生きてるだけで偉いって言われた日
unknown
生きてるだけで偉いって言われた日
7:10。目が覚めて、天井の模様を数える。四角が六つ。角に薄い黒ずみ。カーテンは閉めたまま。今日は火曜日か水曜日か。通知に数字が付いている。銀行と通販と母。どれも今すぐでなくていい。そう思って目を閉じる。
8:25。起き上がる。喉が渇いている。コップを探す。シンクに二つ。米はない。食パンはカビている。冷蔵庫に残っているのは水と、賞味期限の切れたヨーグルト。捨てる。ごみ袋を縛る。縛った袋はドアの横に置かれたまま動かない。動かすのは俺だ。分かっている。体は分かっていない。
9:40。シャワーを浴びる。鏡が曇る。曇った鏡は楽だ。輪郭が甘くなる。タオルが湿っている。洗濯か、と思うが、洗濯機を回すと干す手順が必要になる。手順の想像だけで疲れる。
11:15。求人サイトのメールを開く。未読が溜まっている。どれも似た言葉。成長、挑戦、スピード。読んでも骨は残らない。スクロールして閉じる。閉じた画面に自分の顔が映る。映るのは嫌いじゃない。嫌いじゃないのに直視できない。
13:00。腹が鳴る。米を買いに行くべきだ。でも外の空気には外の温度がある。人の声。車の音。視線。全部重い。夕方なら少し軽くなる。そう思って、時間を押し出すみたいに横になる。まぶたの裏側は灰色だ。
16:45。起き上がった。財布。鍵。エコバッグ。ごみ袋。靴を履く。玄関のドアを開ける。外は思ったより冷たい。深く息を吸う。咳が出る。階段を降りる。袋が膝に当たる。踊り場で一度止まる。止まっていると戻れる気がして危ない。足を出す。
17:05。スーパーの前。ガラスに夕焼けが映る。カートを押す人の列。入り口の横に集積所はない。ごみ袋はマンションに戻して出すべきだと気づく。持ってきた意味が薄くなる。袋をエコバッグの陰に隠して店に入る。自動ドアの風が暖かい。野菜の匂い。揚げ物の匂い。音楽が小さく流れている。
米の棚までまっすぐ行く。五キロは重い。二キロにする。値札を見て、手を止める。最安値と、運ぶ重さと、家に帰って階段を上る距離。頭の中の式は答えを出さない。出さないまま二キロをかごに入れる。インスタント味噌汁、卵、豆腐、牛乳。無難なものだけ選ぶ。安心の形は四角い。
精算の列に並ぶ。前の人のかごに惣菜が多い。唐揚げ、ポテト、サラダ。視線を落としていたら、右から声がした。
「久しぶり」
中村だった。黒いコート。弁当とお茶を片手に持っている。笑うと昔の部署の空気が少しだけ戻る。
「元気?」
「まあ」
言ってから、自分でも薄いと分かった。彼女は列の最後尾を指して俺の隣に並ぶ。
「顔色、少し白い。ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「そっか。……うまい言い方が見つからないんだけどね」
彼女は少し息を吸った。
「私、この前きつくて一回休んだんだ。産業医に『まずは毎日生き延びる。それで合格』って言われてさ。点数の話みたいで腹は立ったけど、あのときは救われた。だから今の君にも、それだけは言っとくね」
言い終えて、目線を落とす。冗談にせず、でも重くもしない距離感。
「とりあえず、生きてるだけで合格。偉いかどうかは、いつかでいい」
レジが空いた。俺はうなずく。うなずいたのに、声は出なかった。バーコードの音が近づいては遠ざかる。
「またね」
「うん。また」
袋に品物を詰める。卵は上、米は下、豆腐は横。言葉は胸の奥に残る。偉いは刺さる。けど、今、耳に残ったのは合格のほうだった。
17:40。玄関の前でごみ袋を置く。エコバッグの持ち手が食い込んで手のひらが赤い。鍵を回して中に入る。暖房はつけっぱなしにすると電気代が怖いから、つけない。冷たい空気の中で靴を脱ぐ。米を棚に。卵を冷蔵庫に。豆腐も。段取りを踏むと、呼吸が少し整う。
18:10。米を研いで炊飯器にかける。ボタンの光が点く。炊けるまでの時間、椅子に座る。さっきの言葉が耳の奥で反芻される。生きてるだけで合格。偉いかどうかは、いつかでいい。
会社を辞めた日のことを思い出す。箱に荷物を詰める。書類を引き出しから出す。上司が言った総合力という曖昧な語。送別の言葉。連絡してね、と言う同僚の薄くなっていく声。エレベーターの鏡に映った顔は、覚えている形をしていたのに、もう二度と会わない人みたいに見えた。
18:45。炊飯器の音が鳴る。湯気。米の匂い。茶碗によそって、ほんの少し醤油を垂らす。卵を落とすか迷って、やめる。最初の一口は白いまま食べる。嚙む。味がする。当たり前の味。二口目で少し泣きそうになる。泣くのは違うと思って水を飲む。喉の渇きがやっと正しい理由を見つけたみたいに落ち着く。
19:20。風呂を張る。湯が溜まるのを待つ間、母のメッセージを開く。体調どう、とだけある。絵文字はない。返事を打って消す。打って消す。返事は短いほうが届く。そう自分に言い聞かせて、「大丈夫。食べてる」と送る。既読はすぐ付かない。親の既読はいつも遅い。遅さが安心になる。
