仕方がないを受け入れる ~後悔しない考え方~

アユト

第1話 仕方がないを受け入れる ~後悔しない考え方~

【約束された人生】

 毎日、人生を歩いていると人間の脳にあるいは魂に、その人の人生の歩み(性格、価値観、行動、言動など)が最初から約束されているのではないか。と思う時がある。

 人から言われて、自分ではわかっていてもやめられないこと。わかっていても行動できないこと。そうかと思えば、それぞれの人生をふりかえってみれば、今、どんなにダラダラした日々を送っていても、なかなか一歩をふみ出せていなかったとしても、過去にここぞという時に行動できていた経験が誰しも1つはあるはずなのだ。

 例えば、社会人になって仕事が続かず短期間に職を転々としていて、自分は何事も続かない人間なのかというと、過去を思い出してみれば、ちゃんと小学校は卒業できていた。中学校、高校、専門学校、大学は卒業できていた。という人も多いはずなのである。

 反対に学校時代、何らかの事情で登校できなかった。中退してしまったという人でも、社会人になってから安定した生活を送っていたり、成功している人もいる。

 人間関係でも、あの人にあの時、なんであんなひどいことを言ってしまったんだろう、いけないとわかっているのに、あの人についついひどいことを言ってしまう。人に依存してしまう。など自分で言ったことには間違いないのだが、あとから気づくと後悔することをみると、ここぞという時の行動も人に対する言動も始めから脳にあるいは魂に約束されているのではないかと思うときがある。

 身近な日常生活のほんの一場面でいうと、筆者の場合、トイレに行きたいんだけど、眠くてしかたがない時、考え事をしている時、いつになったらトイレに行くんだろうと思いながら、ダラダラしていたら気づいたらトイレに瞬間移動していた。なんてことはしょっちゅうある。行動するときには自然と行動しているのだ。

 ということは、今どうしていいかわからず、もがいている人、引きこもっている人も社会復帰したいと思っていたら、いつのまにか時期が来て気づいたら、それぞれのあるべき場所に瞬間移動していた(社会復帰できていた)。ということだってあると考えられるのだ。


【自分の限界を知る】

 自分の限界を受け入れる。世の中には自分の意志・努力ではどうにもならないことがある。筆者自身も今まで何度も挫折を経験し、今に至る。始めのうちは自分の意志や努力が足りなかったからと自分を責め続けていたが、単なる自責や甘えやいいわけでは片づけられないことも無数に存在する。

 仕事の面でも、なぜか居心地のよさを感じないところから始まり、人間関係が日に日に悪化する。それでも無理をしていたら、仕事のミスが連発したり、長期間リハビリをしなければならない怪我けがをしたり、事故したり、体調を壊しやすくなったりと、あきらかに軌道修正を促しているようなトラブルが頻発してくる。

 どんなにトラブルが頻発しても自分の意志さえしっかりしていれば、せいぜい1日でも長く仕事を続けることができるかもしれないが、ある日から突然やる気をなくしてしまうことがある。

 筆者の場合、これはトラブルが多かった職場だけでなく、人間関係も普通でこれといったトラブルがない働きやすい環境でも、この現象は起きた。

 トラブルがないなら、少しでもその職場にとどまりたいと思うものだが、どうしても、心が受けつけなくなり、しだいに体まで言うことを聞かなくなり、とうとう出社できなくなってしまった。当時の派遣会社の担当の方にその旨は伝えた。いろんな人に迷惑をかけてしまっているのは充分に理解していたがどうしても無理だった。

 もともと自分は生まれつき、こんなに根性のない人間だったのか、途中で投げ出してしまうほどの意志の弱い人間だったのか。

 過去をふり返ってみたら中学校・高校は合計6年間無欠席だった。高校も第一志望の高校が不合格で、自分の行きたかった高校ではなくても3年間、1日も休むことなく卒業することができた。

 校内マラソン大会の日も風邪をひいて熱もあったが、飲み薬を飲んで6kmのマラソンを完走できた。

 それでも社会人になったとたん、仕事がことごとく続かなくなっていた。仕事が続かず、多くの職場を経験したが自分から見ても異常である。

 ここまでくると、甘えや根性がないのは事実でも、それだけで片づけるにはキリがなくなってくるのだ。次こそは、せめて1年、できれば2年、頑張って3年続けると気持ちを持っていても途中からどうしても気力がなくなってしまう。

 学生時代は気力が粘り強くあったのに、なぜだ。まるで始めから約束されていたかのように時期がくると、ことごとく縁がきれてしまうのだ。これは仕事の縁だけでなく人との縁、恋愛での縁、大切にしていたものとの縁、どれにも共通すると筆者は考える。


【挫折が教えてくれたこと】

 筆者自身、挫折の連続である。高校受験に失敗し、失恋し、就職活動もうまくいかず何度も不採用になりながらもやっと採用してくれた会社も短期間で辞めてしまい、何度も無職期間を経験し、仕事も正社員、契約社員、派遣社員、アルバイト全て経験し、どれも長続きしなかった。

