友人-後編
朝食の後、ユグリットはエリオットと共に彼の部屋へと向かった。
穏やかな陽光が宮殿の廊下に差し込み、大理石の床に柔らかな影を落としている。
エリオットは優雅に歩を進め、ユグリットはその後を静かに追っていた。
しかし、ユグリットの足取りは次第に重くなっていく。
昨夜のニルファールの警告が、頭の中で何度も響いていた。
——「あなたは無防備過ぎます。」
——「二人きりの時に、何が起こるか分かりません。」
(……ただ、絵を見せてもらうだけなのに。)
それなのに、胸の奥に微かなざわめきがある。
理性では「大丈夫だ」と言い聞かせながらも、無意識に歩調が遅くなっていた。
そんなユグリットに気づいたのか、エリオットがふと振り返る。
「ユグリット?」
呼びかけられ、ユグリットは一瞬肩を強張らせた。
エリオットは微笑みながら、優雅な仕草で首を傾げる。
「……緊張なさっているのですか?」
ユグリットは思わず息をのんだ。
「絵を見せるだけですよ?」
エリオットは静かに言う。
彼の金色の瞳は、まるで何も知らないかのように穏やかで、微かに愉快そうでもあった。
ユグリットは、はっとして視線を落とす。
(……何を考えているんだ、私は。)
自分がまるで意識しすぎているようで、急に恥ずかしくなった。
昨夜のニルファールの言葉を気にしすぎていたのではないか?
そもそも、エリオットはもう変わったはずなのに。
「……少し、考え事をしていました。」
ユグリットは俯きながら、歩みを速めた。
エリオットは何も言わず、その様子を見守るように微笑んでいた。
ユグリットはエリオットと共に彼の自室へと足を踏み入れた。
静かな室内に漂うのは、わずかに染み込んだ絵具の香りと、淡い茶葉の香り。
今日は、ユグリットの肩に小鳥のニルファールはいない。
誰もこの空間を邪魔する者はいなかった。
二人きり。
その事実を意識した途端、ユグリットの胸がざわつく。
エリオットは落ち着いた足取りで、ユグリットを椅子へと案内した。
「どうぞ、くつろいでください」
優雅な手つきで、トリカロア特産の茶葉を用意する。
「これはリラックスできるお茶ですよ」
エリオットは静かに微笑みながら、茶器に湯を注いだ。
「気持ちを解放する作用があるのです」
ユグリットはその言葉に、一瞬だけ疑問を抱いた。
(気持ちを解放する……?)
だが、差し出された湯気立つ茶を見つめると、その疑念は薄れていく。
ユグリットは素直に受け取り、ゆっくりと口をつけた。
——ふわり、と、穏やかな甘さが舌の上に広がる。
不思議と、緊張が解けるような感覚に包まれた。
続いて、傍らに添えられた砂糖菓子を摘み、ひとつ口にする。
優しい甘さが、じんわりと広がる。
「さて」
エリオットが、ゆっくりとキャンバスをユグリットの見える位置に向けた。
「絵はこうなりましたよ」
その言葉とともに、目の前に現れたのは——
やはり、息を呑むほどに美しい絵だった。
芝生の上に横たわり、本を読んでいるユグリット。
細やかに描かれた柔らかな光、繊細な筆の動き、肌の色彩の絶妙な陰影——
まるで、そこに命が宿っているかのような、圧倒的な筆致だった。
けれど——
(……前に見せてもらった時と、何かが違う?)
ユグリットの目が、その違和感を探る。
以前と違うのは、その筆の使い方だった。
どこか、艶めかしさを感じるような、滑らかで官能的な筆遣い。
光の差し込み方も、まるで肌を優しく撫でるような柔らかさがあり、
唇の描写が僅かに湿度を帯びているようにさえ思えた。
——これは、偶然だろうか?
それとも、エリオットの 意図的なもの なのだろうか?
「いかがでしょう?」
エリオットは微笑んだ。
それは、どこか妖艶な微笑だった。
ユグリットの胸が、不意に早鐘を打つ。
友人同士のはずなのに——
エリオットの笑みに、得体の知れない危うさを感じた。
それなのに——
その雰囲気に飲まれかけている自分がいる。
(……どうして、こんな気持ちになるんだ?)