19:50。湯気の中に座る。肩まで浸かる。体の境界が少しぼやける。湯気の向こうで、彼女の言い方を反芻する。
生きてるだけで偉い。俺はこの言い回しをずっと嫌っていた。評価の言葉だからだ。誰かが上から押すスタンプみたいで、息が詰まる。努力の打ち切りを正当化する道具にもなる。あの言葉には欺瞞が混ざる。
ただ、今日のそれは少し違った。彼女は偉いを押しつけに使わなかった。毎日生き延びて合格、と床に基準線を引いてくれただけだ。合格は称賛じゃない。次に進むための通過点だ。
偉いは社会の言葉。合格は自分の言葉に変えられる。そう思った瞬間、胸のどこかで鈍い音がほどけた。
欺瞞は消えない。綺麗ごとが混じるのも分かっている。それでも、溺れている人間は浮き輪を選ぶ。沈まないための道具としてなら、借り物でもいい。
評価としての偉いは拒む。許可としての合格は受け取る。今の俺には、それが現実に近い。
20:30。風呂から上がる。体が少し軽い。洗濯機を回す。靴下とTシャツとタオルだけ選んで入れる。全部をやろうとすると何もできない。少しだけにする。少しだけなら続けられる。洗剤のキャップに目盛り。音が鳴る。回転。泡。機械は目的を迷わない。
21:05。テーブルにノートを出す。新しいページ。明日やることを箇条書きにする。
1 ごみを出す
2 洗濯ものを干す
3 カーテンを開ける
4 米を炊く
5 歩いて角のポストまで行く
五つ目まで書いてペンを置く。五つ目の理由はない。理由はあとから付ければいい。紙に書くと、体の中に置き場ができる。置き場があれば散らからない。散らからないだけで、人はだいたい耐えられる。
21:40。ニュースを流す。声だけ聞こえる。事件と天気とスポーツ。どれも自分の外側で起きている。外側で起きていることに全部反応しようとして、内側の在庫が切れたんだろう。勝手に納得してテレビを消す。静かになる。静けさが怖くない夜は久しぶりだ。
22:20。布団に入る。目を閉じる。生きてるだけで合格、の合格は、誰かの採点じゃない。自分の判定だ。偉いはいつかのために取っておく。今はまだ重い。そう決めて、目を閉じる。
5:50。目覚ましより早く目が開く。暗い。静かだ。布団から出る。窓に歩く。カーテンの端をつまむ。ためらう。昨日の夜の自分に、背中を押される感じがする。押される感覚があるだけで、出せる足がある。カーテンを開ける。
薄い朝の光。曇り。建物の壁。鳥の声。車の音が遠くで溶ける。派手ではない。十分だ。窓を少し開ける。冷たい空気が入る。肺がきしむ。きしみの音が音楽みたいに聞こえる。深い呼吸が二つ。三つ。
6:05。ごみ袋を持つ。ドアを開ける。廊下に出る。エレベーターは待たない。階段を下りる。踊り場で止まらない。一階の集積所に袋を置く。置いただけなのに、肩から何かが落ちる。落ちたものの名前は分からない。分からなくていい。
6:20。戻って洗濯物を干す。タオルをはたく音が部屋に響く。窓から入る風でシャツが少し揺れる。揺れるのを見るだけで、頭の中の何かも揺れる。硬さが減る。柔らかいことに罪悪感を乗せない。そう決める。
6:40。米をとぐ。水が白く濁る。透明になるまで。炊飯器のボタンを押す。点いた小さい灯りは心臓の音より正確だ。音が鳴るまで待つ。待ちながらスマホを手に取る。母に「今日、ごみ出した」と送る。既読は付かない。付かなくていい。
7:10。ベランダに出る。空気は冷たい。団地の向こうに細い光。人の朝はもう始まっている。俺の朝は、今始まった。遅いわけでも早いわけでもない。自分の速さを自分で決める。決めた、という感覚だけ先に置く。体はあとから追いつく。
7:30。炊けた音。茶碗に盛る。湯気。少しだけ醤油。いつもと同じ手順で、いつもより味がする。テレビはつけない。音楽もいらない。茶碗の底が見える。底を見るのは気持ちがいい。満たされた証拠が形になって残る。
8:05。ノートを開く。昨日の五つのうち、三つに丸が付いた。丸は小さい。小さくても丸は丸だ。四つ目に今丸を付ける。五つ目、ポストは空欄のまま残す。空欄は次の余白として置いておく。ページの端に小さく書く。
合格。
誰かの採点じゃない。自分の判定だ。評価の前に呼吸が要る。呼吸が戻れば、評価は後からでいい。
深く息を吸う。吐く。声に出す。
「生きてるだけで、合格」
偉いはいつかのために取っておく。今日の俺にはまだ重い。だから置いていく。ドアの前でスニーカーの紐を結ぶ。ごみを出し、洗濯物を干し、米を炊く。合格を積み上げる。合格が続けば、たぶんそれは生きるになる。
曇り空でも、確認できる光はある。今日は、それで足りる。
生きてるだけで偉いって言われた日 unknown @hinikuya
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