 世の中、苦労をしている人を挙げればキリがないが、筆者の人生も波乱万丈とまではいかなくても、紆余曲折うよきょくせつな人生である。

 だが、今となっては考えてみれば、当時は苦痛にしか感じなかった挫折も自分に大きな気づきを教えてくれた恩師のような存在であることに気づいた。

 高校受験失敗、中学生の頃、部活が好きで他の中学校の部活仲間から誘われていたこともあり、理想の高校生活を思い描いていたが、あの日の現実は岩のように重かった。

 しかし、思い描いた高校生活と引き換えに得たものは大きかった。10年以上続く友達。そして、今の堕落した自分からは想像できない粘り強さが当時はあったことに気づいた。

 高校受験に失敗し入学した高校は、すべり止めの高校ということもあり、いろんな複雑なエネルギーを抱えながら通学している生徒も多く、人間関係で苦労することも多かった。

 ただでさえ中学校の頃、理想としていた高校生活の夢が打ち砕かれただけでなく、人間関係でも苦労するという状況ではあったが、3年間1日も休むことなく通学でき、風邪をひいて熱があった日も熱さましの薬を飲んで6kmの校内マラソン大会に参加し、走りきれたこと。

 今の打たれ弱くなった自分では想像できない粘り強さがあった。

 ただ、理想だった第1希望の高校と大きく違ったのは、居心地に違和感がなかったこと。第1希望の高校は中学生の時、高校見学に参加させてもらったが、違和感とまではいかなかったが、なにか違うという不思議な感じをおぼえた。

 すべり止めで入学することになった高校の同じクラスの友達とは仲がよく受験に失敗した同士ということもあったからなのか、団結力があった。この仲間がいたから、いろいろあった3年間を乗り越えることができたと今でも思っている。

 校舎の雰囲気も不合格になった第1希望の理想としていた高校よりも、入学・卒業した高校の方が、なぜか安心感というかしっくりくるものがあった。

 実は、当時粘り強かったのではなく、自分に合っていただけだったのかもしれない。今の自分が打たれ弱くなったのではなくて、続かなかった会社が自分に合っていなかっただけなのかもしれない。

 次に、失恋から学んだことは、19、20歳まで交際していた彼女は「努力をすればなんでもできる」という考え方が嫌いだった。筆者は高校受験には失敗したが、大学には合格できたからというのがあったからか、その時は努力でなんとでもなる。と勘違いしていた。

 あの当時の筆者は学生で、まだ社会に出て数々の挫折を経験する以前だったこともあり、そんな彼女の考えを甘ったるい、というような目で見てしまっていた。

 知らず知らずのうちに彼女の心を傷つけて、彼女の心が離れていくことに気づけなかった結果、失恋し、それから4年間、気持ちの整理ができないままの状態が続いた。

 そんな状態のまま社会人になり、当時は気づけなかったが今思えば彼女の言っていたことが痛いほどわかった。どうしても仕事についていけず、なにをやっても空回り、自分でもなぜできないのか、なぜ仕事を理解できないのかパニックになった。

 なにくその根性がいたら結果は変わっていただろうが、完全に戦意喪失してしまっていた。

 適材適所という言葉があるが、この意味を痛いほど理解した。確かに彼女の言っていたことは正しかった。努力すれば、あらゆることができるはずなんてないのである。 

 極端な例だが、野球を一流まで極めた人がいたとする。その人が努力すればサッカーの世界、水泳の世界、マンガの世界、音楽の世界、小説の世界、それらすべてにトップの一流になれるかというと、どうだろう。それは、なかなか難しいことだと思う。

 本職並みかそれ以上の情熱をあらゆることに持てるだろうか。自分の信じる道一本に「気持ち」を持てるから一流になれるのであって、この「気持ち」をあらゆる分野に持っていけるのかというのは極めて難しいことだと思う。

 失恋したが、遠まわりすることなく自分にぴったりの仕事に出会えていたら、彼女の気持ちの答え合わせができないままだった。

 社会人になってからは、転職と無職をくり返して、せっかくお世話になった多くの会社には、たいへん申し訳なかったが、どうしても続けることができなかった。

 はじめのうちは、ただ自分に能力がなかったから、根性がなかったからだとばかり思っていたが、しだいにそれだけでは片づけられない大きな力というか、人生の重みを感じずにはいられない、できごとを体験した。

 短期間に何度も退職しているのに、それでも採用してもらえ続けたことが奇跡的であるし、短期間で退職した会社の中には、会社からの評価もよく居心地もよかったが、契約の更新(派遣社員)をする意欲がどうしても湧かなかったり、自分からみて難しそうだった機械操作が、すんなりできるようになったり、逆に自分でもこれは簡単だろうと思う仕事の手順が、なぜか覚えられなかったり、原因不明の体調不良が退職するまで続いたり、会社の通勤・退勤時に事故が頻発したり、仕事中の不注意でリハビリを必要とする怪我をしたりと、見方によれば方向転換を促すようなトラブルがあった。

