葉っぱのない木

柊圭介

🍃

 開け放した窓から蝉の声が聞こえる。すぐ外の校庭からは子どもたちの賑やかな声が響いてくる。地面に反射した七月の日差しが黄色い声と相まって、暑さにより拍車をかけるようだ。

 窓の外では校庭の若い並木が透き通るような葉をざわめかせている。春のはじめに植樹されたときには裸の枝ばかりだった木も、今では順調に葉をつけて育っている。植えられた順番に、ひとつずつ色を灯すように柔らかな緑が茂ってゆくのは、見ているだけで明るい気分になったものだ。この若木のおかげでちょうどこの時間に日陰になる教室は、人けがないこともあって、ほんの少しだけ涼やかに感じられた。

 

 授業が終わったあとの、いつもどおりの三年生の教室。違うのは、教室の後ろにあるランドセルの棚にリュックサックがひとつだけ残っていること。そして目の前にはそのリュックサックの持ち主である小さな訪問者がちょこんと座っていることだ。


 教師は誰もいないクラスの真ん中に少年と向かい合っていた。そうしていることに自分でも少し驚きながら。



 ──めんどくさいな。


 これが最初の正直な気持ちだった。夏休みを控え、テストやら成績表の準備やらで特に忙しい時期だ。こんなときに「体験入学」など……。

 外国に住んでいる人には分からないのかしら。

 せっかくの一時帰国だから、子どもを日本の小学校に通わせたいという親の気持ちはわかる。長い夏休みを持て余すぐらいなら学校に入れた方が有意義に思えるのもわかる。しかしこちらだってたくさんの生徒を抱えている身なのだ。観光気分でほんの三週間だけ登校されても。


「迷惑なんだよね」


 職員室で誰もいないのを幸いに小さくひとりごちた。体験といえど書類やひととおりの手続きは必要だ。机も足さなければならない。しわ寄せは全部こちらに来るというのに。親の心子知らず、というが、先生の心誰も知らず、だ。

 海外駐在員の家庭というエリートめいた響きもなんとなく癪に障った。当たり前のこととはいえ、小学生の分際でパスポートを持っていることにも面白くないものがあった。挨拶に来た母親には、体験入学でも他の子と同等に扱わせていただきますと、最低限それだけは言っておいた。外国から来ようが特別扱いするつもりはないと、自分なりに釘を刺してみたつもりだった。


 なのに、なぜ自分は今こうして少年と向かい合っているのだろう。



 彼ははじめこそ物珍しげにキョロキョロして落ち着かない様子だったが、クラスの雰囲気にはすぐに慣れたようだった。他の生徒とも打ち解け、休み時間にはさっそく一緒に遊んでいた。だが、授業中は周りがノートを取る中でひとり窓の外を眺めている。のほほんとしたものだ。やっぱり観光気分の体験入学に過ぎないのかと、あえて彼を指すことはしなかった。


 小さな異変があったのは国語の時間だった。

 この時期はどうしてもテストが重なる。この日も漢字のテストだった。

 しんとした教室の中、紙に鉛筆を走らせる音だけがせわしなく響く。少年は鉛筆を握ったまましばらく固まったようになって答案用紙を見つめていた。顔を上げて周りの生徒にチラチラと目をやり、またテストに視線を戻し、眉を寄せ、また辺りを不安げに見回している。ぎゅっと握られた鉛筆は動きそうもない。

 集中しなさいと声をかけそうになったが思いとどまった。教師は他の生徒を監督しながらも少年の様子を観察した。

 少年は答案用紙を睨みながら目を何度もしばたかせて、爪を噛む。そのうち鼻の先が赤くなってくる。鉛筆は固く握られたままだ。

 ようやく動いたのは終了五分前ぐらいだったか。

 小さな肩で大きく息をつき、手の甲で目をぬぐうような仕草をすると、やはり爪を噛みながら空白を埋めはじめた。


 

