値札のない服:藍色の振袖
をはち
値札のない服:藍色の振袖
秋の渋谷、裏通りの石畳に夜露が静かに光る。
街灯の淡い光が冷えた空気を照らし、深夜の静寂の中に「時代屋」の小さな看板がひっそりと佇んでいた。
軋むガラス戸の向こうでは、魂を宿した品々が物語を紡いでいる。
店内は古布の匂いと、古い木の軋みに満ちていた。
遥は今夜も祖母・澄の教えを胸に、カウンターに座って店番をしていた。
彼女の目は、棚に並ぶ新たな品を見つめていた。
深い藍色の絹地に、牡丹の花が咲き誇る振袖。
金糸と紅のぼかしで描かれたその花は、まるで夜空に浮かぶ花火のように鮮やかで、
触れる者を一瞬にして遠い記憶の彼方へと誘うようだった。
「まぁ、こんな品が来る夜もあるわね。」
遥はそう呟き、帳簿に目を落とした。
値札はつけず、品物が自ら旅立つ先を選ぶ。それが「時代屋」の掟だった。
藍色の絆佐藤彩花、20歳。
ショートカットの髪と、透き通った瞳が印象的な女性。
彼女は東京の大学でデザインを学びながら、故郷の小さな町で呉服屋を営む佐藤家の長女として育った。
実家は、祖母・都志江が築いた「佐藤呉服店」。
都志江は若い頃、染物職人として名を馳せ、彼女の手になる着物はどれも魂が宿ったかのように美しかった。
特に、彩花が今、手にしているこの振袖――深い藍色の絹地に牡丹が咲き誇る一枚は、都志江の人生の集大成だった。
彩花は幼い頃、祖母の膝の上でこの振袖の話を聞いた。
「この牡丹はね、彩花、ただの花じゃないのよ。人生の喜びも、悲しみも、全部この花に込めたの。着る人の心を映す鏡のようなものよ。」
都志江の言葉は、幼い彩花には遠い世界の話だったが、今、成人式を目前にした彼女の手の中で、その振袖は確かに重みを帯びていた。
佐藤家には複雑な歴史があった。彩花の母・美和子は、呉服屋を継ぐことを嫌い、都会で会社員として働いていた。
都志江が病に倒れ、店を畳む話が持ち上がると、美和子は渋々実家に戻ってきた。
彩花は、母と祖母の間に流れる微妙な緊張を感じながら育った。
美和子は着物の世界を「古臭い」と切り捨て、都志江はそんな娘に静かな失望を隠さなかった。
ある冬の夜、彩花は祖母の部屋で古い箪笥を開けた。
そこには、藍と牡丹の振袖が静かに眠っていた。
都志江はすでに寝たきりで、言葉も少なくなっていたが、その夜、彼女はかすれた声で囁いた。
「その振袖を、成人式で着ておくれ。私の代わりに、人生を咲かせて。」
彩花は頷いたが、心は揺れていた。
都会の大学で流行のドレスを着て成人式を迎えることを夢見ていた彼女にとって、振袖は美しくも重すぎる存在だった。
成人式の数日前、彩花は母に相談した。
「お母さん、この振袖、着てもいいと思う? なんか、私には似合わない気がして…。」
美和子は一瞬、言葉を失った。
長い沈黙の後、彼女はぽつりと言った。
「その振袖は、母さんが若い頃、着るのを拒んだものよ。」
彩花は驚いて母を見た。美和子は続けた。
「私、母さんの着物の世界が嫌いだった。縛られる気がして。
でもね、あの振袖には、母さんの人生が詰まってる。あの牡丹の花は、母さんが戦後の貧しさの中で、
必死に美しさを追い求めた証なの。私には、それが重すぎただけ。」
その夜、彩花は振袖を広げ、牡丹の花をじっと見つめた。
金糸の輝きは、祖母が夜遅くまで針を動かした時間の重みを、紅のぼかしは、彼女の喜びと涙を映しているようだった。
彩花は気づいた。この振袖は、ただの布ではない。
祖母の愛と、母の葛藤、そして自分自身の未来をつなぐ絆なのだ。
彩花は決心した。
振袖を着る前に、その物語を確かめたかった。
彼女は、母から聞いた噂を頼りに、渋谷の裏通りにある「時代屋」を訪れた。
冷たい夜風が吹く中、ガラス戸を押し開けると、古布と木の匂いが鼻をついた。
店内は薄暗く、棚には古いアクセサリーや道具が並んでいる。
カウンターには、若い女性――遥――が座っていた。
「いらっしゃい。何か用?」
遥の声は静かだが、どこか探るような響きがあった。
彩花はバッグから振袖を取り出し、そっと広げた。
「この振袖…何か特別なものか、知りたいんです。」
遥は振袖を手に取り、藍色の絹地を撫で、牡丹の花をじっと見つめた。
「これは…強い魂が宿ってる。喜びと悲しみ、両方を抱えた品だね。」
彼女は振袖を棚の隅に置き、微笑んだ。
「この店では、品物が自分で旅立つ先を選ぶ。置いておけば、誰かにとっての光になるかもしれない。」
彩花は腑に落ちないまま店を出たが、心はどこか軽くなっていた。
