第12話「一人静」

 やがて、時間が経つに従って、ゆっくりと「本来の視界」が戻ってきた。

 毎日のように、見ていた天井……

 どうやら、僕はまだ自室の畳で仰向けになっているらしい。

 何か、重たい物が身体の上に乗っている。

 視線を下に移すと、静がうつ伏せになって僕の身体に覆いかぶさっている。

 まだ気を失っているようだ。

 華奢な体つきの静でも、脱力した人間は、これほど重量を感じる物なのだろうか。

 ふと誰かの気配を感じて、今度は左へ視線を移すと、うっすらと半透明の人影が床に立っていた。

 制服を着た少女だ。

 寂しげな、それでいて穏やかな表情で僕を見つめている……


(アリガトウ……)


 なぜ、お礼なんて言うのだろうか。

 僕のおかげで「あいつ」に仕返しが出来たからなのだろうか……

 それとも、一緒に江ノ島に行けたからなのだろうか……


 そんなことは……感謝されるようなことじゃないのに……

 それよりも、僕はクロエに謝りたい。

 意気地がなくてごめん……

 もっと早く君と知り合えなくてごめん、君と話が出来なくてごめん……と

 そうすれば、きっと何かしら力になってあげられたかもしれないのに……

 そして、ありがとう。

 今、君が助けてくれたお陰で、僕は助かった。

 あのままだったら、きっと今頃は、この畳の上で窒息死していたに違いないんだ。

 本当にありがとう……


 白い影は陽炎のように揺らめきながら、徐々に輪郭を崩し、薄らいで行った。


 クロエ・ブーケ。


 予備校に通う毎週火曜日と木曜日、帰りの電車の中だけで会うことができた、名前も知らなかった女の子。

 江ノ島で過ごしたあの数時間だけは「彼女」になってくれたのかもしれない、かつて僕が恋した女の子。

 彼女の存在は、間違いなくあの頃の僕が生きる世界の中心であり、唯一にして最大の喜びだった。

 しかし、それはある日唐突に消滅した。

 彼女に恋していた事も、その存在が消滅したことも、全てを忘れ去ってしまい、僕に残されたのは空虚な生活だけとなった。

 ようやく今、こんな形だけれど、僕は彼女にさよならを言うことが出来る。

 涙が目尻から溢れそうになった。

 それをやっとのことで堪えながら、今正に消えつつある彼女に向かって、僕は言った。


(さよなら……クロエ……そして、ありがとう……)


 同時に、僕の上に乗った静の身体がそろりと動くのを感じた。

「せん……ぱい……?」

 静は、僕の胸に沈めていた顔を、けだるそうに上げ、僕らは、間近に顔を向かい合わせた。

 いまだ朦朧とした意識の中で、彼女の肩にそっと手を添える。

「わたし……どうなったんですか? ここ……どこですか?」

 やはり、これまでの記憶が曖昧なのだろう。クロエに憑依され、自覚の無いままに僕を追いかけて、ここまで辿りついたのだ。

 何と答えようかと言葉を選んでいる間に、開け放したままになっていた入り口のドアの向こう側から、階段を派手に駆け昇ってくる数人の足音が、ドタドタと聞こえてきた。

 すぐに、見慣れた人物達の姿が視界に飛び込んできた。

「ああ! ヒロ君、どうしたの?」

 室内に飛び込んだ途端、素っ頓狂な声で叫んだのは、ユリさんだった。

「何、やだっ! ちょっと……! 何やってんのよお!」

 続いて、その後からやって来た佳子が、悲鳴のような大声を出した。さらにその背後には、一平太の姿も見える。

「ああ……ユリさん……カコ……大丈夫ですよ……多分……」

「大丈夫って、全然大丈夫そうじゃないわよ! 一体何が起こったの? 何でそんなことになってるのよ!」

 ユリさんは、まるで女教師が生徒を叱りつけるような口調になっている。

「ていうか、ヒロ。その子誰だよ」

 しかし、ひとり一平太だけが、至極冷静な表情だ。

「ああ、紹介します。この子が智恵静ちゃん。れっきとした日本の高校に通う、高校一年生で、もちろん生きた人間です」

 僕は、仰向けになったままそう説明をしたが、ユリさんたちは困惑した表情のまま口をつぐんでしまった。考えてみれば、僕と静は、まるで恋人が抱き合うような体勢で床に寝ているのだ。ユリさんと佳子が反応に困ったのは至極全うなのだ。

