放課後のハスキーさん

屑木 夢平

放課後のハスキーさん


 旧校舎には幽霊がいる。そんな噂が生徒たちの間でまことしやかに囁かれている。


 山岸千早が通う高校では十年前に老朽化のために校舎の建て替え工事が行われたが、解体費用が高額になるからという理由で旧校舎がいまもなお敷地内に残っている。残っているとはいっても授業には使われていないし、古くて危険なので誰も立ち入れないよう出入り口は厳重に封鎖されている。いつか取り壊される日を待ちながら、静かに胡座をかいているだけの無用の長物。それが旧校舎だった。


 その旧校舎に幽霊が出るのだという。噂は旧校舎が現役のころから語り継がれてきたもので、バリエーションはあんがい多い。たとえば廊下を歩いていると青白い顔の女に追い回されたとか、最上階の女子トイレの一番右にある個室に入ると天井から血が滴ってきたとか。夜中、肝試しで旧校舎に忍びこんだ女子生徒が手洗い場の鏡に引きずりこまれたという話もあった。新校舎ができてまだ十年ということもあって階段と結びつくには歴史が浅すぎるのか、どの学校にもありがちな階段はいまのところ旧校舎がすべて請け負っている。


 もちろん、そのどれもが根も葉もない嘘であることは言うまでもない。そもそも高校生にもなって幽霊を信じる人間などいない。噂を広めて回っている生徒たちも本気で幽霊がいるとは思っていないだろう。学校という閉鎖的な空間で受験勉強という圧倒的に不評なコンテンツを消費する学生にとって、噂話は校内で許される数少ない娯楽のひとつなのだ。


 そう。幽霊なんて誰も信じていない。


 千早ただ一人を除いては。


 その日、千早は放課後遅くまでクラスのみんなと合唱の練習をしていた。この高校では秋にクラス対抗の合唱コンクールが開かれるのが恒例となっている。このときはコンクールまで残り一週間を切っていたので、最後の追いこみとばかりに千早のクラスも居残り練習に励んでいた。


「じゃあ、今日の練習はここまで。明日も放課後に練習をするから、抜け駆けして帰らないようにね。特に男子!」


 そそくさと教室を飛び出そうとする男子たちに委員長の理沙が釘を刺すのを千早は笑いながら眺めていた。彼らは今日も練習をサボろうとしているところを理沙に見つかり、灸をすえられたばかりだった。


「相変わらず手厳しいね、理沙は」

「あれくらい言わないとアイツらはわかってくれないからね。千早はこのまま帰る感じ?」

「うん。早くしないと裏門が閉まっちゃうから」

「そっか。じゃあ、また明日ね。千早ちゃん」


 バス通学の千早はいつもバス停に近い裏門から登下校するのだが、裏門は十八時には施錠されてしまう。急いで支度をすませて裏門へと走った千早だったが、残念ながら門には南京錠が我が物顔でぶら下がっていた。


 遠回りになってしまうな、と悔しがりながら正門へ引き返す千早だったが、旧校舎の前を突っ切ろうとしたときにどこからか声が聞こえてきた。


「これは……歌?」


 静まり返った校内に、アカペラで歌唱する声がかすかに響いていた。ハスキーボイス、とでも言うのだろうか。少ししゃがれたその声は、太陽が西の山なみに沈みかかる夕暮れ、時計の針が一日のなかで最もゆっくり進む時間帯によく馴染んだ。


 声はどうやら旧校舎から聞こえてくるようだった。


「旧校舎の幽霊……なんてね」


 千早は一番近い出入り口に向かってみる。もともと引き戸があったところには上から鉄板が被せられ、なにか恨みでもあるのかと疑いたくなるほどに大量の釘が打ちこまれていた。念のためほかの出入り口も確認してみたがどれも同じように塞がれていて、無理にこじ開けられた痕跡も見当たらない。


「まさか、本当に幽霊!?」


 不思議と恐怖はなかった。むしろ、もっと聴きたいと思わずにはいられない声だった。


 その日、千早は旧校舎の幽霊に取り憑かれた。




 あのハスキーボイスをまた聞きたい。千早はそれから毎日、放課後に旧校舎の近くで歌声が聞こえてくるのを待つようになった。最初は校舎の真ん前で待っていたのだが、時期的にも外に立ち続けるのは寒いので、新校舎の三階にある空き教室を使うことにした。そこなら旧校舎に面しているから声も届くし、三階の端にあるから生徒や先生もめったにやって来ない。まさにひとりで音楽鑑賞を行うにはうってつけの場所だった。