混乱しながらも、ユグリットはエリオットから目を離せなかった。
エリオットは筆を持ち、穏やかな微笑みを浮かべながら言った。
「この絵は、もう少しで完成するのです。」
ユグリットは、じっとその様子を見つめていた。
エリオットの手元は迷いなく、精密な動きで筆を走らせる。
まるで命を吹き込むように——。
「唇の色をよく見せてください。」
エリオットがふいに言った。
ユグリットは一瞬戸惑う。
エリオットは筆を持ったまま、静かにユグリットの側へと歩み寄る。
顔を覗き込むように近づき、わずかに傾けた視線が唇へと向けられた。
——まるで、今にもキスをするかのように。
ユグリットは息を呑む。
喉が詰まったように、声が出なかった。
けれど、エリオットは何も言わず、ただ観察しているだけだった。
その琥珀色の瞳は、ひどく冷静で、鋭く、どこか楽しげでもあった。
「……。」
ユグリットの動揺を余所に、エリオットは手元のパレットにそっと絵具を乗せた。
慎重に色を混ぜ合わせ、筆先に取り、キャンバスへと静かに塗り伸ばしていく。
「……さぁ、これで完成ですよ。」
振り返ったエリオットは、満足げに微笑んだ。
その微笑みは、どこか妖艶で——まるでユグリットの反応を確かめるようなものだった。
ユグリットは自分の唇を押さえる。
(……私は、何を期待していた?)
エリオットが自分に触れること? それとも——。
思考がぐるぐると巡る。
その隙を、エリオットは見逃さなかった。
「……気持ちを解放する作用が働いたのですね。」
低く囁く声が、ユグリットの耳をくすぐる。
穏やかでありながら、どこか誘うような響きを持っていた。
「素直になって良いのですよ。」
エリオットの指先が、優雅にキャンバスの端をなぞる。
ユグリットは、無意識に視線を向けた。
そこに描かれていたのは、自分——。
しかし、それはただの肖像ではなかった。
芝生に横たわるユグリットは、純真と官能を纏っていた。
淡い光の中で肌が滑らかに輝き、視線はどこか遠く、けれど誘惑するような曖昧さを孕んでいた。
——閉じ込められたような感覚。
この絵の中のユグリットは、 エリオットに囚われている。
それなのに、それを拒絶する気持ちよりも、 抗えない魅力に絡め取られる感覚の方が強かった。
「……。」
ユグリットの指が、無意識に膝の上で握りしめられる。
エリオットは、そんな彼をじっと見つめ、わずかに口元を綻ばせた。
まるで、罠がかかったことを確信しているかのように。
エリオットの笑みにユグリットの全身が硬直した。
拒絶することも、身を引くこともできない。
(……私は、エリオットのことを友人だと信じている。)
そう自分に言い聞かせた。
けれど、目の前にいるエリオットの瞳がすべてを揺さぶる。
金色の瞳が、静かにユグリットを捕らえていた。
アラゴスの視線とは違う。
支配するのではなく、絡みつくような甘い誘惑。
それは、じわじわと肌に絡みつくようで、逃れようとする意識すらも蕩けさせる。
鋭い眼差しでなく、ただ優雅に、静かに。
なのに、まるで衣越しにその指が触れているような錯覚を覚えた。
(……いやだ、こんなふうに。)
けれど、エリオットは何も強いてこない。
ただ、美しく微笑みながら、こちらを見つめている。
「素直になって良いのですよ。」
その囁きが、頭の中に蘇った。
ユグリットは喉を鳴らし、荒ぶる鼓動を押し殺すように唇を噛んだ。
熱い。
身体の奥底がじんわりと火照っている。
自分は何を期待しているのか?
どうして、拒むことさえできないのか?
「……っ」
ユグリットの指が、そっと衣の紐へと伸びた。
ほんの少し力を込めれば、するりと解けてしまう。
エリオットの視線が、全てを見透かしているようで、抗うことができなかった。
ユグリットの指が、ゆっくりと衣の紐にかかった。
エリオットの微笑みは優雅で、静かに彼を誘っていた。
けれど、その瞬間——
——「あなたを狙っていた男性ですよ」
ニルファールの警告が、鋭く脳裏に響いた。
ユグリットの手がぴたりと止まる。
心臓が冷たい手で掴まれたような感覚に襲われた。
(……私は、今何をしようとした?)