 何度も無職期間を経験したが、これも決して無駄ではなかった。仕事をしているとなかなかとれなかった、人生について考えたり、自分を見つめなおす時間をたっぷりとることができた。

 仕事の意欲を継続できないのはなぜか。このままそれまでのように就職活動をしても、また同じ失敗のくり返しではないか。本当に自分がやりたいことは何なのか。ベッドに寝転がって天井を見て考える日々。

 何度も折れては立ち上がってきたが、今回はさすがに体が動かない。このままでいいのか。いや、だがやりたいことが見つからない。どうしよう。のくり返し。

 せっかく嫌というほど挫折を味わったのだから、挫折が何か教えてくれないか。今、無気力な自分にも意欲的に活動できていた時期はあった。頑張れない人間なんじゃなく、自分らしくいられる場所に出会っていないだけ。意欲を継続できる目標に出会っていないだけ。

 人は、なんでも「気持ち」を入れられるわけじゃない。自然と努力できること、どうしても努力できないことは必ず存在する。どこか違和感を感じながら無理して仕事していても、自然の風は、これでもかと方向転換を促してくる。

 その時、「気持ち」を持てなければ限界が来るのである。

 どうすればいいかわからなければ、必死になってあれこれ考えようとせず、自然に任せるしかない。

 生きてさえいれば。いつか直感なり、ひらめきなり、きっかけなりが訪れてくれるはずだ。


【後悔しない考え方】

 後悔について考えることがある。「あの時、行動しておけばよかった」、「あのとき勉強しておけばよかった」、「好きなあの人に告白しておけばよかった」など、挙げればキリがないほどの後悔の種類がある。でも、これについて考えたことがある。過去の自分の経験からこう考えられる。


「あの時、行動しておけばよかった。」→「あの時、どうしてもやる気のスイッチが入らなかった事実。」


「あの時、しっかり勉強していればよかった。」→「あの時、数学の解答・解説をいくら見ても理解できなかった事実。」


「好きなあの人に告白していればよかった。」→「本気になっている、その日に限って好きな人がいなかった事実。」


 他人の気持ちをコントロールすることが難しいのは言うまでもないが、自分の気持ちをコントロールすることも難しいことを過去の経験から悟った。自分のやる気のスイッチだけでなく、タイミングさえもコントロールできない。

 そう考えると、過ぎ去った過去の後悔に苦しむ必要はあるのだろうか。


 ここぞという時に本気になれなかった。

(わかってはいても行動できなかった。)


 どれだけ理解しようと思っても、ただ時間だけが過ぎていった。

(理解できるようになるまで数学のテストの日は待ってくれない。)


 今日こそアクションを起こそうという時に限って、タイミングが見事にずれる。

(それも1度や2度ではない。)


 このことを考えると、何かに情熱を持てること、努力が結果に結びつくこと、気持ちや努力を継続できること、意中の相手とカップル関係になれること、すべてが奇跡なのではないか、と思うことがある。人生を左右する重要なイベントほど、このような不可抗力が目立って現れるような気がしてならない。


 そして、こう思った。どうにもならなかった過去を悔やむより今、目の前にある奇跡を受け入れようと。


 過去について人それぞれ、いろんな考え方があると思うが、筆者の場合。

「もうこれ以上、過去を後悔しない。」

という意気込みよりも、

「いやいや、後悔のしようがなかった。」

というのが正直な本音である。


 数々の奇跡に近い確率で出会ってきた人々や境遇、すべてに感謝というのは、今のところ未熟な筆者には美化しすぎている感じはあるが、少なくともその奇跡に近い現実を受け入れて、いろんな人や境遇からいろんななにかを学び取らせてもらおう、また、いずれはうれしかったことから、苦しくつらかったことまですべてに感謝できるまでに成長したいと思った。


【まとめ】

 仕方がないを受け入れること。努力したことが報われたり、報われなかったり。

 成功、失敗、挫折、実力、タイミング、意欲すべてが縁に支配されているといっても過言ではない。

 努力しても叶わなかったこと、どうしても本気になれなかったこと。そんな仕方がないことにしがみついたり後悔していても、なかなか微笑んでくれないのが人生だ。

 もし、自分の努力次第で選択次第で未来が自由自在に変わるなら、本来自分と関わるはずだった全ての人の人生や縁が狂ってしまうことになる。

 そう考えたら、報われなかった努力や思いや、どうしても本気になれなかったあの時も、すべてがなるようになった結果であって、よかったことも苦しかったことも、すべてが仕方がないことだった。

 だから仕方がなかったことにしがみついても自分を責めても後悔しても、仕方がないのである。

 自分を責めるのも後悔するのもやめて、仕方がないことから学ばせてもらえることに感謝しながら仕方がないを受け入れることが、これからの人生後悔することなく、生きることができる。そう筆者は思っています。

 どんなに未来が不安でも、約束された未来しか来ないのであれば、約束にない不安なことを考えたり悩んだりする必要はない。大丈夫だ。

 そうプラスに仕方がないを受け入れることができれば、これから少しでも前向きに毎日を送っていけるのではないでしょうか。

 


 


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