第27話 風

 招集所には僕を含めて八人が集まっていた。

 いずれも、インターハイの決勝戦に駒を進めることができた、陸上に命を捧げている高校生の中の八人だ。

 どの顔も高校で陸上をやっていれば、一度は耳にする名前だ。


 僕は今までなんのために走っていたのか。


 かっこいい自分を演出するため。

 なんでもできる三笠遼のため。


 準決勝では勝ちたい、負けたくないという理由のため。


 そして決勝では、信じるもののために走ることに決めたんだ。


 スタートリストは発表されている。


 ① 最上翔太 山形東(山形)

 ② 吉野桜樹 東都学園(東京)

 ③ 川内拓磨 大阪光蔭学園 (大阪)

 ④ 橋田哲夫 洛央 (京都)

 ⑤ 熊野悠人 呉北(広島)

 ⑥ 三笠遼 甲府中央 (山梨)

 ⑦ 松島風太 仙台育嶺(宮城)

 ⑧ 鈴谷大夢 松新学園(愛媛) 


 女子の決勝が始まった。

 トラックから実況が聞こえる。

 各選手の名前が読み上げられている。

 選手たちのこれから走る緊張した表情はネットを通じて全国に届けられているはずだ。


 僕は自分の名前が読み上げられる場面を想像して目をつぶった。


 僕を信じて配信を見ている人を思い浮かべた。


 必ず見ている。


 伝えなくてはならない。


 ——僕は大和を信じていると。


 僕は足元にある自分のリュックに手を伸ばした。



 スタート音とともに歓声が上がった。

 その歓声は十数秒後まで大きくなっていき、やがて拍手に変わった。


 会場に勝者の名前が響き渡った。

 たった一つの表彰台の一番高いところが決定した瞬間だった。

 勝者や健闘をした選手たちを讃えるアナウンスがしばらく続いた。


 大会のスタッフに誘導されて招集所から出てトラックの入り口にレーンの順番で整列する。


「男子100メートル、決勝です」


 その言葉で、スタッフに促されて、僕たち八人は競技場の中に進み出た。

 その誰もがそれぞれの思惑を胸に秘めて、レーンへと向かう。


 少し陽が傾きかけたとはいえ、真夏の午後の競技場には女子の決勝でも焼ききれなかった熱がいまだに滞留していた。タータンからたちのぼる熱気はスパイクを通して容赦なく心拍数をあげていく。呼吸をするたびに、熱をまとった空気が、胸の奥まで押し込まれてくる。

 ため込んで行き場をなくした熱が、体の内側から漏れ出ているかのように、汗がとめどなく噴き出してくる。対流する熱気によって100メートル先のゴールは現実と夢との狭間で揺らめいているように見える。


