥、仏壇の扉が開けられていて、線香の煙がかすかに漂っていた。

 夕子の目は、ふとその表に刻まれた模様に止まる。

 丸なし下がり藤。あの浜辺で、葉の鎧に輝いていた紋と、まったく同じだった。

「…………」

 声にならない息が漏れる。胸の奥で、波が寄せて引くようにざわめきが広がる。


 祖母のつけた名をずっと嫌っていた。

 けれど、このとき初めて、自分の名と、この家の血の流れがひとつになった、そんな気がした。


 畳の上で、あの夕暮れの海の匂いを思い出す。

 葉の影。土にまみれた甲冑。淡く光る家紋。波に溶けていった命。

『夕子――よき名だ』

 葉の、あの落ち着いた声。

 それを思い出すと、不思議なことに、自分の名が悪くないように思えた。

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