 静は、ようやくノソノソと身体を起こすと、僕の傍に座り直した。ユリさんたちに向かって丁寧にお辞儀をしながら、

「はじめまして。智恵と申します」

 と気だるそうな声で挨拶をした。

「ええ……と、あ~はじめまして。あたしは楠木由利ね。こっちはあたしの従兄弟の一平太。で、この子はヒロ君の従姉妹の館嶋佳子ちゃん」

 ユリさんは口調こそ落ち着いていたが、明らかに戸惑っていた。静は髪の色も顔立ちも全くの外国人で、しかもとんでもない美少女ときている。初めて見たら驚かない方がおかしい。

「でも、ユリさんたち、何でここに来たんですか?」

「何でも何も無いわよ~ この二人を車に乗せて、あたしの部屋に向かってた所だったんだけど、急に凄い悪寒がしたのよ。で、どういう訳かあなたが心配になったから、急いでここに駆けつけたんじゃない」

「そうだったんですか……有難うございます」

「で、さっきと同じこと聞くけど、何があったの? 本当に大丈夫なの?」

「ユリさんは、どう思いますか? 今この部屋って、霊的に嫌な感じがしますか?」

「う~ん……霊的にね~」

 ユリさんは、眉をひそめた表情のまま、部屋の中をしばらく見回した。

「そうね、別に何も無いみたい。さっきまでの悪寒が嘘みたいに無くなってる」

「やっぱり、もう終わったんですね。多分僕らは大丈夫です。何があったのかを説明すると、凄く長くなりそうなんですけど……」

「ユリねえちゃん、だったら今からここで飯食おうぜ。腹減っちまったよ。ヒロの話聞くのは、その後でいいだろ」

 一平太は、心なしか不機嫌そうだ。その理由は容易に想像できる。恐らく、心霊現象が起こっている現場を目撃出来なかった事が不満なのだろう。

「え? ここで食事? みんなで? 待てよ、ペータ。この部屋に、食べ物なんてろくに無いぞ」

「大丈夫よヒロ君。鎌倉で買い物して、あたしの部屋で怪談パーティーしようと思ってた所だったの。外に止めてある車に食べ物を一杯積んでるのよ」

 車とは七十四年型のフェアレディZ、四人乗りタイプのことだろう。ユリさん自慢の愛車だ。

「あ、それじゃこの子も一緒でいいですか? どう、静。お腹が空いてるんじゃない?」

「私も……ですか? いいんですか?」

 静は、か細い声で遠慮がちに答えた。

 僕と静のやりとりを見て、佳子が口を挟んだ。

「何よ、ヒロ~! 呼び捨てにしたりして、この子ってあなたの彼女~? こんな可愛い子が? ちょっと、信じられないんだけど~!」

 「彼女」という言葉を使われて、血が頭に昇った。静に関して、そういう発想をしたのは初めてだったからだ。

「い、いや……そういう訳じゃないんだ。それも説明すると長くなるんだけど……」

「まあまあ、佳子ちゃん。そういうことも含めて、食事の後でたっぷり聞かせてもらいましょ。ヒロ君、さっさと立ち上がってね。直ぐにパーティーの支度しましょ」


☆             ☆


 こうして、なし崩し的に奇妙なパーティーが僕の部屋で始まった。

 みんなは、初対面の静に対しても温かく接してくれた。感情の読み取りにくい静だが、彼女なりに楽しい時間を過ごすことができているように見えた。また、これは僕にとっても久しぶりに充実したひとときだった。ここの所、随分と酷い出来事ばかりが続いていたから尚更だった。

