近いうちにまた、出ますよ
河村 恵
橋へ帰る客
その人たちは、いつも夕暮れになると橋の方へ帰っていく。
そして誰も、その人が誰だったのか思い出せない。
最初に異変を感じたのは、キヨさんが茂助というおじいさんを連れてきた日だった。
畑仕事をひと息ついたハツは、急須に湯を注ぎ、いつものように湯呑みを並べて縁側に座っていた。
「おじゃましますよ」
戸口から声がかかる。近所のおしゃべり仲間のトミさんだ。ついでに畑で採れた胡瓜を持ってきてくれる。
ふたりで世間話をはじめると、やがてもう一人、キヨさんも加わる。
その日、キヨさんは友だちを連れてきた。
「ほら、去年、祭りのときに手伝ってくれた茂助さん、覚えてない?」
腰の曲がったおじいさんで、麦わら帽子をかぶっている。
ハツは歳のせいかはっきり思い出せなかったが、そう言われてみれば祭りの時に手伝ってくれた人の中にいつも麦わら帽子をかぶっているおじいさんがいた。
ハツは慌てて湯呑みを一つ足し、団子の皿をもうひとつ用意した。
話の輪はいつもと変わらなかった。
畑の豆が鳥にやられたとか、川に鯉が上ってきたのを見たとか。
その茂助もときどき笑い声を立て、うんうんとうなずいていた。
夕方が近づき、茂助が最初に腰を上げて、手を振りながら帰っていく。
その背中を見送りながら、ハツはふと呟いた。
「あの人……どこの人だったかねえ?ほんとうに祭りにいたっけか?」
隣にいたキヨさんも、トミさんも顔を見合わせて首をかしげる。
「そういえばいたような気もするし、いなかったような気もするねえ。それにしても、穏やかなじいさんだねえ」
「奥さんとは死に別れたとか言ってたけねえ。橋向こうに一人で住んでるのかえ」
それからというもの、不思議なことが続いた。
数日に一度、見覚えのない人が混じるようになったのだ。
年寄りの女だったり、まだ若い男だったり。
誰が連れてくるでもなく、いつの間にか輪に加わっている。
話をしているあいだは、誰もが顔なじみだと思い、何の疑いもなくしゃべっている。
しかし帰っていく背中を見送ると、いつも思う。
――あれは、どこの誰だったのだろう?
ハツは最初、年のせいかと思った。
でも、キヨさんもトミさんも同じように首をひねる。
皆が同じように、その人を知らない。
茶を飲み、団子を食べ、目尻を下げて、静かにうなずきながら、そこにいる。
そして夕暮れが近づくと、最初に腰を上げ、川にかかる橋の方へ帰っていく。
「……また来てたんだねえ」
ハツは誰に言うでもなくつぶやいた。
その日、縁側で茶飲み話がひと段落したころ。
話題は畑の収穫から、だんだん昔の話へ移っていった。
「そういえば、橋のたもとのお地蔵さま、よだれかけが新しくなってたねえ」
「ほんと? あそこ、もう誰も世話してないと思ってた」
「あの時は大変だったってねえ。あんな大水は二度と起きてほしくないねえ」
ため息をつき合う声の中で、茂助がぽつりと口を開いた。
「……近いうちにまた、出ますよ」薄く笑うと麦わら帽子を片手に立ち上がった。「じゃあ、そろそろ」
いつものように橋のほうへ歩いていった。
見送る背中は夕暮れの中に溶け、見えなくなった。
その夜になると川のほうから湿った風が吹いてくる。
ハツは嫌な予感がした。
夜更けに、水を揺らすような音で目覚めた。
遠くで雷鳴がとどろいている。
雨の匂いが窓の隙間から入ってくる。
川の方から地鳴りのような音がきこえてきた。
――近いうちにまた、出ますよ。
茂助の声が耳の奥によみがえる。
ハツははっとして、外を見ると、橋のたもとにぼんやりと人影が揺れていた。
隣近所を起こし、裏の高台へ登っていく。
振り返るといつもの乾いた道に細い月が揺れていた。(完)
近いうちにまた、出ますよ 河村 恵 @megumi-kawamura
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