「エマ」
もち
「エマ」って誰?
初夏の陽がまだ強い午後、マーガレットは父と弟に手伝ってもらいながら、新しい家に荷物を運び入れていた。長年のアパート暮らしを終え、郊外の二階建てに移り住む。空気はまだ乾いていて、家じゅうが木の匂いで満ちている。
「お、これは懐かしいな」
ダンボールを開けていた父が、黄ばんだフランス語の参考書とスケッチブックを取り出した。
「覚えてるか? お前、高校のころ『パリでデザイナーになる』なんて言ってたよな」
マーガレットは苦笑して受け取る。
「そんなこともあったわね。もう昔の話よ」
「諦めたのか?」
「才能がないって、早めに気づけてよかったわ」
さらりと言って箱を閉じる。胸の奥に、小さな鈍い痛みが残った。
そのころ六歳の娘エリーは、二階の子ども部屋で新しい空間を探検していた。屋根裏を改装したその部屋は、天井が低く、淡いピンクの壁紙がわずかに色あせている。窓からの光が柔らかく差し込み、日当たりは申し分なかった。
部屋の隅に、やけに背の高い姿見が立てかけられている。銀色のフレームはくすみ、どこか冷たい輝きを放っていた。前の住人が置いていったものらしい。
「エリー?」
マーガレットが声をかけると、娘は鏡の前でじっと立っていた。
小さな背中が、空気ごと固まっているように動かない。ピンクのワンピースの肩越しに、同じ色のリボンで二つに縛ったうす茶の髪が光を帯びて揺れもせず、ただ真っすぐ鏡へと向かっている。
「どうしたの?」
エリーは答えず、ひたすら姿見の中の自身を凝視しているように見えた。
鏡面に昼光が冷たく跳ねる。部屋は静まり返り、外の木々を渡る風の音だけがかすかに届く。
エリーの頭がゆっくり傾き、まるで誰かと密やかに耳を寄せ合うようだった。
鏡の中のエリーは、まっすぐこちらを見返していた。――そう、マーガレットを見ていたのだ。
「……え?」
普通に考えて、本人と映り込みは目が合ってないとおかしい。マーガレットの呼吸が止まる。
「まさか、そんなはずない」
瞬きをしてもう一度見ると、ただの映り込みがそこにあった。
**
数日後の夕食時、エリーが唐突に言った。
「ママ、友達ができたの」
「へえ、学校の子?」
「ううん。部屋の鏡の中にいる子! エマっていうの!」
マーガレットは笑みを浮かべながらも、あの日の違和感がよみがえり、背筋が凍った。
「……あら、そう。よかったわね」
それからというもの、エリーは学校から帰るとまっすぐ子ども部屋に向かい、鏡の前で楽しげに何かを話す時間が増えていった。
おそらく、「エマ」と話しているのだろう。
そんな不健康な遊びはやめて、外で遊んでほしい――そう願いながらも、頭ごなしに叱るのも良くないと、マーガレットはしばらく静観した。
夕食の席。エリーがフォークにパスタを巻き付けながらまた話を切り出した。
「エマはね、体が弱くて学校に行けないんだって。だから寂しいんだって」
六歳の子どもの想像にしては妙に具体的だ。マーガレットはスプーンを持つ手に力が入る。しかし、娘には平静を装う。
「そう……かわいそうね」
母の笑顔にエリーも、にこりと笑った。
「エマのママはね、グレタっていうんだよ。有名なデザイナーなんだって。忙しくてあんまり帰れないみたい」
マーガレットの心臓が跳ねた。
――「グレタ」は、学生時代にパリ留学を夢見て使っていた自分のSNSアカウント名だったからだ。
「グレタはね、パリで勉強したんだって!」
無邪気な声が突き刺さる。
高校時代、マーガレットもデザイナーを夢見ていた。しかし現実は厳しかった。経済的事情でパリ留学を諦め、デザイン会社のアシスタントになったが、後輩たちの才能に打ちのめされた。……そのことをエリーが知るはずがない。
「……そうなの」
マーガレットは震える唇を必死に押さえた。
⸻
その夜。家中が静まり返ったころ、マーガレットは化粧台でスキンケアをしながら考えていた。
――エリーには悪いけど、あの鏡は捨てよう。思い切って処分すれば、すべて終わるはずだ。
ふと、化粧鏡の中の自分が、ほんのわずかに笑った。口元が、意識より早く動いたのだ。
「……え?」
心臓が高鳴る。鏡の中の「自分」が、ゆっくり唇を開いた。耳元で囁くような声が、確かに響く。
――ねえ、どうして諦めたの?
マーガレットは息を呑み、振り向いた。背後には誰もいない。
ただ、鏡の中の自分だけが、笑みをたたえたまま動かないでいた。
「エマ」 もち @kitty0118
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