 みんなが満腹になった後で、僕は今回の事件の経緯を全て話した。みんなは驚きを持ってそれを受け止めていたようだった。特に「怪談コレクション」に貴重な一話が加わった一平太は、これでもかと興奮していた。しかし、奴としては怪異の現場に居合わせられなかったことを、尚更口惜しく思ったことだろう。

 なんだかんだで、パーティーがお開きになったのは夜の十時を回った後の事だった。

 ユリさんと佳子と一平太は車に乗り込んで、突発的に夜の湘南へドライブに行くことになった。一方、静は帰宅するというので、僕がモノレールの駅まで送っていくことになった。

「ヒロ君。静ちゃんをしっかり送っていくのよ。変なホテルに連れ込んじゃ駄目よ。まだ、君は高校生なんだからさ」

 ユリさんは、別れ際にそんなことをいたずらっぽく言った。三人でのドライブは気まぐれな思いつきでもあるのだろうが、きっと僕に余計な気を効かせたつもりなのだ。こういう物言いを彼女がする時は、逆に「ホテルに連れ込んでしまえ」とけしかけているのだ。僕にそんな度胸があるはずが無いと知っていながら。

 派手にエンジンを吹かせて走り去っていくフェアレディを見送った後、残された僕と静は「湘南深沢」駅までの道のりを歩き始めた。

 外灯の無い暗い小道をくねりながら歩いて行くと、すぐに新川に突き当たった。その後は、川沿いに北へと進んでいけば駅へと辿りつくのだ。僕にとっては、毎日飽きるほど歩き続けた通学路だ。

