判事と『いくら丼』と小さな日常 ―「法廷にはコーヒーとプリンを」番外編 ―
三毛猫丸たま
判事と『いくら丼』と小さな日常
判事と『いくら丼』と小さな日常
花霞地方裁判所・桜都支部。
午前の審理を終え、法子は黒法服を椅子に投げかけた。。
「ふぃ〜。今日の証人尋問、胃がキリキリするくらい重かったね☆」
「判事、また裾を丸めて置きっぱなしにして……司法の威厳が泣いておりますわ!」
書記官・東條菊乃が慌てて法服を整える。
だが当の本人は気にする様子もなく、机に広げられた昼食メニューを指さした。。
「おキクさんっ! 本日の日替わりは――いくら丼!」
「い、いくら丼、でございますの?」
菊乃が目を丸くする間に、法子はさっさと立ち上がった。
「そう! 宝石みたいなオレンジの粒が白米の上にずらり。判決文よりキラキラしてるよ☆」
「判事っ! 判決文を食べ物と比較するなど……不謹慎極まりませんわ!」
しかし法子は返事など一切しない。
その代わりに――おキクさんの手を、がしっと掴んだ。
「ひゃっ!? は、判事っ!? な、なにを――!」
次の瞬間、二人は執務室を飛び出していた。
「これは行くしかない! れっつひなた食堂〜!」
法子の軽やかな足取りに引きずられ、菊乃のハイヒールが悲鳴を上げる。
「お待ちなさいませっ! 手を引っぱられては転んでしまいますわっ!」
「転んだら、そのときは労災申請だよ☆」
「そんな申請いやですわぁぁっ!」
廊下を全力疾走する判事と書記官。
地下の「ひなた食堂」。
肩で息をする菊乃。
胸の前でハンカチをぱたぱた扇ぎながら、ようやく顔を上げた。
そして、入口の看板を見てぽつりとつぶやく。
「地下にございますのに“ひなた”とは……皮肉な名でございますわね」
白いカウンターには、“本日の日替わり:いくら丼”の札。
庶民的な空間に似つかわしくないほど、法子の目は輝いていた。
「出たな……真の主役! 昼食界のラスボス、いくら丼!」
「判事、いくら丼を敵キャラ扱いなさらないでくださいませ!」
法子は、券売機で迷わず「大盛り」を押した。
「おキクさんも一緒にいこうよ。いくらの海に沈むのだっ!」
「そ、そんな物騒な……。わたくしは普通盛りで十分でございます」
配膳された瞬間、法子は歓声を上げた。
「見よっ! 大海原に煌めく宝石たち! まさに所有権の境界線だっ!」
お盆の上には、いくらがぎっしり盛られた丼。
鮮やかな朱が光を受けてきらめき、食堂の蛍光灯さえ舞台照明のように見えた。
「あわわわわ……い、いくら丼が所有権に――!?」
菊乃は隣であわてふためいた。
(まさか、この丼にまで法律を持ち出すなんて……っ!)
彼女の頬がじわりと赤く染まる。
周囲の客たちが肩を震わせているのを見て、胃の奥がひやりと冷たくなった。
(お願いですから……皆さまの前で、もう少しご威厳を……!)
だが法子の暴走は止まらない。
「米が土地、いくらは権利! 一粒外に転がれば境界争い、二粒なら紛争、三粒で裁判フルコース☆ 最高裁まで行っちゃうよ~っ!」
盆の中にこぼれ落ちたいくらを、法子がわざと指で弾く。
赤い粒がくるくる転がるのを見て、菊乃は頭を抱えた。
その動作は、あたかも境界標石をズラす悪質な地主の再現のようだった。
(やめてくださいませっ……境界標石の移動など、冗談でも縁起が悪うございますわ!)
「ほら見て、おキクさん! 半分潰れたいくら、これは共有持分! 分割協議開始だー!」
「食堂で協議を始めないでくださいましっ!」
声を張り上げた瞬間、頬の熱がさらに増す。
(わたくしまで、一緒にふざけているように聞こえてしまいますわ……!)
「じゃあこの粒は……越境建築物! 隣の白米に勝手に乗り上げてる!」
「判事っ、建築基準法をいくら丼に適用しないでくださいませっ!」
もはや止められない。
(……どうかご容赦を。わたくしは真剣なのです……!)
食堂内に笑いが広がるその中心で、彼女のため息は小さくかき消されていった。
やがて菊乃のいくら丼からあふれた一粒を、法子がぱくりと口に入れる。
「証拠物件、押収完了☆」
「それを押収とは申さないのですわ! ただのつまみ食いでございます!」
声を張り上げた瞬間、頬の熱がさらに増す。
(ああ……わたくしは、また振り回されておりますわ……)
嵐のような一人舞台が終幕を迎えた後、法子は大盛りいくら丼をぺろりと平らげた。
「いやぁ〜、まるで境界確定訴訟を三件くらい片づけた気分だね☆」
「食べただけでございますわっ!」
菊乃の声に法子は少しだけ真顔になり、うなずいた。
「そうだね。裁判所ってさ、毎日いろんな人の人生がぶつかる場所だから。だからこそ、こういう時間も大切だと思うんだ」
二人の間に、しばしの沈黙。
菊乃は、穏やかな笑みを浮かべて頷く。
食後のコーヒーを一口飲んだ法子は、にっと笑った。
「ここのコーヒーおいしいんだよね……」
「ええ、食後の一杯は落ち着きを与えてくださいますわ」
二人は、顔を見合わせて柔らかく微笑む。
「やっぱり裁判所には、コーヒーとプリンと……そしていくら丼っ!」
菊乃は深くため息をつき、小さく笑みを浮かべた。
「判事、それはただの“献立表”でございますわ」
法子はおどけた表情で言葉を返す。
「次の法改正にはいるかな?」
「入りませんっ!」
ふっと笑いが広がり、食堂の空気はやさしく揺れた。
――小さな丼ひとつが、裁判所の地下を今日も明るく照らした。
(番外編おわり)
本件の解説は、近況ノートに掲載してます。
📒https://kakuyomu.jp/users/298shizutama/news/7667601419970338935
判事と『いくら丼』と小さな日常 ―「法廷にはコーヒーとプリンを」番外編 ― 三毛猫丸たま @298shizutama
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