 ──もしよかったら、放課後少しだけ残って先生とお話ししようか。大丈夫、十分ぐらいだけ。暑いものね。ちょっとだけお話ししたら帰っていいから。


 自分でもなぜこんなことを言ったのか分からない。ただ、返されたテストを前に、周りの子たちを横目で窺うようにしてうつむいた姿と、答案用紙に零れ落ちたひとしずくの涙を見たとき、なんとなく放っておけないような気がしたのだ。




「どう、学校。楽しい?」

「うん、たのしい」

「何が楽しい?」

「きゅうしょくがおいしい」

「そうか、フフフ」


 少年はいつものように窓の外に見える並木に目を向けている。

 太陽を受けて若い葉を輝かせる木々の間に、一本だけまだ一枚も葉をつけていないのがある。他の木がどんどん葉を増やしていくのに、その木だけは力が弱いのか、新しい土にまだ戸惑っているのか、そこだけ冬のように裸の枝を晒している。


「勉強はどう。楽しいかな?」

「うん。まあまあ」

「漢字は──」


 やっぱりその話か、というような顔で少年はちらりと教師を見た。赤いペンで埋め尽くされた答案用紙を思い出したのだろう。給食がおいしいと言った顔から無邪気さが消えて表情が硬くなった。


「いつもはどれぐらい漢字の勉強を──」

「テスト、ママにみせなきゃだめ?」

「え?」

 ふいに尋ねられて思わず訊き返した。

「みせなきゃだめ? テストみせたらママにおこられる」

「ああ……」


 挨拶に来たときの少し神経質そうな母親の顔が浮かんだ。漢字のレベルを尋ねると、補習校にも行かせていますし普段からしっかり勉強させていますと、どこかムキになるような口調だったのを思い出す。

 わきに置いたファイルには小学一年生からの漢字ドリルのプリントが入っている。家で復習させるために渡そうと思って用意したものだ。だがあの母の様子であれば、自分が用意してきた練習帳など、もういくつもやらされているのかも知れない。

 少年はまた爪を噛みそうになったが、そのままバツが悪そうに手を机の下へおろしてうつむいた。


「ごめんね、せんせい」

「どうして謝るの?」

 少年は一瞬口ごもって、それから秘密を打ち明けるようにこう呟いた。

「……ぼくはおそいんだって。がっこうのせんせいがいってた」

「それは……向こうの学校の?」

 少年はうなずいた。

「ぼくはおそいんだって」

「全部?」

「うん。おぼえるのとか。かくのとか。はなすのとか。

「……そう」


 おそらくふたつの言語が干渉しあってお互いを妨げているのだろう。バイリンガルなどと言って持て囃してはいるが、子どもの場合は両方が未発達になってしまうという話は聞いたことがある。


「外国にいるんだから、なかなか覚えられないのはしょうがないよ。でも話すのは上手だよ。ちゃんと日本語でお話しできるじゃない。だから大丈夫よ」


 慰めているのだか気を遣っているのだか、いずれにしても取り繕うような口調になったのが自分でも嫌だなと思ったが、少年はそんなお世辞は聞き厭きているとでもいった顔でまたふいと窓の方へ視線を移した。

 窓の外では、葉のない木が相変わらず所在なげに並木に挟まれている。

 少年はしばらくその木を見つめていたが、ふいにこう呟いた。


「あの木はぜんぜんはっぱができないのかな」

「うん?」

「あのはっぱのない木」

「ああ……どうなんだろうね」

「あの木、なんだか、ぼくみたい」

「え?」

「ぼくにもはっぱがはえないの。あの木みたいに。ずっと」


 少年の小さな額が曇っている。

 正直なところ年齢よりもすこし幼いと感じる彼の話し方を聞いていると、親が夏休みにも学校へ通わせようとしたのは、観光気分ではなく意外と切羽詰まった気持ちなのかも知れないと思った。なにより本人がそれを感じ取っている。


 これから芽吹くはずの若木が自分を葉の生えない木に喩えるなんて。


 そう思ったとき、頭の中でなにかが閃いた。

 教師はおもむろにファイルから漢字プリントを取り出した。文字がずらりと並んだ教材を見てひるむような目をする少年の前で、プリントを裏返して白い面を机の上に置く。


「じゃあ、葉っぱを生やそう」

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