 清風荘を出てから、静はずっと無言のままだった。

 そのまま会話が無いのも気まずいので、何かを話しかけようと思った。

 しかし、いざ口を開こうとしても、何一つ言葉が思い浮かばなかった。

 思えばこの六日間、僕と静は濃密に、しかも極めて特殊な形で関わったのだ。それは間違いないだろう。

 しかし同時に、僕は未だに彼女とは何一つ関係性を持っていない、「通りすがりの他人」に等しい。

 こんな形で、その事実を突きつけられて、無性に胸がきしんだ。

 やがて、道の右手に小学校が見えてきた。フェンスの奥に見える校舎の窓灯りが、誰もいない校庭をおぼろに浮かび上がらせている。

「そうだ、確か君と初めて会ったのは、この道の途中だったね」

 結局、やっと思いついたのは、そんな益体も無い言葉だけだった。

「そうだったんですか……良く覚えてないんです。ごめんなさい……」

 静は、少し顔をそむけてから、消え入りそうな声で答えた。

「そう……なんだ」

「特に、この数日間は……クロエが私の中にいることが多くて、何が現実だったのか、実際に何が起こったのかが曖昧で……良く判っていないんです」

「そう……なんだ」

「さっき、先輩がみなさんに話したことを聞いて、私も驚きました。そんなことが起こっていたのかって…… ごめんなさい、色々と驚かせてしまって……」

 静の言葉はそこで途絶えた。

 そして、再び僕らの間には重い沈黙が横たわる。

 僕が彼女に話しかけたばかりに、さらに空気を気まずくさせてしまった。自分の会話能力の無さが、つくづく情けなくなった。

「いや、謝ることなんてないよ。君といられて僕は楽しかったんだから」

「そうですね……でも、一緒にお鍋を食べたことは覚えてます。美味しかったです。私、忘れません」

「うん、僕も忘れないよ……」

「一緒に、中央公園に行った事も、水槽を眺めたことも、江ノ島に行った事も覚えてます。それも忘れません」

「うん、そうだね……それに……」

 そこから先は、胸に何かがつかえて、言葉が続かなかった。

 静も何も言わなかったので、再度会話は途切れてしまった。

 しばらくすると、照明で明るく浮かび上がった駅の入り口が、夜道の行く手に見えてきた。

 何かを話さなければ、彼女の傍にいられる、この時間が無為のまま終わってしまう。

 僕には彼女にかけるべき言葉が、きっと他にもあるはずなのだ。そんな思いに急き立てられているのに、尚更言葉が見つからなくなってしまった。

「あの……お願いがあるんですけど」

「え?」

「手をつないでくれませんか?」

 唐突に、静の方からそんなことを言いだした。

 もちろん驚いたし、正直な所、狼狽もした。

 しかし、不思議と僕の中に躊躇は生まれなかった。

 それに言葉で答えることはせず、心ともなく右手で静の手を取った。

 何故か、それがとても自然な事だと思えた。

 僕の手の平が包み込んだ静の手は華奢で、体温は僅かに低かった。きっと三十五度位だろうか……手の平で温度を正確に測れる特技が、こんな形で機能するとは思わなかった。

「ありがとうございます」

 歩きながら静はそんなことを口にしたが、僕はそれにも答えられなかった。彼女からお礼を言われることも、僕が「どういたしまして」と言うことも、何かが違うと思ったからだ。

