第11話「三角病院」
こうして僕は、再びモノレールに乗って「大船」駅に向かった。ただし、今度は「クロエ」ではなく「智恵静本人としての彼女」と共に。
静の案内に従って「大船」駅からはJRに乗りかえて、「戸塚」駅まで行く。その後はさらに横浜市営地下鉄に乗り換えて「舞岡」駅で降りるのだ。僕がその路線に乗ったのは、生まれて初めてのことだった。
モノレールに乗る前から既に陽は沈んでいた。「舞岡」駅ホームから地上へ出ると、町並みはすっかり墨汁のような闇に包まれ、地図があったとしても道に迷いそうだった。しかし、まるで通いなれた学校へ向かうように、静は迷うこと無く早足で歩いていく。視界は良く効かないが、周囲の民家はまばらで畑も存在しているようだ。こんな所に問題の「三角病院」があるのだろうかと疑問にも感じた。
十分ほど歩くと、いくつかの民家が固まって建っている一角に到達した、その中に、大きな二階建ての建物があった。
塀の内側には大きな木が何本も立っていて、鬱蒼と茂った葉の固まりが、半ば建物を覆い隠している。
(これに間違いない……)
何の根拠も無いのに、そういう考えが自然と浮かび上がる。
「ここです」
それに呼応するように、少し前を歩いて僕を先導している静が小声で言った。
やはり、そうだった。霊感が「開放」されつつある影響なのか、妙に勘が働くようになっている。五感では捕らえられない「何か」がいちいち頭に引っかかって「判ってしまう」気がするのだ。
建物の正面に出ると、塀の中央に鉄柵で出来たゲートがあり、「立ち入り禁止」の札がかけてある。柵越しに見る限り、建物全体の様子は、どこにでもある診療所のように思える。
静は、躊躇無く鉄柵に手をかけた。鍵がかかっているわけでもなく、キリキリと音を立てて、鉄柵が横にスライドしていく。少し重そうだったので僕も力を添えると、あっさりと人が通れるほどの隙間が開いた。
幸い、近くに通行人は見当たらなかった。恐らくは、肝試しに侵入する人間が後を立たないために「立ち入り禁止」になっているのだから、人に見られるのはまずい。僕らは誰かが来ないうちに、すばやく敷地内に体を滑り込ませた。
それにしても、意外と静も度胸があるものだ。僕一人だけだったら、間違いなく尻込みしてしまった所だろう。建物の玄関までは、さらに数m奥に行かなければならない。塀の内側は、地面が全く見えないほど雑草が繁茂しており、玄関まで続いている敷石だけが辛うじて表面に露出している。病院の正面玄関にはガラス張りのドアがあり「松崎クリニック」と大きな文字が書いてある。内部の様子を覗いてみるが、真っ暗で良く判らない。ドアに手をかけて力をこめると、こちらは鍵がかかっているようでビクともしなかった。
「前もここからは入れませんでした。左に自宅の裏口があるんですけど、そっちから入ったんです」
伸び放題になっている雑草をザクザクと掻き分け踏みつけながら建物の側面に回ると、静が言う通り、院長の自宅の裏口らしいドアがあった。
ノブに手をかけて捻ってみると、手ごたえが全く無く、スカスカと回ってしまう。試しにそのままノブを引っ張ったら、あっさりとドアが開いた。どうやら鍵が壊されているようだ。
ショルダーバックから「戸塚」駅近くのスーパーで買った懐中電灯を取り出した。建物の中は真っ暗だろうから、あらかじめ買っておいたのだ。スイッチを入れると、裏玄関の様子と、そこから奥へと続く廊下の様子が、ライトから放射される光で即座に浮かび上がった。
建物の中は相当に荒れていた。大量のゴミや破片が、床に散らばっていて、これならば土足で入っても全く問題が無かろうと思わせた。
唾を大きく飲み込んでから、建物の内部に一歩足を踏み入れる。
同時に、形容しがたい異物感、不快感が腹の底からこみ上げてきて、一気に脳天まで駆け上がった。
視界がぐるりと回った。体がよろめいて、足で地面を踏んでいる感覚が失われる。
「大丈夫ですか?」
静の声が耳に飛び込んできて、意識が急に引き戻された。気がつくと、左手で静の手を握っていた。僕が無意識に彼女の手を取ったのか、静から握ってきたのかは判らないが、恐らくはさっき目眩を起こした時に手を繋いだのだ。
静の呼びかけに対し、情けないことに、僕は「大丈夫だよ」とは答えられなかった。
一歩足を進めるたびに、グラグラと頭が揺れる。頭痛と胸のむかつきも襲ってきた。
しかし、五感の全てが不確かになって行く中、静の手から伝わる体温だけが明瞭に把握できる。それが、僕の意識を辛うじて平衡に保っているようだった。
一体これは何なのだ……
何故、こんな風に感じるのだろう……
ここがいわゆる「幽霊病院」であるから「霊障」を受けている?