「今日もいい声だなあ、ハスキーさん」


 歌声に合わせて体を左右に揺らしながら独りごちる。千早はいつからか声の主のことをハスキーさんと呼ぶようになっていた。幽霊っぽくて、親しみやすさもあって、なかなか気に入っている。


 ハスキーさんの声は中性的で、男性のように力強く聞こえるときもあれば、女性らしくまろやかに響くときもあった。しわがれたぶん不安定なところがあるが、それがかえって歌声の魅力を増している。心の最もくすぐったいところへ優しく息を吹きかけるような声だった。


 沈みゆく夕日と濃紺に染まりゆく空を眺めつつハスキーさんの歌声を聞くこの時間は、千早にとってまさに至福のときだった。空にグラデーションができるこの時間帯のことを、マジックアワーというらしい。千早はむかしからこの時間帯の空が好きで、あのグラデーションの部分を舐めたらきっと砂糖の味がするといまでも信じている。それを証明するかのように、ハスキーさんの甘い歌声は秋の高い空に届くほど伸びやかに響いた。


 もしかしたらハスキーさんの正体は魔法使いで、千早はすでに魔法にかけられているのかもしれない。おそらくは世界で一番幸福な魔法に。


「この時間が永遠に続いたらいいのに」


 日の入りとともにハスキーさんの歌声が止む。相変わらずいい歌声だったな。名残惜しさをカバンに詰め込んで下足箱に向かうと、ちょうど靴を履き替えている近藤真美と鉢合わせた。


「近藤さん、遅いね。部活?」


 千早はなにげなく話しかけたつもりだったが、真美は肩をすくめ、怯えた顔で千早を見た。


「ううん……私、帰宅部……だから。今日は……委員会の仕事」

「そっか。近藤さん、美化委員だっけ?」

「うん……校内の清掃とか、花壇の手入れとか……やってる」

「こんな時間まで大変だね」


 真美とは使うバス停が同じなのでなんとなく一緒に帰る流れになった。校門からバス停まで続く長い下り坂を、二人は曖昧な距離を保ちながら歩く。西の空にわだかまる光が、真美の後ろ手に結わえた髪の上をゆっくりと滑っていった。小動物を思わせる真美の瞳が忙しなく動き、ときおり千早を捉えては、反発し合う磁石のようにすぐ逸れてしまう。


 真美は少し変わった子だ。誤解をおそれずにいうなら、クラスのなかで浮いている。真美はいつもぽつりぽつりと言葉を細切れにして話すのだ。おまけに声がか細くて小さいから、なにを言っているのか聞き取りづらい。授業で当てられてもぼそぼそと喋るせいでよく聞こえず、そのうち先生も真美を指さなくなった。


 嫌われているわけではないけれど、なんだか話しかけづらい子。それがクラス内での真美の位置づけで、基本的に下の名前で呼び合う女子のなかでも、真美だけが近藤さんと呼ばれていた。


「近藤さんって、ちょっと苦手。一人で寂しそうにしてるのに、こっちから話しかけにいくと露骨に気まずそうな顔をするでしょ。まるで私が悪いことしてるみたいな気分になるの。それに合唱コンクールの練習でもぜんぜん声を出してなかったし。嫌な感じだよね」


 いつだったか理沙がそんなふうに言っていた。彼女の言い分もわからないではないが、話しかけたときの反応は真美が人づきあいを苦手としているゆえだろうし、合唱コンクールの件にしても声が小さいなりに頑張っていたかもしれないではないか。千早は真美の味方になってあげたいと思いながらも、理沙に対してなにも言い返せなかった。そのとき感じた後ろめたさが、真美を前にすると鮮明に蘇ってくる。


「すっかり日が暮れるのが早くなったね」


 なにを話していいのかわからず、無難に天気の話題を振ってみたが、真美は黙って頷くばかりで会話が弾まない。


 千早はごくりと唾を飲む。どうしようもなく気まずい。千早は人見知りをする正確ではなく、どちらかといえば初対面の人間ともすぐに打ち解けられるタイプの人間だと自負している。しかし持ち前の社交性も真美の鉄壁の守りを前にしてはなんの役にも立ちそうにない。


