第11話 ひとがた
11月初頭、街路樹は紅や黄に染まり、落ち葉が風に舞う季節。
宏樹が退院してから、ひと月あまりが過ぎていた。
怪我の後遺症はなく、仕事にも復帰していた。
しかし、あの事故で真吾から譲り受けた自転車は大破してしまい、日課だったサイクリングも今は控えている。
心のどこかで、あの夜の不可解な出来事が再び起こるのではないかと、しばらく神経を張りつめる日々が続いた。
しかし幸い、それも杞憂に終わった。
今はいつも通りの、穏やかで、仕事に追われる忙しない日々を送っている。
今日は久しぶりにまとまった休暇を取ることができたので、宏樹は高野の実家へ向かうべく、ロードスターのハンドルを握っていた。
車窓を流れる落ち葉や、遠くの山裾に映える紅葉が、ひんやりとした晩秋の風に揺れ、宏樹の胸の奥をそっと満していた。
「ただいま」
声を聞きキッチンから母が顔を覗かせる。
「あら、おかえり! 早かったわね」
「うん。お昼、家で食べようと思って。何かある?」
「ラーメンでいい? あ、今晩はすき焼きよ。あんた、今日は泊まれるんでしょ?」
「うん、今日はゆっくりさせてもらうよ」
宏樹は靴を脱ぎつつ答えた。
「あんた…他人行儀な言い方ねー。自分の家なんだから! 好きなだけ寛いでらっしゃい!」
母は笑いながらキッチンへ戻る。
宏樹も思わずフッと笑い、荷物を抱えたままテレビの部屋へ向かった。
テレビの部屋に荷物を置くと、そのまま仏間へ向かった。
扉を開けると、仄かな線香の香りが鼻腔をくすぐる。
レースのカーテン越しに柔らかな陽光が差し込み、仏間を優しく照らしていた。
宏樹は仏前で正座し、蝋燭に火を灯す。
線香の束に火をつけ、丁寧に立てた。
しばし、真吾の遺影を見つめる。
深く息を吸い、静かに口を開いた。
「兄貴… あの時は助かったよ。本当にありがとう。自転車は壊れちゃったけど…またすぐに直すから… ごめんね…。」
目を閉じ、静かに手を合わせる。
遺影の真吾は、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
一呼吸置き、ゆっくりと目を開け、立ち上がろうとする。
その時、何気なく視線を窓際に向けた――
「うわぁぁぁ!!」
宏樹は目を見開き、悲鳴を上げた。
全身が凍りつくように震え、腰が抜けてその場に尻餅をつく。
目を離せず、自然と全身が小刻みに震える。
顔の筋肉の強張りも、自分で感じ取れるほどだった。
悲鳴を聞きつけ、血相を変えた母がキッチンから飛んできた。
「あんた何っ!? どうしたの!?」
青ざめ、腰を抜かす宏樹に向け、母は声を荒げる。
「い… いや… あれ…」
掠れた声を絞り出し、震える右手を視線の先へ差し示す。
母は、差し出された指先に視線を落とした。そこにあったのは…
木製のあやつり人形だった。
まさに、あの夜、暗闇の通りで目にしたものと同じ姿だった。
違うのは、操るための糸や細工が施されていることだけ。
空気が静まり、仄かな緊張が仏間を満たした。
宏樹はまだ心臓の高鳴りが治まらず、額に汗が滲むのを感じていた。
「なにあんた… ただの人形じゃない」
母の声は怪訝さを帯び、眉根を寄せていた。
宏樹は首を小刻みに左右に振り、生唾を飲み込む。
掠れた声を必死に絞り出した。
「い… いや… そうじゃなくて!! …なんであんなものがここにあるんだよ!!」
その言葉に母は一瞬固まり、唖然とした表情を浮かべる。
しかし宏樹の切羽詰まった表情を見て、一呼吸置き、落ち着いた声で語り始めた。
「宏樹… あんた、真吾が保育士だったの… 知ってるでしょ?」
宏樹はなぜ、今そんな事を聞くのかと疑問に思ったが、今は何も言わずに肯定する。
「真吾ね。保育園で人形劇を披露してたのよ。子供たちにも… 父兄にも評判だったんだから。」
母は思い出を語るように、誇らしげに真吾の腕前を説明する。
その口調から、母もまた真吾のあやつり人形の技術をよく知っているのだろうことが窺える。
さらに母は続ける。
「先日ね、同僚の保育士さんが真吾のロッカーを整理して下さってね。他の荷物と一緒に届けて下さったのよ。あんたにも真吾の人形捌き、見せたかったわ。本当に上手だったんだから。」
話の途中で電話のベルが鳴り、母は『はいはい、誰かしら』と独り言をつぶやきながら、仏間を後にした。
残された宏樹は、人形をただじっと見つめたまま言葉を失った。
目の前の無表情な木製の姿に、あの夜の恐怖がまだ微かに蘇る。
やがて、重い呼吸を整えながらゆっくりと真吾の遺影に視線を移す。
「兄貴… あんた… 」
線香の煙がふわりと立ち上り、光の中で遺影の笑顔が揺らいだ。
「俺のことを助けてくれたのか… それとも恨んでいるのか…」
虚空に向かって問いかける声は、線香の白い煙とともに静かに宙に消えていく。
「どっちなんだ…?」
ひとがた 中村いそら @isola-sama
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