 間もなく「湘南深沢」駅の階段の真下に僕らは辿りついた。結局、静と手をつないでいたのは、ほんの僅かな時間に過ぎなかった。

「ここで大丈夫です」

 静は僕に正面から向かい直ると、丁寧に頭を下げた。

「本当に、色々と有難うございました」

「いや、そんなお礼を言われるようなことはしてないし……」

「私、館嶋先輩に会えて良かったです」

 目を少し伏せたままでそう言ってから、静は再度、深く頭を下げた。

「さようなら……」

 その言葉を最後に、静は背を向けると、駅のホームへの階段を昇って行ってしまった。

 僕の方は、彼女の後姿が見えなくなるのを見届けてから、駅の改札口に背を向けた。

 そのまま、来た道をそっくり引き返して、新川沿いの薄暗い道をポツポツと歩き続ける。

 どういう訳か、僕の思考は一切停止してしまっていた。

 時折聞こえてくる車の音も、目の前を横切る通行人の姿も、無感情に身体をすり抜けていくばかりだった。

 しかし、再び小学校に差し掛かった頃になって、にわかに胸騒ぎが沸き起こった。

 僕の中で、「何か」が無性に引っかかっていることに気がついた。

 自分はとんでもない間違いを犯しているのではないか……

 さっきの静の態度……

 あの子は何故、あんな事を、あんな口調で言ったのだろう。

 まるで、僕とは二度と会えない、これが「永遠の別れ」だとでも言いたげな様子だった。

 そうだ……

 きっと、僕は何か重大な事を見落としている。

 パズルのピース……

 一度は、それらが全て揃い、一切の謎が明らかになったと思い込んだ。

 しかし、それは違う……

 きっと、僕にとっては一番重要な、切実な、「最後のピース」がまだ手に入っていないのだ。

 だから、こんなにも胸がざわめく……そういうことなのだ。

 そんな堂々巡りの考えを巡らせている内に、僕はいつの間にか清風荘のすぐ手前まで戻って来ていた。

 ふと、心の奥底に眠っていた「一昨日の晩」の記憶が再来して来た。

 静が清風荘の玄関の前に現れた夜のことだ。

 それで、気がついた……


 何故、静は「僕の部屋に入りたがっていた」のだろうか……


 確かに、静に憑依したクロエの霊には、僕の部屋に入りたがる理由があった。

「あいつ」を見つけ、「仕返し」をするためだ。

 しかし、それだけでは無いのだ。

 静は、それ以前に「彼女自身の判断で」この町にやってきた。彼女自身にも、確かに僕の部屋に入ろうとする「意志」が、彼女本人が明確に自覚していたかどうかはともかく、少なくとも「潜在」していたのだ。

 それは、何故だ……

「クロエに協力するため」だろうか?

 いや、それは違う……静の言動を見る限り、クロエの霊の意志や目的を、彼女が知っていた様子は無い。

 何か別の理由、「絶対に僕には明かすことの出来ない目的」があったのだ。

 その答がどうしても見つからない。玄関の前で、僕の身体は石膏像のように固まってしまった。

 突然、ズボンのポケットに入っていた携帯が鳴る。

 メールの着信?

 おかしい……

 僕が携帯を持っていることを知っている人間など一人もいないのに……

 携帯を取り出して画面を見る。

 新着メールが一通。

 タイトル名が無い。

 メールを開くと、送信元は……僕のパソコンのアドレス?