普通ならば、そのような解釈になるのだろう。
しかし、それはきっと違う……
この不快感の根源は、この建物ではなく、むしろ自分自身の中にあるのだ。
僕は今、自分にとっての何かしらよからぬ物、これまで防衛本能によって頑なに関わりを避けていた「重大な事実」に近づきつつあるのだ。
頭が割れるように痛くなってきた。
こんな所に、こんな時間に来なければ良かった、という後悔が頭をかすめる。
しかし、敢えてこの時間、クロエが死亡したであろう「夜中」でなければ、きっと謎の核心には近づけないのだ。
結局の所、この「奇怪極まるパズル」に於いて、未だ「足りないピース」とは何なのだろうか。
朦朧とした意識の中で懸命に思考するうちに、それはゆっくりと、しかし確実に輪郭を結んで行った。
そうか……
ユリさんが再三指摘していた、「悪意」の正体……
僕にまとわり憑いていた、「感情の残りかす」とは一体何なのか……
「それ」だ……
仮に、窪塚が恐怖していたのは「静本人」ではなく「彼女に憑依していたクロエ」だったとしよう。そして、彼を学校の屋上から落下させて殺したのも、クロエの霊だったとする。クロエに陰口を言っていた山内という女子生徒を殺したのも、クロエの仕業。そして、僕に馬乗りになり、首を絞めてきたのも、智恵に取り憑いたクロエ。
クロエの霊には「二面性」があり、無邪気な童女のように振舞うかと思えば、一方で途方も無い悪霊として暴走していたのだとしよう。
それならば、そのクロエを殺したのは一体……?
「誰」なのだ……?
それが、判らない……
こつんと、つま先が何かにぶつかるのを感じた。続いて、無意識に自分の右脚が上がる。
続いて、左脚も上がった。
これは、階段……か?
意識が混濁していくのに抗いながら、必死に思考を巡らせているので気がつかなかったが、いつの間にか、自分は階段を昇っているらしい。
「階段」……?
そうだ……僕は、この「階段」を知っている……
前に僕は、階段を駆け上がり、そのまま二階から窓を突き破って落下する「ビジョン」を見ている。
あれは、間違いなく生前のクロエが体験した「最後の記憶」なのだろう。
ならば、後を振り返った時に一瞬見えた、クロエを追いかけている者とは……?
そう……それこそがクロエを殺した者に他ならない。
僕は、そいつを知っているのでは無いか……
そうだ……だから、僕は「クロエが殺された事」を知っていた。
何故知っていた?
それを知っているから、彼女に関する記憶を全て封じ込めた。
あれほど恋していた彼女のことを忘れ去ったのだ……
頭が痛む……
割れるように痛む……
吐き気も酷くなってきた……
これは、真相に近づいているからなのか……
真実とは……?
真実とは……?
僕が、知っていながら忘れていた振りをしていた真実……?
つまり……? クロエを殺したのは……?
「僕」……か?
「僕」が殺した……?
「僕」が殺した……?
「僕」が殺した……?
「僕」が殺した……?
クロエを……「僕」が殺した……?
僕は「クロエを追いかけて」階段を駆け上がっていくビジョンも見ている……
あれは、他でもない「僕自身の記憶」だった……?
それで、僕はクロエが死んだと知っていた?
だから「自分で捨てた」かんざしの在り処も知っていた?
ユリさんが感じた「悪意」とは、ほかでもない僕自身の中に潜んでいた物……?
そういうこと……? だった……?
揺らめく視界の中心に、僕の左手を握ったまま、二階へといざなうように数段上の階段を昇っていく少女の後姿があった。
この子は……? 誰だ……?
彼女は、おもむろに後を振り返った。
その顔は、いつの間にか静ではなくなっていた。
クロエだった。
あの時に死んだはずのクロエだった。
そうか……
彼女はずっと、僕を探していた?
