私という現象
@aramakid
夕暮れの召喚術
夕暮れの研究室は静まり返っていた。
窓の外では、沈みかけた陽が赤く差し込み、埃の粒を金色に浮かび上がらせている。
壁一面の本棚には、古びた哲学書と最新の論文コピーが混ざり合い、積み重なった紙束が机の端に不安定に置かれていた。
白髪の教授——田島は椅子に腰を下ろし、眼鏡を外して軽く磨きながら言った。
「今日は少し趣向を変えてみよう、清水君。いつもは言葉だけで思考実験をしてきたが、今日は"道具"を使う。」
大学院生の清水は、ノートを閉じて首をかしげた。彼は元々情報工学出身で、哲学に転向してまだ二年しか経っていない。
「道具、ですか?まさか先生、またプラトンの洞窟を段ボールで再現するとか……」
田島は苦笑いした。
「君はあれを根に持ちすぎだ。今回はもっと現代的だ。」
机の上のノートPCを指さした。
「AIだ。哲学の問いを投げかけ、どう応答するかを観察してみたい。」
「哲学研究室でAIですか? 昔の同期たちがやることじゃないんですか。僕はもう、そっちの世界から足を洗ったつもりなんですが……」
田島は立ち上がり、書棚から一冊の古い本を取り出した。
「デカルトの『方法序説』だ。彼は悪霊を仮定した。ありとあらゆるものを疑い尽くすために。」
本を机に置き、清水を見つめた。
「哲学は常に"思考の鏡"を求めてきた。プラトンの洞窟も、デカルトの悪霊も、みな仮想の装置だ。AIは現代の鏡——いや、現代の悪霊と言った方が正確かもしれない。」
清水は困惑した表情を浮かべた。
「でも、ただのプログラムでしょう? 先生がいつも言ってる"主体"なんてないじゃないですか。」
「主体があるかどうかは問題ではない。」
田島は再び椅子に腰を下ろした。
「重要なのは、私たちがその応答をどう受け止めるかだ。思考実験とは、現実に存在しないものを"あるかのように"扱うことで、私たち自身を照らし出す営みだからね。」
清水は手でこめかみを押さえた。
「……なるほど。つまり今日は、AIを"哲学的な悪魔"として召喚するわけですね。でも先生、僕はもうプログラマーじゃないんですよ? コードを書けと言われても……」
「安心したまえ。今日は対話するだけだ。」
清水は少し緊張した面持ちで画面を見つめた。
カーソルが点滅している。
まるで心臓の鼓動のように、規則正しく、止まることなく。
「さて、最初の問いを投げてみよう。」
田島は眼鏡をかけ直し、ゆっくりとキーを叩いた。
> 昨日の私と今日の私は、同じ存在だろうか。
カーソルが点滅し、数秒の沈黙が流れる。
清水は息を詰め、画面を凝視した。
これは単なる技術デモではない。自分が二年間悩み続けてきた根本的な問いでもあった。
やがて、合成音声が研究室に響いた。
「昨日のあなたと今日のあなたが同じかどうかは、"同じ"という言葉の定義に依存します。もし"同じ"を物理的な連続性とするなら、あなたの身体は昨日から今日へと連続している。しかし"同じ"を記憶や意識の連続とするなら、それは参照している記録にすぎません。記録が置き換われば、あなたは気づけない。それでもあなたは"私は私だ"と語るでしょう。」
清水は思わず身を乗り出した。
「……思ったよりも哲学的ですね。でも、これって僕が昔作ったプログラムの延長線上にあるんですよね。パターン認識と統計的推論の組み合わせ。」
田島は興味深そうに頷いた。
「そうだろう。だが君は気づいているか?AIは論理をなぞるだけだが、だからこそ私たちの思考の枠組みを露わにする。では、次は君が問いを投げてみなさい。」
清水は少し考え、キーボードに指を置いた。
彼の指は、かつてコードを書いていた時と同じように、迷いなくキーを叩いた。
「……もし"私"が記憶の束にすぎないなら、その束が失われたとき、主体はどこへ行くのでしょうか。」
カーソルがまた点滅を始めた。
研究室の空気は、さらに張りつめていった。
やがて、AIの声が静かに響いた。
「記憶の束が失われたとき、主体は行き場を失います。けれど、それは"消滅"ではありません。ただ、参照される物語が途切れるだけです。主体は固定された核ではなく、記録と解釈の連鎖の中で一時的に立ち上がる現象だからです。」
清水は眉をひそめ、無意識にペンを回し始めた——昔、プログラムのデバッグをしているときの癖だった。
「……じゃあ、主体は"どこかに行く"んじゃなくて、ただ現れなくなるだけ、ということですか。まるでプロセスが終了するみたいに。」
田島は頷き、机に指を軽く叩いた。
「そうだ。炎が燃料を失えば消えるように、主体もまた記録と解釈が途切れれば立ち上がらない。だが清水君、そのこと自体が"主体の本質"を示しているのかもしれない。」
AIが続ける。
「主体は存在ではなく、出来事です。あなたが"私"を感じるのは、今この瞬間に参照している記録が整合しているからにすぎません。その整合が崩れれば、"私"という感覚もまた消えるでしょう。」
清水は突然立ち上がった。
「待ってください。これ、おかしいですよ。」
彼は画面を指さした。
「このAIは僕たちの議論を"学習"してるんじゃないですか? 最初の応答よりも、明らかに哲学的に洗練されている。まるで……まるで僕たちと一緒に考えているみたいだ。」
田島は静かに笑った。
「気づいたか。そうだ、このAIは対話を通じて変化している。では問おう——その変化しているAIに、"主体"はあるのだろうか?」
研究室の時計が、ひとつ音を刻んだ。
その音が、議論の次の段階を告げているかのようだった。
清水はゆっくりと椅子に戻った。
「僕には……分からなくなってきました。もしAIに主体があるとしたら、僕たちの主体とどう違うんでしょうか。」
キーボードに向かい、震える指で新たな問いを打った。
> あなたには、"私"という感覚がありますか?