 試走をする。

 スターティングブロックを蹴る感覚。空気を切り裂いて駆ける。

 右膝から足首は少し気になるが、それほどでもない。

 悪くはない。


 二十メートルぐらい走って、スタートラインまでゆっくりと戻っていった。

 選手たちは自分のタイミングでスタートの練習をする。


 第二レーンの吉野と目があった。ニヤリと笑ってスタブロを蹴る。


 第三レーン、大阪の川内はその長い脚を跳ねるように使って走っている。


 広島の熊野は安定したフォームで僕の横を機関車のように通り過ぎた。


 京都の橋田は準決勝でのタイムが一番だ。スタート位置で瞑想をしているようにしばらく目を閉じていた。目を開くと力強くスタートする。


 走り去った姿で第七レーンの松島が予選のときに僕を抜き去っていったやつだという事に気づいた。


 それぞれが強い想いを持ってこの地に立っている。

 走る意味、勝とうとする意思、負けることへの恐怖。

 全てが混沌として、混ざり合ってしまう。そこから余計なものを削ぎ落とした後に残るのは一体なんなのだろう。

 だけど、今、僕ができることはなんだと考えたときに、思い浮かんだのは、大和の顔だった。


 今ここで僕ができること。


 それは信じること。

 そして、ありのままの自分を走ることで伝えること。


 会場に音楽が鳴り響いた。

「それでは、男子100メートル決勝が始まります」

 観客の声援が耳に届く。

 それぞれのレーンの選手の紹介が始まった。

 会場の大型スクリーン、真正面から表情までがアップで映し出される。

 それぞれの選手が一礼をしたり、決めポーズをとったりする。


「第一レーン。最上翔太。山形東。山形」

 最上が、軽く飛び跳ねた後、軽く礼をした。

「第二レーン、吉野桜樹。東都学園。東京」

 吉野につづいて、第三レーンの川内が紹介された。

「第四レーン、橋田哲夫。洛央。京都」

 ひときわ大きい歓声が上がった。この大会の優勝候補だからだ。橋田は一礼をして、前方に手を伸ばして決めポーズをした。

「第五レーン、熊野悠人。呉北。広島」

 拍手と歓声が上がる。


 次は僕の番だ。


 歓声の中、僕の頭の中だけが奇妙なほど静まり返っていた。


「第六レーン、三笠遼。甲府中央。山梨」


 一礼をした。

 腕を顔の前でクロスする。

 両手の甲にマジックで書いた文字を見せるように。


 はっきりと。

 伝われ。


 Impossible?

 Possible!

 Count On My → Talusəs!


「第七レーン、松島颯太。仙台育嶺。宮城」


 アナウンスは淡々と次の選手の紹介にうつっていった。


 自分へのエールの言葉。

 Talus——距骨。

 足の骨の一つ。

 地面と僕をつなぐ一番大きな骨。

 僕は自分の足を信じる。


 イプコム星人から、タルサス星人へ。


 大和へのエール。


 ただ、伝わればいい。

 そして、僕の走りを見てくれればいい。


 最後の選手の紹介が終わった。


「オン、ユア、マーク」


 手首と足首を回す。

 首を左右に倒して、二回軽くジャンプする。

 そして、身体を沈めてスターティングブロックに足を置く。

 いつものルーティン。

 何十回、何百回も繰り返してきたルーティン。

 僕は、積み上げてきたんだ。

 見せてやる。

 日本中に、世界中に。

 そして、あいつに。


 スタートラインに置いた手の甲。

 エールの言葉がくっきりと見えた。

 ぽたりと落ちた汗が地面に染み込んでいく。


「セット」


 パァン!

 スタート音!


 一瞬だ。

 誰よりも早く、速く。

 それでいて、限界を超えない。

 反射より早く、足先に伝わった筋肉の収縮。

 スターティングブロックを踏み込む力は、残すことなく爆発的な推進力に変換された。


 世界を置き去りにしてきた感覚。

 全てが僕の後ろに遠ざかっていく。


 両足のスパイクが地面を鋭く噛み付いては離れる。

 一、ニ、三、四、五!