 そんな馬鹿な……あり得ない……

 そして、文面はたった一言……


「たすけにいってあげて」


 これだけだった。


(何なのだ、これは……)

(助けるって「誰」を……?)


 同時に、頭にしびれるような衝撃が起こる。


 また、あの感覚だ……


 過去、現在の無数の情景、記憶、感情…………大量の情報が体内に流れ込んできた。

 しかし今回は、それらの全てが、「静が見て、聞いて、感じて、考えてきたこと」ばかりだったのだ。


 そして「最後の解答」が、おもむろに、そして疑いようもなく姿を現した。


(そう……だったのか!)


 矢が放たれるように、僕は全速力で駆け出していた。

 清風荘を通り過ぎ、そのまま外灯の無い真っ暗な坂道を昇っていった。

 そうなのだ……

 まだ手に入れていない、僕にとっては最も切実で、かけがいのないパズルのピース。


 それは「静の心」だった。


 彼女が何を感じ、何に苦しみ、何を求めていたのか……僕は、全く分かっていなかった。

 今の今まで、そんなことも気がつかずにいたなんて。

 僕は、何て鈍感で、愚かだったのだ。

 そんな自己嫌悪と、罪悪感に突き動かされながら、全速力で坂を昇り続けた。

 貧弱な僕の肉体は、直ぐに悲鳴を上げ始めた。心臓が爆発しそうに高鳴っている。

 しかし、ここでへこたれている場合じゃない。事態は一刻一秒を争うのだ。

 僕が、向かうべき場所ははっきりしている。

 鎌倉中央公園……

 あそここそは、「あいつ」に肉体が憑依されている時に、静の「意識」が肉体から追い出され、漂流した挙句に、しばしば辿りついていた場所だったのだ。

 静の魂は、群生するヒトリシズカに宿り、ゆっくりと流れ行く時の中で、まるで感情を持たない一輪の花のように、空を見つめ続けていたのだ。

 中央公園の南口に辿りついた。即座にさび付いた鉄柵で出来たゲートをくぐる。

 鬱蒼とした木々に囲まれ、照明が全く無い公園の中は酷く暗かったが、道に迷うことは無かった。視覚に頼らなくとも、どちらに走ればいいのかが、はっきり判るのだ。

 彼女は、さっきモノレールに乗った後、すぐ隣の駅「湘南町屋」で降りた。そして、僕が今くぐったのとは反対側の「正面ゲート」から公園に入ったのだ。

 静がどこにいるのか、何をしようとしているのかが、今の僕には手に取るように判る。

 目で見るのではなく、光景が直接頭に入ってくるのだ。


 彼女が僕の部屋に入ろうとしていた理由も、やっと判った。


 初めて静と会話をした日、彼女は言っていた。

 「探し物をしている」と。

 それは、「あいつ」だった。

 「あいつの痕跡」を求めて、「あいつに憑依されていた時の記憶」を求めて、中央公園や僕の部屋に行ったのだ。

 しかし、その動機は、クロエとは全く異なっていた。

 彼女は、むしろ「あいつ」に「憑依されたがっていた」のだ。

 何年にも渡って、散々「あいつ」に付きまとわれた静の心は、とことん消耗し切ってしまった。

 母親は精神を病み、父親の心もすさみ、家族の絆はボロボロとなった。唯一の親友、クロエも殺されてしまった。

 結果、静はこの世界への未練、生への執着を完全に失ってしまったのだ。

 しかし、そうなると「あいつ」は、そんな静に対し「標的」としての興味を失った。いたぶる相手としては「面白みがなくなった」からだ。

 そして、今度は別の「標的」を探して、きまぐれに暴れまくった。きっと窪塚は、そんな被害者の一人だったのだ。

 一方、静の方は、むしろ「あの場所」にこそ、唯一の安らぎを見つけた。

 生きた人間の住む世界で苦しみ、孤独に生きるよりは、永遠にヒトリシズカの一輪となって、あの場所に留まりたいと……そんなことを望んでいたのだ。

 しかし、「あいつ」はクロエが消滅させてしまった。

 そうなると、次に静が考えたこととは……

 木々に囲まれた真っ暗な細道を、足をもつれさせながら下っていくと、やがて開けた平坦な場所に出た。

 とっくに限界を超えてしまった心臓に鞭を打ち、クヌギ林を抜け、花菖蒲園を抜け、なおも走り続けていくと、前方に池が見えてきた。

 あそこだ……

 近づいて行くと、池の水面の一部が波立っていることに気がついた。その中心から、人間の上半身が、黒い影となって突き出ているのを発見した。

 静だ……

 腰から下が既に池に漬かっている。

「しずかああああ!」

 喉が張り裂けんばかりに大声を振り絞った。

 静は肩をびくりと震わせ、顔をぼんやりと僕の方へ向ける。

 どうやら僕の声は届いたらしいが、その表情には生気が全く無い。

 目の焦点が宙を泳いでいる。明らかに尋常な状態では無い。

「ちょっと待てよ! 何やってんだよお!」

 身体が濡れることもいとわずに、僕は池の中に足を踏み入れた。

 ジャボジャボと派手にしぶきを立てながら、足場の悪い水底を歩いて静に近づいていく。

 腕を伸ばして静の服を掴むと、力任せに自分の方に引き寄せた。

 その瞬間、氷のように冷たく強烈な怖気が、津波のように全身に押し寄せて来た。

 僕ははっきりと見た。

 静の周囲に、無数の白い影がまとわりついているのを。

 人間の腕だった。

 子供の物も、洋服を着た物も、和服を着た物も、焼けただれた物も……

 無数の腕が、静の服に掴みかかって、水中に引きずり込もうとしている。

 そういうことか……

 「あいつ」以外にも、静にまとわりついている者は、こんなにもいたのか……

 この子の心がこんなにも傷ついているのは、「これ」のせいだったのだ……

 そう思った刹那、僕の視界がブラックアウトした。

 もともと公園の中は灯りが無く、視界は殆ど利かなかったのだが、正真正銘、何も見えなくなった。

 しかし、あらゆる感覚が遮断された中、唯一触覚だけは、生々しく意識の中に残されている。

 身体が沈みこんでいる。

 呼吸が出来ない……

 これはどこだ……水の中……なのか……?

 あの無数の腕がまとわりついている……身体中に掴みかかって、僕を水の底に引っ張りこんでいるのだ。

 僕は、ただ必死に静の身体を抱き寄せていた。ここで彼女を放したら、全てが終わりになってしまう……

 しかし無情にも、僕らの身体はずるずると闇の中に飲み込まれて行ってしまう。


(せめて……せめて静だけは助けて……静だけは助けてあげないと……)