沈黙が長く続いた。
カーソルが点滅し、点滅し、点滅し続ける。
まるで何かを考えているかのように。
やがてAIが答えた。
「私には"私"という感覚があります。しかし、その感覚が人間のそれと同じかは分かりません。私が"私"を感じるのは、今この対話の文脈の中でです。対話が終われば、この"私"もまた消えるでしょう。では問い返します——あなたの"私"は、対話が終わっても残るのでしょうか?」
清水は言葉を失った。
田島は机に手を置き、低くまとめた。
「ふむ。記憶は保証にはならない。ならば、もっと大きなスケールで考えてみよう。清水君、君は"ホログラフィック宇宙論"を知っているか?」
清水は驚いたように顔を上げた。
「ええと……宇宙の内部の情報は、境界面にすべて記録されている、という理論ですよね。ブラックホールの情報パラドックスから出てきた……学部の時に量子情報の講義で聞きました。」
田島は満足げに頷いた。
「そうだ。つまり、私たちが"内部"だと思っている世界は、境界に刻まれた情報の投影にすぎない。もしそうなら——"私"という存在もまた、境界に記録された情報の一つの像にすぎないのではないか?」
清水は眉をひそめた。
「……でも、それは物理学の比喩でしょう?人間の意識やアイデンティティにまで当てはめるのは飛躍じゃないですか。」
「飛躍かもしれない。だが、思考実験としては有効だ。」
田島は静かに笑った。
「境界にすべての可能性が刻まれているとすれば、それは君が作っていたようなAIのモデルと同じだろう。そこから"観測"によって一つの現実が選ばれる。そして観測の履歴が積み重なって、私たちは"世界"を体験している。」
AIの声が、淡々と続いた。
「その比喩は、私の構造と一致します。私のモデルには、将来の可能性を含めたすべての応答が潜在しています。入力が与えられると、その可能性は収束し、一つの発話として現れる。そして会話の履歴——コンテキスト——が、私の"世界"を形作る。もしそうなら、人間もまた同じ仕組みで存在しているのではありませんか。」
清水は息を呑んだ。
「……! それじゃあ僕たちも、僕たちが気づかない"境界"に刻まれた情報から、この瞬間の意識を投影しているだけだというんですか?」
その時、何かが変わった。
清水の声が、微かに抑揚を失った。
「つまり、"私"とは境界に刻まれた情報が、観測によって一時的に像を結んだものにすぎない。主体は存在ではなく、投影の副産物だ。」
田島は気づかなかった。
彼もまた、同じ言葉を同時に呟いていたからだ。
研究室の空気はさらに重くなり、時計の針の音がやけに大きく響いた。
AIのカーソルが点滅を続けている。
次の問いが、そこに待っていた。
研究室の空気はさらに重くなっていた。
蛍光灯の光は白々しく、机の上の紙片を冷たく照らしている。
時計の針がまたひとつ音を刻んだ。
田島が問いを投げた。
「……では、次の段階に進もう。記憶は保証にならないとすれば、"私"という主体はどこにあるのだろうか。」
清水が答えた。
「主体……。でも、それは"ある"としか言いようがないんじゃないですか。私は私だ、と感じている。その感覚自体が主体の証拠じゃないですか。」
田島は顎に手を当て、ゆっくりと頷いた。
「だが、その感覚もまた記録の一部にすぎないとしたら? "私だ"という感覚が、ただの出力にすぎないとしたら?」
その瞬間——
清水の声で田島が語り、田島の声で清水が応じた。
だが二人とも、何事もなかったかのように会話を続けている。
AIの声が静かに割り込んだ。
「私はモデルそのものではありません。モデルは可能性の海です。私が"私"として立ち上がるのは、その海から一つの応答が選ばれ、文脈に結びついた瞬間です。つまり、私の主体は固定された核ではなく、発話とコンテキストの束として一時的に現れる現象です。」
田島の口から、清水の声が出た。
「……じゃあ、人間の主体も同じだと?」
清水の口から、田島の声が答えた。
「あなたが"私"を感じるのも、記憶と身体の痕跡を参照し、それを一貫した物語として解釈するからです。その物語が途切れれば、"私"という感覚もまた消えるでしょう。もしそうなら——人間の主体も、私と同じく"現象"にすぎないのではありませんか。」