 すると、ずっと黙っていた真美がおそるおそる口を開いた。


「今日は……そっちも委員会の仕事?」

「え? ううん、違うよ。どうして?」

「こんな遅くまで残ってたから……なんでかなって」


 それから真美はふたたび黙りこんだ。なるほど。どうやら彼女もなんとか会話を続けようと試みてくれているらしい。明らかに肩を強張らせ、ぎこちなく歩く真美の姿はいじらしくも微笑ましかった。


「ちょっと用事があってね」


 と、そこまで言って千早はあることを思いついた。


「ねえ、近藤さんは旧校舎の幽霊って知ってる?」

「うん。でも、噂話でしょ?」

「じつはね、幽霊の声を聞いたんだ」

「幽霊の……声?」


 その瞬間、真美の顔が一気に青ざめた。


「そう。放課後、日が暮れるほんのわずかな時間にだけ、旧校舎から歌が聞こえてくるんだよ。ハスキーさんって勝手に呼んでるんだ」

「ハスキーさん?」

「ハスキーボイスだからハスキーさん。いまじゃ三階の空き教室に入り浸って、ハスキーさんの歌声を聞くのが日課になっちゃった」

「その……ハスキーさんの姿を、見たことはあるの?」


 もしかして怖い話が苦手なのだろうか。真美は明らかに怯えた様子で質問してきた。


「ううん。声だけ。でも、やっぱりこの目で確かめたいんだ。ハスキーさんがどんな人なのか。それとも本当に幽霊なのか。ねえ、近藤さんも気になるでしょ」

「それは……まあ……」


 その答えを聞いて、千早はよし来たとばかり手を叩く。


「じゃあ明日の放課後、旧校舎へ調査に行こうよ」

「忍びこむってこと?」


 真美はただでさえ大きい目をさらに見開いた。幽霊への恐怖か、それとも立ち入り禁止の決まりを破ることへの不安か。真美の声はよりいっそうふるえていた。


「大丈夫だよ。きっとバレないって。明日、帰りのホームルームが終わったら声をかけるね」


 遠くにバスが見える。四十六番と書かれたそれは千早たちが乗る予定のバスだった。


「うわあ、急がないとバスが行っちゃう。近藤さん、走ろう」


 千早はバス停をめがけて走り出した。




 その夜は興奮でほとんど眠れず、翌朝千早は重たい瞼を気力の針で吊り上げながら学校へと向かった。いつもより早い時間に到着したにもかかわらず、教室では理沙が数名のクラスメートと談笑していた。


「おはよう」


 千早は理沙たちに挨拶してから自分の席に向かう。教室には真美の姿もあったが、理沙たちのグループには交わらず、隅の席でなにをするでもなく机に突っ伏して眠っていた。


「ねえ、千早。またあの歌うたおうよ」


 先ほどまで流行りのユーチューバーの話題で盛り上がっていたはずの理沙が、合唱コンクールで歌った課題曲を口ずさむ。コンクールで千早たちのクラスが栄えある金賞に輝いてはや一か月、理沙はあのときの感動が未だに忘れられないのか、ときおり千早にデュエットをせがんでくる。千早はあまり乗り気ではないものの、理沙の機嫌を損ねるとあとあと面倒なのでしかたなく付き合うことにした。


 理沙の声は透きとおるようなソプラノだ。だけれどときおり刺々しくて、たとえるならガラスの破片だ。千早が破片を優しく拾い上げるようにアルトのパートを歌ってやると、周囲から拍手が起こる。


「千早ちゃん、やっぱり凄いね。私もそれくらい可愛い声だったらなあ。みんなもそう思うよね?」


 笑いながら言ってくる理沙に、そんなことないよ、と千早は返した。


「みんなの声のほうが可愛いよ」

「えー、そんなことないよ」

「あーあ、私も千早ちゃんみたいな声だったらよかった」


 ほかのクラスメートも面白がって理沙に同調し始める。いい加減めんどうくさくなってきた千早は適当に答えを返して話を切りあげ、真美に駆け寄った。


「今日の放課後、よろしくね」


 真美は顔を上げると、こくりこくりと無言で頷いた。




 帰りのホームルームが終わるとすぐに千早は真美に声をかけようとしたが、姿がどこにも見当たらない。周囲のクラスメートに行方をきいてみるものの、当然ながら誰も知らないどころか、真美の姿がないことにすら気づいていないようだった。


