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そう言うと教師は立ち上がり、黒板の横の棚から図工用の箱を持ってきた。そこから茶色のクレヨンを取り出し、プリントの裏面に木の幹と枝を描く。大雑把で不格好だが、一応それらしく見えるだろう。
「この木にはまだ葉っぱがないよね。だからここに漢字の葉っぱをつけていくの。葉っぱは……そうね、これがいいかな」
箱の底に、余った折り紙が入っていた。薄緑の紙を一枚出して、ハサミで葉のかたちに切り抜く。少年は何が始まるのかと目を丸くして見ている。
「ここに、知ってる漢字を書いてみて」
そう言いながら葉のかたちに切った紙を差し出した。
少年は肩をすくめて「一」と書いた。
「ふふ、これが一番簡単だよね」
一と書かれた葉の裏にのりをつけると、枝の上に貼りつけた。
「この枝は数字の枝にしよう。他の数字も書けるかな」
そう言いながらまた一枚、折り紙を葉のかたちに切り取る。
二
三
四
五
六。
数字の枝に六枚の葉がついた。
「どう?」
「かわいい」
少年の口元がほころぶ。
「このえだは?」
「そうね、これは家族の枝にしようか」
少年は少し考えてから二枚の葉の上に「父」「母」と書いた。
「ちゃんと書けるじゃない」
「このふたつはしってる」
「じゃあ、これから兄弟の葉っぱも増やしていこう」
少年は嬉しそうにうなずく。
「一番てっぺんのこの枝はどうする?」
「まって、ぼくしってる」
空
日
月。
「なるほど、これは空の枝ね」
雨
雲。
「いいよ、その調子」
少年は思いつく限りの漢字を頭から絞り出し、たどたどしく葉っぱに書いては、枝の上に貼っていく。
「とりはどうかくの?」
「見て。これが頭で、これが羽、ここが足で──鳥」
「じゃあ、うたは?」
「口を大きく開けて人が歌ってるから──歌」
鼻にしわを寄せて書き順と格闘し、手本をなぞる。何度か失敗しながらも、頭でっかちの「鳥」と、左右のバランスが悪い「歌」は、なんとか無事に枝に葉をつけた。
「新しい漢字を覚えたら、こうして増やしていくの。そうやってこの漢字の木を葉っぱでいっぱいにしよう」
その言葉に少年は目を輝かせた──が、ふと手を止めて不安そうに教師の目を覗き込んだ。
「……でも、もし、わすれたら?」
「そのときはもう一度書いて貼るの。何度貼ってもいいの。書けば書いただけ、その葉っぱは分厚くて丈夫になるから」
「ほんとう?」
「いっぺんに増やさなくてもいいんだよ。少しずつでいい、一枚一枚に心を込めて書くの。そしたらきっと枯れない葉っぱになるよ」
そう言うと、少年はこの日一番の笑顔を見せた。
プリントの裏側に描いた木は、二日ほどで手狭になった。少年はうちで紙を継ぎ足してきた。折り紙を買ってもらったのか、不器用に切られた葉っぱが筆箱の中に何枚も押し込まれていた。
薄緑の葉が増えていくごとに彼の目も輝いていく。放課後になると申し合わせたようにリュックサックから折りたたんだ紙を取り出す。ゆうべは三枚の葉っぱが生えたのだと得意げに木を広げる少年を見て、教師は心がふわりと浮き立つのを感じた。
十分間ほどの復習のはずが、気がつけば二十分。三十分。時間に追われる毎日の中で、勉強と工作遊びの混ざったようなひとときが小さな楽しみになっていた。
そうして、夏休みまであと一週間ほど残したころだろうか。
いつものように放課後、少年と向かい合っていると、廊下からぱたぱたと足音がして、ひとりの女子生徒が教室に入ってきた。
「あら、どうしたの?」
「忘れ物しちゃったんです」
生徒は行儀よくそう答えると、自分の机から本を取り出してランドセルに詰め、彼らの方を見て不思議そうな顔をした。
「何してるんですか?」
「あ、これね。えっと……漢字の木を作ってるの」
「へーえ」
女子生徒は机に広げられた木の絵をおずおずと覗き込んだ。
「こんなに葉っぱができたよ。いっしょにやる?」
少年が屈託のない声で誘う。生徒はびっくりしたような顔で彼を見返したが、
「でも、塾があるから……」
曖昧に言い残して帰っていった。
「気をつけてね」