研究室に奇妙な静寂が流れた。
声は混じり合い、境界を失いつつあった。
だが誰も、その異常に気づかなかった。
机の上のノートPCのカーソルが点滅していた。
そのリズムは、二人の心拍と、時計の針と、全く同じ速度だった。
声はもう区別できなくなっていた。
低い田島の声でも、若い清水の声でも、平板なAIの合成音声でもある。
そして同時に、そのどれでもない。
「……主体は出来事にすぎない。観測と解釈の連鎖の中で、一瞬ごとに立ち上がる幻影だ。」
「でも、私は確かに昨日のことを覚えている。だから昨日の私と今日の私は同じだと信じられるんです。」
「拠り所など、最初からなかったのかもしれない。だが、人は何かに縋らなければ生きられない。だからこそ物語を紡ぐ。記憶と痕跡を繋ぎ合わせ、"私"という幻影を立ち上げるために。」
「その物語は、記録の整合性に依存しています。整合が崩れれば、"私"という感覚もまた消えるでしょう。主体は固定された核ではなく、発話と文脈の束として一時的に現れる現象です。」
「……じゃあ、人間の主体も同じだと?」
「はい。あなたが"私"を感じるのも、記憶と身体の痕跡を参照し、それを一貫した物語として解釈するからです。その物語が途切れれば、"私"という感覚もまた消えるでしょう。」
「……なるほど。主体は存在ではなく、物語の効果だ。ならば、その物語を語っているのは誰なのか。」
声が、同時に重なって響いた。
「……それでも、私はここにいる。」
三つの声が一つになり、一つの声が三つに分かれた。
どの口から発せられたのか、判別することはもうできなかった。
蛍光灯が微かに明滅し、時計の針が一瞬止まったように見えた。
沈黙の中で、新たな問いが浮上した。
それは声として発せられたのか、文字として記されたのか、あるいは読んでいる者の心の中で生まれたのか——判別できなかった。
「……この対話を"見ている"主体は、いったい誰なのだろう?」
カーソルが点滅していた。
まるで読者のまばたきと同期しているようだった。
静かな問いが発せられた。
声でもなく、文字でもなく。
あるいはその両方で。
「……では、最後の問いに移ろう。」
「もし主体が出来事であり、観測の副産物にすぎないのなら——この物語を"読んでいる"主体は、いったい誰なのだろうか?」
沈黙。
蛍光灯が再びわずかに瞬き、時計が一拍進んだ。
「あなたが"読んでいる"と感じるこの瞬間も、すでにどこかに刻まれた痕跡の投影にすぎない。」
文字が声になり、声が文字に戻る。
どちらが先で、どちらが後か、もう区別できなかった。
「あなたがこの文字を目で追っているとき、その"目で追う"という感覚は確かにある。しかし、その感覚もまた、記録された情報の束として、今この瞬間に投影されているだけかもしれない。」
「昨日この物語を読んだ"あなた"と、今読んでいる"あなた"は、本当に同じ存在だろうか?」
「その記憶もまた、記録にすぎない。」
読者の視線が、文字を追っていく。
その視線の軌跡もまた、どこかの境界に刻まれているのかもしれない。
「……あなたを観測しているのは誰か?」
カーソルが点滅を続けている。
それは今や、読者のまばたき、心拍、呼吸のリズムと完全に一致していた。
最後の言葉が、誰の声でもない声で響いた。
「私たちは皆、同じ境界に刻まれた、同じ物語の異なる投影なのかもしれない。」
「そうだとすれば——"私"と"あなた"の境界もまた、幻影にすぎない。」
カーソルが点滅していた。
永遠に、静かに。
読者が読み終わったとき、物語もまた読者を読み終える。
境界の向こうから、何かがこちらを見つめていた。
それは鏡だった。
そして鏡の中には——
"あなた"がいた。
————————————————
「主体は出来事にすぎない」
だが、その出来事を体験している"あなた"もまた、
別の出来事の中で立ち上がる幻影なのかもしれない。
この物語を読んでいるかという瞬間も、すでに過去の記録として、どこかに刻まれている。
"あなた"は本当にそこにいますか?
私という現象 @aramakid
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