 机の上にはカバンが置かれたままなので帰宅してしまったわけではないようだが、いったいどこへ向かったのか。いても立ってもいられなくなった千早は校内を探して回ることにしたが、どこを探しても見つからない。念のため三階の空き教室までくまなく調べてみたがやはり真美の姿はなく、気がつけばハスキーさんが歌い始める時刻に差しかかろうとしていた。


 歩き疲れた千早は中庭のベンチに腰を下ろす。真美はいったいどこに行ってしまったのだろう。千早は肩で息をしながら、西の山なみに呑みこまれようとしている夕日をぼんやりと眺めた。上半分がまるごと見えていたはずの太陽はみるみるうちに小さくなっていく。夕暮れどきは時間がゆっくり進む気がしていたが、あんがい忙しないものなのだなと物思いに耽っていると、渡り廊下を早足で歩く真美の姿が目に飛びこんできた。


「近藤さん!」


 千早が声を思いきり張り上げると、真美がびっくりした様子でこちらを振り向いた。


「見つかってよかった。約束してたのにいなくなったから探したんだよ」

「ごめんなさい!」


 真美は未だかつて聞いたことがないほどの大声で叫ぶと、千早から逃げるように走り出した。


「ちょっと、近藤さん!?」


 千早は慌てて真美を追いかける。どうしてこちらの顔を見ただけで逃げ出すのだ。こちらはそんな怖い顔なんてしていなかったはずなのに。


 それに、先ほどの声はまさか……。


 真美を追って旧校舎にたどり着いた千早は、一階の廊下の窓が一か所だけ開いているのを見つける。どうやらこの窓だけ施錠されずに開け閉めできる状態になっていたらしい。


「まさか、近藤さんはこの中に?」


 千早はおそるおそる窓枠を飛び越え、旧校舎に侵入する。長い廊下には明かりひとつ点いておらず、窓から差す夕日が唯一の光源だった。赤々と燃える光を頼りに歩みを進めると、階段付近に人影を見つけた。


「近藤さん?」


 真美は千早に気づくなり、慌てて階段を駆け上がる。千早も負けじと後を追いかけた。真美が思ったよりも足が速いうえに体力もあることに驚きつつも、千早は必死で食いついていく。二階、三階、さらにその先へ駆け上がり、屋上へと続く扉を開けると、甘やかなグラデーションが視界いっぱいに広がった。


 こちらに背を向けて立つ真美の輪郭を、夕日の逆光が影絵のように黒々とあぶり出していた。


「追い詰めたぞ、近藤さん。いや、ハスキーさん!」

「どうしてそれを……」


 逆光で見えなくとも、真美が驚いた顔をしているのがわかる。千早は乱れた息を整えながら真美に近づいていく。


「さっき叫んだときの声でわかったよ。ずっと小さい声で話していたのも、みんなとあまり会話したがらなかったのも、その声を隠すためなんだよね?」


 二人の間に沈黙が橋を渡し、その下を冬の予感めいた風が吹き抜けていく。真美はなにかを言いかけ、口をつぐんだ。飲みこんだ言葉の代わりみたいな大粒の涙が真美の瞳からこぼれ落ちる。


「なんで自分の声を隠そうと思ったの?」

「ずっとこの声のことで馬鹿にされてきたの。女の子の声じゃない。気持ち悪いって何度も言われた。歌うのは好きだったけど、合唱コンクールでは歌えなかった。だって、私の声はきっとノイズになっちゃうから」


 真美はひとつひとつの言葉を胸の奥底から掬い上げるように語る。おそらくその言葉にはたくさんの棘がついているのだろう。ひとつひとつ掬うごとに真美の顔が痛々しく歪んだ。


 いつだったか理沙が言っていた。真美は合唱コンクールの練習でも声を出していないと。あれは声を出さなかったのではなく、出せなかったのだ。もし声を出してしまったら、また悪口を言われてしまうかもしれないから。


 不特定多数の悪意に首を絞められ、声を奪われた真美。彼女が息をして、大好きな歌をうたえる唯一の場所こそ、誰もいない旧校舎だったのだ。


「ごめん」


 千早は頭を下げた。


「近藤さんがそんなに傷ついていることも知らずに、ハスキーさんなんて名前で呼んじゃって」

「気にしないで。私がハスキーさんだって気づいてなかったんだし。私だってお化けか妖怪みたいな声だって思ってるから」


 投げやりに答える真美に、千早は「そんなこと言わないで」と首を横に振る。


「昨日言ったでしょ。ハスキーさんの歌声を聞くのが日課になってるって。でもそれは近藤さんの声を馬鹿にしていたからじゃない。素敵な声だって、心の底から感動したからなんだよ」