青ざめた顔のまま、ユグリットは震える声で言った。
「……私達は、友人だ。だから、こんなことは……」
エリオットは静かに彼を見つめていた。
その金色の瞳には、どこか愉悦の色が滲んでいる。
「えぇ、確かに。だけど、本当にそう思っていますか?」
穏やかで優雅な声で、エリオットは問いかけた。
まるでユグリットの心の奥底を覗き込むような口調だった。
ユグリットはかぶりを振った。
「こんな風になったのは……あのお茶のせいだ……!」
絞り出すように言ったユグリットに、エリオットは小さく笑った。
「貴方の緊張を解きほぐしたくて、そう言っただけですよ。」
「……え?」
「あれは、ただのハーブティーです。」
——瞬間、ユグリットの頭の中が真っ白になった。
足元が揺らぐような感覚。
自分はエリオットの策略にかかっていた?
いや、それとも——最初から……?
ユグリットは、自分が信じていた「理性」が、音を立てて崩れていくのを感じた。
ユグリットは呆然としていた。
気持ちを解放したのは、お茶の効果ではなく、自らの本心——。
その事実が胸に突き刺さる。
(……そんなはずはない。)
けれど、心のどこかで分かっていた。
エリオットの優雅な仕草に惹かれたこと。
彼の描く絵に心を奪われたこと。
その視線に、胸が高鳴ったこと——。
「私には、アラゴス王の記憶が眠っています。」
エリオットの静かな声が、まるで囁くように部屋に響いた。
ユグリットはゆっくりと視線を上げる。
エリオットは、まっすぐに彼を見つめていた。
「アラゴス王の剣に触れたとき、全てを思い出しました。」
「ルキウス——貴方を愛し、そして自らの手で失った記憶を。」
エリオットの金色の瞳が、揺らぐことなくユグリットを射抜いていた。
「ユグリット、今度こそ貴方を失いたくない。」
「貴方を永遠に、私のものにしたいのです。」
低く甘やかな声が、ユグリットの耳に絡みつく。
(……私のものに?)
その言葉の意味を理解する前に、エリオットは一歩踏み出していた。
「貴方があの小鳥——ニルファールをまた愛するのなら、私はどんな手を使っても貴方を愛しましょう。」
ユグリットの心臓が、強く跳ねた。
(……ニルファール。)
半神の姿の彼が、自分の頬に触れながら囁いた言葉が脳裏をよぎる。
——「私は心配です、ユグリット。」
けれど、その記憶は遠く霞んでいく。
目の前のエリオットの存在が、あまりにも濃密で——。
エリオットが、そっと顔を近づける。
ユグリットは動けなかった。
(……止めなければ。)
そう思っているのに、身体は硬直し、声も出ない。
唇が触れる。
それは、優しく、けれど逃げられないほどに甘やかな口づけだった。
ユグリットの背筋が震えた。
力を込めれば振り払えるはずなのに、そうすることができない。
エリオットの手が、そっとユグリットの頬を包む。
(……拒絶できない。)
頭の中で警鐘が鳴っているのに、ユグリットの身体はその熱に絡め取られていく——。
甘く、熱を帯びた口づけ——
逃れようとすれば、より深く絡め取られるような錯覚に陥る。
心の奥底で警鐘が鳴る。
けれど、エリオットの指が頬を撫で、まるで囚われた蝶を愛撫するかのように、ユグリットの首筋をそっと指でなぞる。
ぞくり、と背筋が粟立った。
このままでは、溺れてしまう——。
ユグリットは唇の隙間からかすかに息を漏らし、かろうじて言葉を紡いだ。
「……だめだ……これ以上は……」
必死に抗うように、けれどその声は震えていた。
エリオットは唇をゆっくりと離し、ほんの少しだけユグリットの瞳を覗き込んだ。
囁くように、耳元にそっと吐息をかけながら言う。
「愛し合う者同士の触れ合いに、今更止めることなんてできませんよ?」
その声音は、どこまでも甘く、絡みつくようで——
ユグリットは息を詰まらせた。
体温がじわりと上がる。
(……逃げないと。)
頭では分かっているのに、心が抗えない。
エリオットの手がユグリットの胸を撫でたその瞬間——
ユグリットの脳裏に、ラーレとニルファールの姿が蘇った。
——ラーレの、まっすぐで純粋な愛。
——ニルファールの、包み込むような深い愛。
彼らが与えてくれた、温かく、優しい愛が浮かび上がる。
(……私は、一体何をしている?)