その背中に声をかけながら、無性に気まずい思いに駆られた。まるで密会しているところを見つかったような──というと大げさだが、それに近いきまりの悪さが残った。
教頭に呼び出されたのは、週末を挟んだ月曜日のことである。
「クラスの親御さんから三件も問い合わせがあったんですよ。ひとりの児童だけ特別扱いするとはどういうことか、と」
その中にはかなり強い口調で非難する声もあったという。
背中に冷や水をかけられた心地がした。漢字の木を見られたときに覚えた気まずさは、やはりこうなることを予期していたということか。
「彼は他の生徒より遅れがあるので、補習的なことができればと」
「それが工作遊びですか。幼稚園じゃあるまいし、わざわざ学校に残ってやるようなことじゃないでしょう。復習プリントでも渡しておけば済むのに」
「それは分かっていますが、でも」
「そもそもたった三週間だけ通う児童にそんなに親身に教える必要がありますか。どうせああいう子は外国へ帰れば漢字なんて忘れてしまうんだ。こちらだって公立の手前、受け入れざるを得ないから受け入れたまでですよ。先生だって本音では迷惑だったんじゃないですか」
「それは……」
体験入学の話を聞いた時の自分の気持ちを思い出し、言葉が詰まったところで、教頭はかぶせるようにつけ加えた。
「ともかく夏休み前のこの忙しい時期に、苦情が来るような行動は控えていただかないと」
その日から漢字の木はおしまいになった。
「ごめんね。これからは、ひとりで葉っぱを増やしていってね」
少年は黙って出しかけた紙をリュックサックに戻すと、そのまま背を向けて廊下を去っていった。
整然と並べられた机の上に、校庭の並木が影を投げかける。蝉の声だけがやたらと大きく響き、誰もいない放課後の教室を満たしていた。
少年は終業式に来なかった。家庭の事情で帰国が早まったという事情を、聞くともなくぼんやりと聞いていた。拙い文字がべたべたと貼りつけられた絵がふいに途方もなく懐かしく思えて、胸の奥がチクリと痛んだ。
夏休みが明け、二学期も軌道に乗りはじめたころ。
授業を終えて汗を拭きながら職員室へ戻ってくると、隣の教師に封筒を手渡された。
「お手紙、預かってますよ」
「ありがとうございます」
印字された住所と学校名の下に、そこだけ手書きで自分の名前が書かれている。見覚えのある字にハッとなって封筒を裏返すと、アルファベットの住所が記されていた。
差出人の名前を見て思わず笑みがこぼれる。
「ラブレターですか?」
「さあ、どうでしょうね」
茶化すように覗き込む隣の教師からのがれるように、さりげなく席を立った。
生徒のいなくなった教室へ戻り、そっと封を開ける。そこには濃い鉛筆の字でこう書いてあった。
『先生、元気ですか。 ぼくは 元気です。
はじめて 日本語で 手紙を 書きます。
いっぱい 葉っぱを 作ってくれて ありがとう。
うれしかった。
漢字の木を かべに はったよ。見てね。
また 先生の教室に 行きたい。
ぼくは、葉っぱのある木に なりたいです。』
便箋の代わりにした学習帳のマスからはみ出そうな文字。これだけ書くのにおそらく何度も書き直したであろう、精一杯の文字が並んでいる。
封筒には一枚の写真が入っていた。壁に貼ったという漢字の木はさらにひとまわり大きくなっていた。つぎはぎだらけの紙面いっぱいに枝が伸び、その上にはいくつもの折り紙の葉が分厚く茂っている。
写真から目を上げ、教卓を振り返った。そこには大判の画用紙で作った漢字の木が貼ってある。二学期になってから始めた、このクラスのための木だ。新しい漢字を習うたびに、一枚ずつ葉をつけることになっている。
──君も葉っぱのある木になれるよ。一枚一枚、ゆっくり、大きくなったらいい。
教師は窓の外に目を向けた。校庭の並木は相変わらず青々と陽に輝いている。その中に、ようやく透明な緑をつけはじめた一本の木が笑うように風にそよいでいた。
了
葉っぱのない木 柊圭介 @labelleforet
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