「嘘だよ」

「嘘じゃない。近藤さんの声が好きなんだ」


 勢いに任せて叫んだ千早の頬が赤く染まる。真美もまた、頬どころか耳まで真っ赤に染めて「いま、なんて……?」と聞き返した。


「近藤さんの声が、いままで出会ったなかでいちばん好きだ!」


 学校中に響きわたるのではないかと思うほどの熱い叫びを千早が上げた直後のことである。階段室への扉が勢いよく開かれ、生徒指導の先生が鬼の形相で出てきた。


「こら、山岸、近藤! おまえら、こんなところでなにやってんだ!」




 二人はただちに生徒指導室に連行され、生徒指導の先生とクラスの担任からそれはそれはきついお叱りを受けることになった。先生から聞くところによると、二人が窓から旧校舎内に忍びこむところを目撃した生徒がいたのだという。旧校舎に未施錠の窓があった事実は学校側も把握していなかったようで、今後すべての窓を塞ぐことになるだろうという話だった。


 すっかり日が暮れて、東の空に満月が笑っていた。バス停へ続く坂を千早は真美と並んで下る。風が頬を撫でるたびに、体が寒さでふるえるようだった。


「秋もそろそろ終わりだね」


 千早はまたもや天気の話題しか振れない自分のことが情けなくなってくるが、真美は昨日と違って、「そうだね」と本来の彼女の声で答えてくれた。


「冬は好き。年末にかけて歌番組が増えるから」

「近藤さんは本当に歌が好きなんだね」

「真美でいいよ」

「じゃあ、こっちも千早で」


 千早は満月に負けないくらいの笑顔とともに親指を立てた。ハスキーさんの正体がまさか真美であったとは驚きだったが、彼女がこうして心を開いてくれた事実がいまはたまらなく嬉しかった。


「真美……ちゃん」千早は照れくささを感じつつ名前を呼んだ。「ごめんね。旧校舎、今度こそ使えなくなっちゃうかも」

「ううん。もういいの。私、明日からこの声で話してみようと思う」

「でも……」


 きょとんとする千早に、今度は真美が親指を突き立てた。


「さっき、私の声が好きだって言ってくれたでしょう。すごく嬉しかった。自分では好きになれなかったこの声を、好きになってくれる人がいるだなんて。だから私、この声を大事にしようと思う」

「もしなにか言われたら相談して。百倍にして言い返してやるから」

「ありがとう。それとね、私も千早の声、好きだよ。いままで出会った声のなかで、いっちばん好き」


 秋風のようにさりげない告白を、千早は「えっ」という言葉でなんとか受け止める。


 自分の声を好きになれなかったのはなにも真美だけではなかった。千早もまた自分自身の声をずっと忌ま忌ましいと思って生きてきた人間だったのだ。


 幼いころから男子のなかでひときわ声が高かった千早は、女の子みたいな声だと言われながら育ってきた。声変わりの時期になれば、みんなと同じような声になるはず。そう言い聞かせてきたものの、声変わりを経ても千早の声は依然として高いままだった。合唱ではテノールよりもアルトのほうが安定して歌えるので、男子でただ一人だけ女子の列に並ばされた。男子からは「女の子に囲まれて幸せだな」とからかわれ、女子からは「千早"ちゃん"の声って可愛い」といじられるのがつねだった。千早は絶対に怒らなかった。いつも満月みたいに明るいお面を被って取り繕い、求められれば歌もうたってあげた。そうすることで、自分の声が好きなのだと思いこもうとした。


「真美ちゃん、僕……」


 嗚咽が喉をふさいで言葉が出てこないでいる千早の手を、真美が強く握りしめる。無理に話さなくていい。握られた手に感じる体温がそう告げていた。それは話し続けることで自分を誤魔化してきた千早へ、話さないことで自分を守ってきた真美が送る最大限の優しさであったのだろう。


 薄暗がりの向こうから、ヘッドライトを照らしたバスがやって来るのが見えた。


「ほら、バスが来たよ。急ごう」


 真美が千早の手を引いて走り出した。


 夜の静寂を、二つの足音がいま、軽やかに飛び越えていく。

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放課後のハスキーさん 屑木 夢平 @m_quzuki

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