 腕と脚がシンクロしながら、スピードを上げていく。

 もう少し低い姿勢。

 低空から風を切り裂いて、離陸していくイメージ。


 上体を起こす。

 空気が僕を暴力的に押し戻そうとする。

 関係ない。

 僕は風になった。

 風とともに、滑るように駆ける。


 まだ半分。

 ゴールは遠い。


 左側から足音が近づいてくる。

 お前らは、置き去りにしたはずだ。

 左に気配を感じ始めた瞬間だった。


 右手、第七レーン。

 気配もなく僕を抜き去る影。

 あっという間にそれは気配から実体になり、背中に変わった。


 喰らいつく。

 ここからは、喰らいつく。

 なんとしても。


 このたかが数秒の間に、筋肉はそのほとんどのエネルギーを消費した。

 全身に酸素を送り出すために、心臓は激しく脈打ち、胸郭は膨張を繰り返す。


 あと10メートル。

 気づけば、並ばれている。

 集団、横一線。


 選手たちの足音がシンクロする。

 呼吸が一つに収束する。

 それだけの世界。


 いや身体ひとつ。

 右が前か。


 胸を投げ出す。

 前に倒れるようにしてゴールラインを駆け抜ける。


 スローモーションも何もない。

 ただ、駆け抜けて終わった時間。

 10秒とちょっとの時間。

 何事もなかったかのように、時間は動き続けている。


 10秒15でストップウォッチの表示は止まっていた。

 右側を走り抜けていった選手が両手を高く上げている。


 スピードを落として、呼吸を整える。

 ゆっくりと、ジョグをしながら、電光掲示板を見上げた。

 速報値が表示された。


 1.松島風太 仙台育嶺(宮城) 10秒16


 表示された。

 会場のアナウンスが、優勝選手の名前を連呼する。

 どうやら一年生らしい。


 少し経ってから、二位以下の選手が表示されはじめた。


 2.橋田哲夫 洛央(京都)10秒20

 3.吉野桜樹 東都学園(東京)10秒24

 4.三笠遼 甲府中央(山梨)10秒28


 ——四位かあ。

 ——そして、伝わったかなあ。


 喘ぐように呼吸を整えながら、正直、そう思った。


 会場は、スタンドから鳴り止まない拍手と歓声に包まれていた。

 僕は今まで感じたことのない気持ちを胸に、会場を後にした。


 預けておいたバッグを受け取り、ベンチに座ってスパイクを履き替えた。バッグの奥にはスタートの前に急いで手の甲にメッセージを書くのに使った油性ペンが入っている。

 吉野が握手を求めてきた。

 太い眉を片方上げて、口角を緩める。


「またな」

「おう。次は勝つ」


 笑顔で肩を叩き合った。

 三年生の僕たちは、ここで引退だ。吉野は大学でも陸上をやるのだろうか。

 僕は進路も何も考えていなかったけど、きっと、また戦うのだろうと思った。


 勝ちたい、負けたくない。

 次こそは勝ってやる。


 それが、僕の本心なんだろう。


 スタンドの下の廊下を歩きながら、そんなことを考えていた。


 テントに戻って顧問の先生や、クラブのコーチ、山梨県の選手たちは口々に僕の健闘を讃えた。

 言われて後から気づいたのだが、タイムは僕の自己ベストだった。

 嬉しいやら、悔しいやら、満足しているのか、不満なのか、よくわからない感情が込み上げてきた。


 やっと、一人になれたときに、スマホを開くことができた。

 たくさん、友達やメッセージが入っている。もちろん宇都宮まで観戦に来ている両親からも入っていた。


 雨宮から「すごいね!!四位入賞おめでとう」と書かれていた。

 古屋からは事務的な連絡だけだった。やはり、あいつは僕がここで戦っていたことを知らないらしい。


 ピコンと通知音があった。


 やまと「イプコム→タルサス。受け取ったよ。ありがとう」


 と書いてあった。


「ばかやろう」


 走り終わったときは涙も出なかったのに。

 次から次へと涙が溢れてきて止まらなかった。

 頬をつたう汗やら涙やらわからない液体は、一位になれなかった悔しさも綺麗さっぱり洗い落としてしまったかのようだ。

 巨大な扇風機が起こす風の音だけがテントの中で響いていた。


「おめでとう」

 風に紛れて聞き慣れた声がした。

 涙で視界がぼやける中、顔を上げるとテントの外に貧相な身体つきをした見覚えのあるシルエットが目に入った。

 逆光で細部まではよく見えなかったが、寝ぐせのような髪と中央の団子鼻…。

 どこからどうみても田中大和、そのものだった。


「大和…」


「もう、焦げるような匂い……しなくなってる」


「ああ、そうさ。僕がつけていた仮面……。全部、焼けて落ちちゃったよ」


 シルエットの中の大和は、確かに笑って、そして涙を流しているように見えた。


 撤収をはじめたテントの中には、汗やスポーツドリンク、制汗剤や湿布やらがごちゃ混ぜになった匂いを含んだ風が吹き込んでいた。

 夏の匂いだった。

 焦げた匂いは、もうしなかった。

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