八幡の藪知らず

をはち

八幡の藪知らず

平安の時代、下総国の地は疫病の影に覆われていた。


病は村から村へと広がり、老若男女を問わず命を奪い、五年が過ぎてもその猛威は衰えることがなかった。


民の嘆きは天に届き、ついに宇多天皇の勅命が下った。


都に名を知られた呪術師、八雲斎にこの災厄を鎮める使命が与えられたのだ。


八雲斎は奇門遁甲の秘術を操る者として知られていた。


彼の術は天と地を繋ぎ、星々の力を呼び寄せ、常人には計り知れぬ力を振るったという。


夜の帳が下りる中、八雲斎は下総国の荒れ果てた村に足を踏み入れた。


その姿は黒い袍に身を包み、瞳には星屑のような光が宿っていた。


村に着いた彼は、まず丘の上に陣を構えた。


そこから見える空は、まるで黒い布に無数の針穴が開いたかのように、冷たく光る星々が瞬いていた。


八雲斎は呪文を唱え、奇門遁甲の儀式を始めた。


やがて、空に異変が起きた。


星々が揺れ動き、まるで意思を持ったかのように集まり、輝く無数の光の球体となって下総の空を覆った。


その光はあまりにも美しく、村人たちは恐怖と畏怖の入り混じった目でそれを見つめた。


光の球体は地に降り、疫病に苦しむ民を癒した。


病に冒された者たちの苦痛が消え、死の淵から引き戻された者もいた。


村人の半数は救われたが、八雲斎の術には代償が必要だった。


残る半数の民は、光る物体に吸い寄せられるように空へと消えていった。


彼らの叫び声は夜の静寂に響き、残された者たちの心に深い傷を刻んだ。


八雲斎は冷たく告げた。


「これが天の理。全てを救うことはできぬ。」


疫病は確かに鎮まった。


しかし、光る物体は消えることなく、時折村人をさらっては闇に溶けた。


村人たちは恐れおののき、その地に葛飾八幡宮を建立し、八雲斎を初代神主に据えた。


彼は「不知八幡森」と呼ばれる場所を定め、そこを禁足地とした。


「この森に入る者は二度と戻れぬ」と八雲斎は警告した。


以来、森の外での神隠しはぴたりと止んだが、


森そのものは不気味な静寂に包まれ、近づく者を拒むかのように深い闇を湛えていた。





時は流れ、現代。


葛飾八幡宮の裏手に広がる不知八幡森は、今なお禁足地として恐れられている。


地元の者はその名を口にすることすら避け、森の周辺では奇妙な噂が絶えない。


夜な夜な森の奥から光が漏れ、囁くような声が聞こえるという。


行方不明になる者は後を絶たず、警察の捜査も森の前で立ち往生するばかりだ。


ある夏の夜、大学生の彩花は好奇心に駆られて不知八幡森に足を踏み入れた。


地元の友人に「絶対に入るな」と警告されていたにもかかわらず、彼女は「ただの迷信」と笑い飛ばしていた。


カメラを手に、森の入り口に立つ。


そこはまるで光すら飲み込むような闇に覆われ、鳥のさえずりも虫の音も聞こえない。


彼女の足元で、風もないのに木の葉がざわめいた。


一歩踏み出すと、空気が急に重くなった。


彩花の懐中電灯がチラつき、頼りない光が木々の間を照らす。


すると、遠くで小さな光が揺らめいているのが見えた。


それはまるで誘うように、森の奥へと動いていく。


彩花は心臓が早鐘を打つのを感じながらも、カメラを構えてその光を追った。


光は次第に数を増し、彼女の周りを漂い始めた。


まるで生きているかのように、ふわりと浮かび、彼女の髪や頬をかすめる。


彩花は恐怖に足がすくみながらも、シャッターを切った。


ファインダー越しに見えたのは、光の中に浮かぶ無数の顔だった。


苦痛に歪んだ顔、助けを求める目、怨嗟の表情。


それらは一瞬で消え、彩花の悲鳴が森に響いた。


彼女が次に目を覚ましたとき、森の外にいた。


朝日が昇り、鳥の声が聞こえる。だが、彼女の手にはカメラがなかった。


代わりに、腕には奇妙な模様が刻まれていた。


それはまるで星図のように、淡く光を放っていた。


彩花はその日から変わった。


夜になると森の光を夢に見て、囁き声に悩まされるようになった。


彼女は知っていた。自分があの森への新たな道しるべになった事を――


八雲斎の術が、時を超えて生き続けているのだ。


不知八幡森は今もそこにあり、禁足地の警告を無視する者を待ち構えている。


光は誘い、闇は飲み込む。


そして、森の奥では、八雲斎の呪術が静かに脈打っている。


あなたは、足を踏み入れる勇気があるか?

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