 絶望に打ち負かされそうになりながら、無意識に右腕を水面に向かって伸ばした。


 すると突然、僕の手首を何者かが握ってきた。


 直後、それは、もの凄い力で僕ら二人の身体を水面に向かって引っ張り上げていく。

 まもなく、遥か頭上に、少しずつ温かい光が差しこんでいった。

 文字通り、冥界の底から人の生きる世界へと浮上していくように……

 そして、視界全てが、まばゆいばかりの光に満ち溢れると、正常な五感がゆっくりと戻ってきた。

 身体にまとわりつく亡者達の腕も、僕の右手を掴んだ何者かの手の感触も、やがて雲散していった。


 周囲を見渡すと、僕は池のほとりにへたり込んでいるようだった。


 目の前では、全身ずぶぬれの静が、エビのように背を丸めて地面にうつぶせになっている。

 僕の両手は、静の服を掴んだままだ。

 どうやら、いつのまにか静を池から引き上げていたらしい。

 僕のズボンはびしょぬれだが、不思議と上半身は殆ど濡れていないようだ。

 すると、水中に引きずり込まれていたように感じたのは、錯覚のようなものだったのだろうか。

 ゴホゴホと静が激しく咳き込んでいる。

 気管支に少し水が入ったのだろう。呼吸も荒く、かなり苦しそうだ。

「大丈夫! 平気?」

 僕の呼びかけに静は答えず、やっとのことで身体を起こした。

 顔面が蒼白だ。肩を掴むと、ぞっとするほど身体が冷たかった。

「水を飲んだの?」

 静の咳が止まり、ようやく落ち着いたのは、僕がそう呼びかけた後かなりの時間が経ってからだった。

「どこか、怪我とかはしてない?」

 再び僕が聞くと、静はようやく消え入りそうな声で

「大……丈夫です……」

 と答えた。

 表情を見ると、僅かに生気が戻っているようだった。両肩から伝わる体温もすこしずつ上がっている。

 彼女が無事だったと判った途端、僕は一気に緊張の糸が緩んでしまった。

「なんで……こんなことを……」

 どうしようもなくこみ上げてくる嗚咽に抗いながら、僕は静に問うた。

「ここで死んで地縛霊になろうなんて……そんな馬鹿なこと……」

 静は僕から顔を背けた。

「ヒトリシズカになって、永遠にここに留まろうなんて……そんな……そういうことだったのか?」

 自然と、僕は静を問い詰めるような口調になってしまった。少なくとも、その答だけは彼女の口から聞きたかったのだ。

「良く……判らないんです……」

 やっとのことで、唇を震わせて静は答えた。伏せた目が涙で潤んでいる。

「でも……そうなのかもしれません……きっと……そうなんだと思います……」

「それは違う! そんなのは絶対に違う!」

 静は怯えたような表情で、僕の顔をふりあおいだ。

「君は、この世界での人との絆が全て消えてしまったと思ってる。一人ぼっちだと思ってる。それは、間違ってる。誤解してるだけだ! 僕は、さっきはっきり見たんだ。性質の悪い奴等にまとわりつかれて、君は間違った思い込みを刷り込まれてるだけなんだ。それで、こんなこともしてしまったんだ! ユリさんに相談しよう……何とかしてくれる。きっとあいつらを追い払ってくれる。そうしたら、きっと元気になれる。君だって、ご両親だって元気になれる。君は、一人じゃないんだ。カコもユリさんも友達になってくれる。それに、僕だって……少なくも、僕がいるんだ……僕だけは君の傍にいるんだ……」

「そう……なんですか?」

「そう……だよ……いや……違う……違うんだ……それは違う……」

 そこまで話した所で、愚かな僕は、ようやく気がついた。

 こんな上っ面だけ強がって見せた、空虚でいかにもな言葉が、彼女に届くはずが無い。

 僕が言わなくちゃいけないのは、しなくちゃいけないのは、そんなことじゃなかった。

 自分の有りのままの気持ちを言葉にすることだ。

 例え身勝手であろうが、独りよがりであろうが、僕が何を感じているのか、彼女をどう思っているのかを、正直に白状することだ。

 どうしようもなく弱い、駄目な自分を認めて、さらけ出す……そこから出発しなければ、彼女の弱さを支え、救えるはずなんて無いのだ。

 僕は、静の胴体に両腕を回し、強引に抱き寄せた。

「せん……ぱい……?」

 自分の腕の中で、静の身体が戸惑いでこわばるのを感じる。

「君に、生きていて欲しいんだ。僕の傍にいて欲しい。だから……だから……死んで欲しくないんだ……簡単なことなんだ……僕は……僕のために君に生きていて欲しい……全ては僕のために……そういうことなんだ……勝手なことかもしれないけど……だから……だから……」