僕を探して「しかえし」しようとしていた?
それを成就する場所として、この病院を選んだ?
これまでに経験した事の無い、「ある感情」が押し寄せてきた。
同時に、僕が知覚していた世界の全てが、音を立てて崩壊して行く。
見たことも無い雑多な風景……
聞いたことも無い音……
会ったことも無い人々の声……
嗅いだことの無い匂い……
知るはずの無い記憶……
この世界に存在する、ありとあらゆる情報が、でたらめに体の中に入り込んで、そのまま通り抜けていく。
何か大声で叫んでいるのかもしれない……
力任せに何かをしているのかもしれない……
全力でどこかを走っているのかもしれない……
時間がどれだけ経ったのかも判らない……
あらゆる理性が融解していく中で、僕を支配している感情の正体が、唐突に一つの言葉として浮かび上がった。
「恐怖」
これが、僕の防衛本能が封じ込めていた「恐怖」という感情。
それを悟った瞬間。
「世界」は突然回復した……
まるで、停電が終わったと同時に、全ての電気機器が再起動するかのように……
普通に音が聞こえる……
普通に目が見える……
普通に物を考えられるようになった……
(ここはどこだ……? 僕は、どこにいる……?)
目の前に階段がある。
それを凄い勢いで駆け昇っているのだ。
すると、僕はまだ、あの「三角病院」にいる……?
いや……違う……
これは「清風荘の階段」だ……間違いない……
心臓が爆発しそうに高鳴っている……
息が苦しい……
すると、いつの間にか地下鉄の駅に戻って電車に乗り、モノレールにも乗り、自宅まで帰って来た……?
一体、どれだけ時間の記憶が欠落している?
ここに来るまで、休み無く走ってきたということか……?
あっという間に二階へと到達した。
僕の部屋のドアに前に立ち、ポケットからキーチェーンを取り出す。
鍵穴にキーを差込み、捻った。
そして、いつも通りに開錠する、金属の感触。
そうだ……僕は、ここに入らなければならない……
あんな恐ろしい所からは、一刻も早く離れないといけなかったのだ。
ここに逃げ込めば、もう何の心配も無いのだ……
そして、ドアが開く。
いつも通りに、部屋の内部に足を踏み入れる……
(ハイッチャダメ! ダマサレナイデ!)
聞いた記憶のある、誰かの声……
後ろ手でドアを閉める直前、それは頭の中に唐突に響いてきた。
(え……? 何が「違う」? 「騙される」って……? 「誰が」「誰を」……?)
刹那、そんな疑問が、頭の片隅に横切る。
しかしそれは、殆ど触れることも出来ないまま、眼前に広がった光景によってかき消されてしまった。
ずっと僕が住み、慣れ親しんできた自室。
長年使ってきたコタツ机。
いつも通りの流し台。
毎日手入れをしてきた水槽。
見慣れた家具。
全ては、いつも通りの風景……
いや……それは違う……
「いつも通りでは無い物」が一つだけあった……
毎日かかさず僕が座り、勉強やゲームに使ってきたパソコンデスク。
そこに「誰か」がいる。
女だ……
スーツを着たOL風の、見知らぬ女の後姿。
僕に背中を向け、何事も無く椅子に座り、モニターに向かい合い、キーボードで文字をポツポツと打っている。
誰だ、「こいつ」は……
いや……「こいつ」だ……
「こいつ」だったのだ……
膨大な情報の洪水が、いきなり頭の中に押し寄せてきた。
「真相の全て」が瞬時に頭の中に構築され、その全貌を露にした。
(そういう……ことだったのか……)
僕が、「クロエを追いかける何者か」を見てしまったことは事実だった。
そのために、僕がクロエに関する記憶を封じ込めたのも事実だった。
しかし、クロエを殺したのが僕自身だったなんて、そんな事が有る筈は無かった……
考えてみれば、彼女に声一つかけられなかった意気地なしの僕が、そんな大それた事を出来るはずがないし、する理由も無いのだ。
あれは「こいつ」に刷り込まれた「偽りの解答」だった……
(そう……「こいつ」だったのだ……)
クロエではなく、もちろん静でもない、悪意を持った「第三の存在」がいる可能性。
僕は、それを見落としていた……
クロエを二階から落下させたのは「こいつ」だった。
窪塚が恐れていたのは、「静本人」では無く、彼女にまとわりついていた「こいつ」だった。
僕が恐怖していた存在も、「静それ自体」ではなく、その向こう側にいた「こいつ」だった……
窪塚が自宅で見た赤い人影も……彼を屋上から転落死させたのも……山内という女子生徒を殺したのも「こいつ」だった……
そして、昨晩、静が僕に馬乗りになり首を絞めてきた「あの時」だけは、彼女に憑依していたのはクロエではなく「こいつ」だった……
「こいつ」は「ずっと前から僕と一緒にこの部屋に住んでいた」のだ……
僕は、それに気がつかなかった。
ずっと「感覚」を封じこめて、「こいつ」が「存在しないことにしていた」のだ。
僕が、クロエに関する出来事を、全ての記憶から消し去っていたのは、「こいつ」の存在に行き着いてしまう事を本能で恐れたからなのだ。
「そいつ」は、おもむろに立ち上がった。
そして、こちらへゆっくりと、陽炎がゆらめくように振り返る。
やはり「女」だ。
しかし、顔は判らない……
写真を修整したように、顔面全体が血のようにどす黒い赤色で塗りつぶされているのだ。
二つのぼんやりとした黒い「穴」だけが、真っ赤な顔面に空いている。
「そいつ」は右腕を僕に向けて突き出してきた。
細長い「布」のような、あるいは「ひも」のような何かをその手で握っている。
その姿勢のまま、「そいつ」は僕に向かって歩いてくる。
まるで、生きている普通の人間のように、スタスタと。
一平太が「定例会」で話していた、友人の体験談……
「湘南深沢」駅の傍にある駐車場で「何かを握って」立ち尽くしていた女……
あれは「こいつ」のことだった……
僕は、とっくに「こいつ」に関する怪談を一平太から聞いていたのだ……
笑っている……
顔は一切判らないし、声が聞こえるわけでもないのに、何故か「そいつ」が笑っていることだけは判るのだ。
ゲラゲラと。
僕を馬鹿にして、悪意をこめて、狂ったように笑っている。
「そいつ」がキーボードで打っていた文字。
それが目に入った。
(オマエノヤクワリハ オワッタ)
「そいつ」は「ひも」を持った右手の拳を、真っ直ぐに僕の胸に当ててきた。
全く抵抗無く、拳はズブズブと体内にめり込んでいく。
そのまま、まるで吸い込まれるように「そいつ」の体全体が僕の体に入り込んでいった。
(ナラバ、シネ! シンデシマエ! シネ! シネ! シネ! シネ! シネ!)
ほんの一瞬だけれど、僕は「そいつの本当の顔」を見てしまった。
余りにもおぞましく、醜い、身の毛もよだつような「その顔」を。
しかし、悲鳴を上げることはできなかった。
全身が総毛立つと同時に、猛烈な圧迫感と苦痛が襲ってきた。
心臓が苦しい……
息が出来ない……
何かが首にまきついて、絞まっていく……
視界がぐるりと回転して、全身に衝撃が走った。
きっと、もんどりうって畳に転倒したのだ。
意識が遠のく……
視界が真っ暗になった……
体内で、黒い固まりのような物がうごめいている感覚だけが、際限なく膨れ上がる。
自分の肉体は苦痛でのた打ち回っているようだが、もはやそれも曖昧になっていく……
死ぬのか……
僕はここで、こんな形で死ぬのか……
そんな思いが浮かんだ直後……
ドアが乱暴に開く音が、鼓膜に飛び込んできた。
部屋の中に飛び込んでくる「静」の姿が網膜に映し出される。
床でのた打ち回っている僕の胸に向けて、彼女は右の手の平を突き出してくる。
静のすぐ背後には、うっすらと「クロエ」の姿も重なって見える。
あたかも、能の「二人静」のごとく、クロエの霊体も右手を伸ばしている。
静とクロエの二本の腕は、吸い込まれるように僕の胸の中にめり込んでいった。
続いて、胸部、腹部、両腕、両脚……僕の身体のあらゆる場所から、どす黒い汚物の固まりがズルズルと引き出されていく。
それと入れ替わりに、肺に大量の空気が入り込んで来た。
胸や頸部を締め付けていた力が、煙のように消え去っていく。
必死に、全力で、呼吸を何度と無く繰り返すと、全身に血流が送り込まれ、徐々に意識が回復して行った。
その過程で、僕の頭の中に奇妙なビジョンが入り込んできた。
クロエが「黒い固まりの様な物」に馬乗りになっている……
それは、僕の体内から「彼女達」が手で掴んで引きずり出した「あいつ」なのだ。
クロエは、今にも泣きそうな表情で、必死に「そいつ」の首を両手で締め上げている。
「そいつ」の表情は判らない。もはや人間の姿をしていなかったが、それが苦しんでいることだけは判った。
やがて、見る見るうちに「そいつ」は小さくなり、遂にはクロエの両手の中で、かき消えてしまった。
そしてその後に残された物は、今回の事件が起こって以来、何度と無く味わってきた「あの感覚」だった。
「名状しがたい違和感」
正に今、同じ物が部屋の内部に充満している。
それが「意味している事」を、今の僕ならば手に取るように理解できる。
「あいつ」は、これまでも手当たり次第に大勢の人々に取り憑き、祟り、面白半分に殺してきた。霊感が無い人間の目にも見えてしまうほどに強力で、狡猾な悪霊だった。
だから、祈禱によって除霊されてしまうのを避けるため、「あいつ」は姿をくらますための「隠れ場所」を必要としていた。
それが、僕の部屋だったのだ。
霊感が強すぎて、防衛本能で霊の存在を意識からシャットアウトしてしまう僕だけしか出入りしないこの部屋ならば、誰にも見つからずに済むからだ。
そしてクロエの霊は、この部屋を探していた。
自分を殺した「あいつ」に復讐するために。
半ば、あの三角病院の自縛霊のようになってしまったクロエは、静に憑依することによって、生前に行った経験が無い場所にも移動することが出来たのだ。
そして静と共に、やっとこの部屋に辿りついた。
しかし、クロエの霊や静がこの部屋に来た時には「あいつ」は一時的に別の場所に移動して姿をくらましていた。僕はその時に「あの違和感」を覚えたのだ。
ここに住むようになって以来、常に傍にいたあいつがいなくなったことによる違和感を。
また「あいつ」は静に憑依して僕の首を絞めたこともあった。あれはきっと、僕が静の事を恐れて、彼女を二度とこの部屋に近づけさせないようにすることを狙っていたのだ。
そして今、クロエはようやく「あいつ」を捕まえることに成功し、恨みを晴らしたのだ。
「あいつ」を消滅させることによって。
ユリさんはこの部屋や僕に対して「暗い感情の残り香」を感じ取っていた。
「途轍もない悪意」とは言うまでも無く「あいつ自身」のことだ。
そして、「恨みの念」「復讐心」とは「クロエがあいつに対して抱いていた念」のことだった。
二つの感情は根源が別々だったため、僕は混乱したのだ。
去年の七月十二日。
それは、クロエ・ブーケが亡くなった日付。
今の僕ならば、その時に何が起こったのかを、詳細に理解できてしまう。
最初に、クロエと静が三角病院に肝試しに行ったのは、実はその「前日」の十一日のことだった。
その時、静の肉体に取り憑いた「あいつ」は、クロエのかんざしを奪うと、背後から刺し殺そうとした。「クロエを追いかけているビジョン」はその時の静の記憶だった。
幸い、その時クロエは追いかけてくる静を振り切って、一人で帰宅することが出来た。
一方、静は「あいつ」から開放された後、朦朧とした意識のまま、鎌倉中央公園にあのかんざしを捨てに行ったのだ。自分が二度とそんなことをすることが無いように。
そして、その後一人で帰宅した静は高熱を出し、三日間も学校を休む羽目になった。
翌日、クロエの方は再び三角病院に行ったのだ。好奇心旺盛な彼女は、何が起こったのかを自分の意志で確かめに行ったのだろうか。
いや、そうではない。一度はクロエの殺害に失敗した「あいつ」が、執拗に彼女の命を狙い、あの場所に再び導いて行ったのだ。そして、今度は「自らの霊体その物で」クロエを追い回し、憑依した上で二階から転落させたのだ。
「クロエからの視点で何かに追いかけられるビジョン」はその時のものだった。
つまり、静からの視点でクロエを追いかけているビジョンと、クロエからの視点で「あいつ」から追いかけられるビジョンは、似たような状況だけれど、「日時が違っていた」のだ。
これもまた、僕が混乱した原因だった。
これで、全てのパズルのピースが、はまるべき所にはまった。
謎は、全て解けたのだ。
少なくとも、僕にはそう感じられた。
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