振袖を「時代屋」に預けたことで、祖母の物語が新たな誰かに届く予感がした。
成人式を前に、彩花は一人、自室でスマホの画面を眺めていた。
そこには、都会のブティックで見た華やかなドレスの写真が映っている。
成人式でそんなドレスを着て、友だちと笑い合う自分の姿を想像すると、心が躍った。
窓の外では、冬の冷たい風が木々を揺らし、かすかな音が部屋に響く。
だが、彩花の胸には、祖母・都志江の藍と牡丹の振袖のイメージが、まるで影のように重くのしかかっていた。
彩花は振袖を「時代屋」に預けたとき、ほっとしていた。
店の掟――「品物が自分で旅立つ先を選ぶ」という遥の言葉を信じ、祖母の期待を裏切らずに済むと思ったのだ。
ドレスを着たいという自分の夢を追いながら、振袖の物語を誰かに託せる。
そんな逃げ道を選んだつもりだった。
だが、都志江の言葉が頭から離れない。
「この振袖は、ただの布じゃない。私の人生そのものだよ。」
戦後の厳しい時代、染物職人として美を追い求めた祖母の姿が、彩花の心に浮かぶ。
そのとき、スマホが震えた。
母・美和子からのメッセージだった。
「彩花、すぐ病院に来て。母さんの容態が…急に悪くなった。」
言葉は短く、だが動揺が滲んでいた。
彩花は慌ててコートを掴み、夜の街を駆け抜けた。
病院の病室で、都志江は酸素マスクをつけ、弱々しく息をしていた。
白い壁と機械の音が、彩花の心を締め付ける。
都志江は目を細め、彩花の手を握った。
その指は冷たく、かつて染物を織り上げた力強さは消えていた。
「彩花…」
かすれた声で、都志江が囁く。
「あの振袖…お前に着てほしい。私の…人生の花を、咲かせておくれ。」
彩花の目から涙が溢れた。
祖母の言葉は、彼女の心を突き刺した。
これまで、振袖は祖母の期待や佐藤家の歴史という「重荷」にしか感じられなかった。
ドレスの軽やかな輝きに憧れ、自由を夢見てきた。
でも、今、都志江の命が儚く揺れる姿を前に、彩花は気づいた。
あの振袖は、祖母が貧しさの中で美を追い求め、家族を愛し続けた証なのだ。
それを「時代屋」に預けたままにすることは、祖母の人生を遠ざけることだった。
病室を出た後、彩花は夜の街を歩きながら決意した。
「時代屋」に預けた振袖を取り戻し、成人式で着る。
ドレスはいつでも着られる。
だが、祖母の願いを叶えるのは今しかない。
彼女は美和子に短くメッセージを送った。
「お母さん、振袖着るよ。時代屋に取りに行く。」
朝焼けが空を染める中、彩花は渋谷の裏通りへ向かう準備を始めた。
振袖は、祖母の愛と自分の未来をつなぐ絆だった。
ガラス戸の向こうで、遥が静かに微笑む姿を想像しながら、彩花は家を出た。
成人式当日、彩花は「時代屋」に戻り、振袖を受け取った。
深い藍色が彼女の肌に溶け込み、牡丹の花がまるで生きているかのように揺れた。
会場で、友人たちはドレスやモダンな着物に身を包んでいたが、彩花の振袖はひときわ目を引いた。
それは、流行とは異なる、時を超えた美しさだった。
式の後、彩花は病院の祖母の元へ向かった。
都志江は弱々しい笑みを浮かべ、彩花の手を握った。
「きれいだよ、彩花。まるで…あの牡丹が本物の花になったみたい。」
その言葉に、彩花の目から涙がこぼれた。
祖母の手は冷たかったが、その温もりは彩花の心に深く刻まれた。
数週間後、都志江は静かに息を引き取った。
葬儀の日、美和子は彩花に言った。
「あの振袖、彩花が着てくれて、母さんは幸せだったと思う。私も、ようやく母さんの気持ちがわかったよ。」
彩花はその後、大学でデザインを学びながら、佐藤呉服店を継ぐことを決めた。
彼女は祖母の技術を受け継ぎ、新しい時代に合う着物を創り始めた。
藍と牡丹の振袖は、店の奥に大切に飾られ、佐藤家の物語を静かに語り続けた。
それは、過去と未来をつなぐ、色褪せない花だった。
時代屋の夜翌朝、遥は「時代屋」の棚を眺めた。
そこには、新たな品が現れていた。
古い懐中時計、文字盤に月と星の意匠が刻まれ、かすかな刻音が響いている。
値札はない。
遥は空になった棚を眺め、澄の言葉を反芻した。
「この店は、魂が旅立つための場所なの。」
彼女は懐中時計を手に取り、陳列の準備を始めた。
深夜の「時代屋」は、今夜もまた、彷徨う魂を待ち続ける。
値札のない服:藍色の振袖 をはち @kaginoo8
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