ユグリットの瞳が揺らぐ。
自分の中で、愛の意味が揺らいでいた。
「……いやだ、エリオット……やめて……!」
ユグリットは必死に声を上げた。
しかし、エリオットは止まらない。
彼の指先は、まるでユグリットの体温を確かめるように滑り、触れるたびにじわりと熱が滲む。
拒絶しようとする心とは裏腹に、体は抗えない錯覚に囚われていた。
(だめだ……こんなの……)
胸の奥で必死に否定しようとするのに、エリオットの囁くような甘い吐息が耳をかすめるたび、思考が曖昧になっていく。
「……ユグリット、貴方は本当に、これは“いや”なのですか?」
囁く声は、優しくも冷ややかだった。
まるでユグリット自身の心の迷いを見透かしているかのように——。
「違う……違う……!」
ユグリットは震える声でかすれた言葉を吐き出した。
だが、エリオットの瞳に映るのは、静かな確信。
「……どうして、そんな顔を?」
エリオットは微笑みながら、ユグリットの顔を覗き込んだ。
「拒絶の言葉を口にしながら……貴方の目は、逃げようとしていませんよ?」
「……!」
ユグリットは息を詰まらせた。
本当にそうなのか? 自分は……エリオットを拒絶しきれていないのか?
——違う。
ユグリットはかぶりを振った。
(こんなの、愛じゃない……!)
「エリオット……私を愛しているのなら……やめてほしい……」
掠れた声が、静寂の中に落ちる。
ユグリットは震えながら、エリオットの背中にそっと手を回した。
「お願い……」
エリオットは微かに瞳を揺らした。
「……言うことを聞くから……だから……」
ユグリットの細い腕が、エリオットの背に絡む。
拒絶ではなく、懇願のように。
エリオットの指先が、ふと動きを止める。
静寂が訪れる——
長い沈黙の後、エリオットは低く息を吐いた。
「……貴方は、ずるいですね、ユグリット。」
小さく笑いながら、ゆっくりとユグリットの肩から手を離す。
「そんな風に、私の名を呼ばれてしまったら……どうして、貴方を傷つけることなどできるでしょう。」
エリオットの声は、微かに掠れていた。
エリオットは静かにユグリットから身を引いた。
その瞬間、ユグリットはまるで拘束が解かれたかのように、小さく息をつく。
自分の乱れた宮廷衣を手早く整えながら、逸る鼓動を抑えようとするが、なかなかうまくいかない。
部屋の中には気まずい沈黙が流れていた。
ユグリットは何か言わなくてはと思いながらも、何を言えばいいのか分からず、ただ俯く。
そんな彼を見つめながら、エリオットは穏やかに微笑んだ。
「喉が渇いたでしょう?」
そう言いながら、先ほど出したお茶の入ったカップをユグリットの前に差し出す。
ユグリットは一瞬戸惑い、カップを見つめた。
(……飲んでも、大丈夫だろうか?)
そんな疑念が浮かぶが、それを察したかのように、エリオットは肩をすくめて微笑む。
「安心してください。何も入っていませんよ。」
冗談めかした口調だったが、彼の瞳はどこまでも深く、ユグリットを見透かしているようだった。
その視線に射すくめられたユグリットは、無意識のうちにカップを手に取り、ゆっくりと喉を潤した。
けれど、胸のつかえは取れなかった。
気まずい時間が流れる。
友人として絵を見に来ただけだったはずなのに——
こんなことになってしまった。
そして何より、ユグリットは 自分の本心 を知ってしまった。
カップの水面に映る自分の顔を見つめる。
(……私は、ラーレとニルファールを愛しながらも……エリオットの愛にも、揺らいでいる……?)
思い出すのは、さっきの出来事。
——「愛しているのなら、やめてほしい。」
ユグリットが震えながらそう言ったとき、エリオットの手は止まった。
そのことに、ユグリットの心は強く反応してしまったのだ。
もしもエリオットが支配を止めなかったら、それではっきりと拒絶できたのに。
それなのに、彼がユグリットの言葉に応じたことで、心の奥底に 「エリオットが変わるかもしれない」 という希望が生まれてしまった。
(私は……どうしたらいい……?)
胸が締め付けられるように苦しくなる。
涙が溢れそうになり、ユグリットは慌てて瞬きをした。
今ここで泣いてはいけない。
でも、このどうしようもない感情をどうしたらいいのか、ユグリットには分からなかった。
対面するエリオットは、まるで何もなかったかのように、穏やかに微笑んでいた。
まるで、ユグリットが答えを出すのを待っているかのように——。
Echoesー記憶の輪廻ー 鳥内このみ @nanamikotone
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。Echoesー記憶の輪廻ーの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます