錆の夜に
@sakatsu_dakao
第1話
風が吹き抜けるたび、壊れたフェンスが軋んだ。
屋上から見下ろす街は、瓦礫の谷間にネオンが沈み、黒煙が月を覆っている。
看板は半分壊れ、文字が読めないまま点滅を繰り返していた。
ジンクは背をフェンスに預け、痙攣する義肢を押さえた。
肉と鉄の境界が疼くたび、呼吸が乱れる。
隣で、エフィが笑った。
「見て、ジンク。あの街……まだ生きてるよ」
ジンクは煙草を咥え、灰を吐き出すように言った。
「俺なんか、もう半分は鉄くずだ」
エフィは彼の義肢に触れ、優しく微笑んだ。
「それでも、私はジンクを人間だと思ってる」
その声だけが、この錆びた都市に残された温もりだった。
⸻
事故と後悔
爆発が街を揺らしたのは、それから数日後のことだった。
スクラップ場近くで起きた小競り合いに巻き込まれ、エフィは瓦礫の下に倒れていた。
片腕を押さえ、血に濡れながらも微笑もうとする。
「ジンク……まだ、大丈夫」
搬送先は、都市の片隅に残された義体工房だった。
ジンクは扉の前で立ち尽くす。
中からは油と焼けた肉の臭いが漏れ出し、吐き気を誘った。
その匂いに、戦場の記憶が蘇る。
──仲間が瓦礫の下で血を吐き、手を伸ばしていた。
「ジンク、頼む……」
だが銃弾が雨のように降る中、彼は踏み出せなかった。
仲間の手は落ち、虚ろな眼が空を見つめたまま閉じた。
救えなかった。見殺しにした。
今度はどうだ?
助けられる。だが、それはエフィを“人間ではなくす”ことでもある。
ジンクは壁に拳を叩きつけ、血をにじませた。
「……俺はまた、間違えるのか」
そのとき、扉の奥からかすかな声が聞こえた。
「……ジンク……」
弱々しくも、確かに自分の名を呼ぶ声。
胸が締めつけられ、ジンクは目を閉じた。
「すまない……」
吐き出したその言葉が、後悔なのか決意なのか、自分でも分からなかった。
⸻
機械化の三段階
第一段階。
エフィは片腕を失い、義肢を取りつけられた。
銀色の指が、ぎこちなく動く。まだ油が乾いておらず、軋む音がする。
「ジンク、見て。動くよ」
笑顔は変わらなかった。
だがジンクは、指先の冷たさに目を逸らした。
かつて握り返した柔らかな温もりは、どこにもなかった。
⸻
第二段階。
肺と心臓が人工臓器に換えられた。
胸に埋め込まれた冷却装置が、小さな唸りを上げている。
息は白く曇らず、脈動は規則正しい電子音になった。
「ジンク……私はまだ、生きてる」
その言葉は真実のはずなのに、耳に残る響きから温度が削がれていく。
鼓動ではなく機械の駆動音に、ジンクは答えを見失った。
⸻
第三段階。
視神経が焼け、片目は義眼となった。
青白い光が淡く点滅し、感情の色を奪っていく。
「……ねえ、ジンク。あなたは、まだ私を人間だと思ってくれる?」
その問いかけに、ジンクは言葉を失った。
思いたかった。思わなければならなかった。
だが喉が動かず、答えは声にならなかった。
⸻
回想:まだ人だった頃
夜市の記憶が、ふと蘇る。
まだ肉体が削がれる前、エフィは温かい手でジンクを引っ張り、明かりの下を歩いていた。
「ジンク、これ美味しいよ」
小さな串焼きを笑顔で差し出す。
頬に油がついていて、ジンクは指で拭い取った。
そのとき彼女は少し照れて、だが嬉しそうに笑った。
──あの手のぬくもり、あの笑顔。
もう二度と戻らない。
⸻
孤独
雨の降る夜、工房の路地裏でジンクは煙草に火をつけた。
煙が肺を焼いても、耳に残るのはあの声だけだった。
ジンク! ジンク? ジンク…。
無邪気に駆け寄ってくるときの弾んだ声。
心配そうに覗き込み、眉を寄せるときの小さな声。
少し悲しいことがあった日に、唇を尖らせながら呼んでくれた声。
どれも確かに人間だった頃のエフィのもの。
笑い声や泣き声と同じように、温かくて柔らかくて、触れられるほど近くにあった。
だが今は、遠い。
冷たい機械の響きに上書きされ、あの声は記憶の奥へと沈んでいく。
胸が裂ける。
戻れないと分かっていても、耳は必死に探してしまう。
もう一度、あの声で呼んでほしい。
「ジンク」と人間の声で呼んでほしい。
⸻
錆の夜に
風が吹き抜け、壊れたフェンスが軋んだ。
かつて二人で座った屋上に、ジンクはひとり立っていた。
背後から足音。
振り返れば、そこにいたのは──かつてエフィだった存在。
体の大半は機械に置き換わり、瞳には冷たい光が走っていた。
「……見て、ジンク。街はまだ光ってる」
声は震えていたが、言葉はあの日と同じ。
「錆びても、崩れても、人は人だよ」
「……やめろ」
掠れ声で、ジンクは言った。
「それ以上、言うな」
彼女は近づき、ジンクの義肢に触れた。
冷たい金属の指先。
「それでも、私はジンクを人間だと思ってる」
胸が痛んだ。
そう言われた瞬間、ジンクは「エフィを人間だ」と思い込みたかった。
だが、眼前の彼女の姿はそれを許さなかった。
義眼の冷たい光、機械の呼吸、金属の指。
人間と思うには、あまりに遠ざかりすぎていた。
それでも──愛しているのは確かだった。
矛盾が胸を裂き、言葉にならない呻きが喉をこじ開けた。
そのとき、耳に蘇ったのはあの声。
ジンク! ジンク? ジンク…。
笑って、覗き込んで、少し泣きそうになって。
どれも人間だった頃のエフィが確かに呼んでいた声。
けれど、ジンクは一度も返せなかった。
その声に応えられなかった後悔だけが、胸に焼き付いていた。
だから今こそ返す。
過去に答えるように、失われていく人間性に縋るように。
「……エフィ」
滅多に呼ばなかったその名が、夜の空に溶けていった。
返事はなかった。
けれど確かに、ジンクの声だけが錆びついた都市に残された。
錆の夜に @sakatsu_dakao
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