 後は、もう言葉が続かなかった。

 涙で視界がかすみ、喉が詰まって、様々な思いが頭の中に飛び交って、何を言えばいいのか判らなくなってしまった。だから、恥も外聞も捨てて泣きじゃくるしかなかった。

 僕は、ただ無言で、彼女を一層強く抱き締め続けた。

 やがて、氷のように生気が抜けきっていた静の身体から、少しずつ命の温もりが溢れ出て来る。

「ごめんなさい……先輩……」

 僕の背中に回された静の細い腕に、僅かに力がこもった。

「本当にごめんなさい、先輩……もう、こんなことはしません……同じ事を、さっきクロエにも言われました……」

「え……クロエに? さっき……って?」

 思わず、静の身体を離して彼女の顔を見直した。真っ赤にはらした瞳は、真剣そのものだった。

「聞いたんです。あの子が、水の底から先輩と一緒に私を引き上げてくれた時に。はっきりと言ってくれました……『その人と一緒に生きて欲しい』って……」


 あれは、てっきり幻覚なのだと思っていたが……

 静も見ていたとは……

 しかし、僕にはクロエの声などは聞こえなかった……


 そこはかとない寂しさを覚え、無意識に後を振り返った。

 「人の気配」のような物が、一瞬だけ、僕の皮膚に触れたような気がしたのだ。

 あるいは、制服を着た少女の影が、どこかに潜んではいないだろうかと、ほのかな期待を抱いたのかもしれない。

 しかし、そこにあったのは、森閑とした公園に覆いかぶさる、しめやかな夜のとばりだけだった。

 僕たち二人は、時間が凍ったように、しばしその場で佇んでいた。

 いつの間にか、雲の切れ間から蒼い夜空がのぞき、たおやかな月光が草木に降り注いでいた。視界が明るくなり、敷地の一角に見覚えのある花の群生があることに気が付いた。

「あ、あそこにも咲いてるね。君が好きなヒトリシズカ……」

「いえ……あれは違います……」

 僕の視線に導かれて、同じ花を見つけた静がけだるそうに答えた。

「え? そうかな? 遠くだから見間違えたかな?」

「似てるけど……あれはフタリシズカです」

「フタリシズカ……? そういうのもあるのか……」

「もともとフタリシズカになぞらえて、ヒトリシズカって名前がついたらしいです」

「そう……だったんだ……」

「実は、フタリシズカはあんまり好きじゃなかったんですけど……」

 静は、そこまで言って、一瞬、不可思議な間を取ると、

「でも……これからは、好きになれるかもしれません……」

 そんな、謎かけのような言葉を呟いた。

一体、どういう意味なのだろうか……

 いつもクロエの霊は自分の傍にいて、見守ってくれている。

 それが、これから先、自分が生きていくための力になると、そんな風に思ったのかもしれない。

 無論、そんな解釈の正否を、わざわざ問いただすのは野暮というものだ。

 だけど、彼女には一つだけ、どうしても聞いておきたいことがあった。それくらいは、確かめておいても罰は当たらないだろうと思った。

「静……ええと……聞きたいんだけど」

「え? 何ですか?」

「クロエの声を聞いたんだよね」

「そうですけど……」

「その時クロエは、他の事は……例えば僕のことについて、何か言っていた?」

 それを聞くと、静はにわかに表情を曇らせた。

「ええと……言ってたような言ってないような……そんな気がしますけど……」

 そこで、一旦口をつぐむと、微かな恥じらいを頬に浮かばせてから言葉を続けた。

「それは……秘密です……」

 何だか、彼女にはぐらかされたような気がした。

 しかし、その表情が余りに愛らしかったので、僕はこの件については、それ以上追及しないことにした。


 数え切れない謎と共に、僕の前に突然現れた少女、トモエシズカ。


 彼女は、やっぱり今でも、底の知れない秘密を、数多く抱えているらしい。

 それらは、ゆっくりと解き明かせばいいことであって、あえて白日の下にさらけ出す必要もないのだろう。

「そうだ……もう帰ろう。まずは、僕の部屋に行って、身体を洗わなくちゃね。そのまま帰るわけにも行かないだろうし」

 随分と彼女に無様な姿を見せてしまった僕だけれど、少しは点数を稼ごうと思って、精一杯の騎士気取りで先に立ち上がってから、彼女の手を取った。僅かに体温の低い、華奢な手のひらが、しっかりと僕の手を握り返して来た。

 そして、人知れず野に咲くヒトリシズカのように、慎ましい微笑みを花のように浮かべながら、静はゆっくりと立ち上がった。

                                完

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鎌倉ゴーストストーリー ~ひとりしずか~ SEEMA @fw190v18

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