第5話
夜でもないのに部屋は真っ暗で、テーブルの上には、火の点いたろうそくが三本並んでいた。どこかの電線が切れたのか、先程から停電が続いていたのだ。
木造の家は、強い風が吹く度にギシギシと音を立てて、時折揺れていた。外では雨戸越しに風のうなり声がしていた。
台風だ。
居間には伯母さんと由美姉さんと僕の三人が揃って、ラジオから流れる台風情報に耳をそばだてていた。
由美姉さんは、常に酷く不安げな表情を目元に浮かべていた。伯母さんも少しだけ厳しそうな顔をしていたが、怖がっている様子は無い。
一方、僕は不謹慎ながらわくわくする心を、表に出さないように一生懸命だった。しかし、そんなに我慢していなくてもいい方法を思い付いた僕は、早速実行に移した。
「僕、おじいちゃんの所に行ってくる」
「そう? じゃあ、廊下もおじいちゃんの部屋も暗いから、ろうそく持っていった方がいいわよ」
伯母さんがそう言うので、僕は燭台を持って居間を出た。
言われた通り、廊下は真っ暗だった。玄関以外に光の入る場所が無いのだから、仕方がない。
僕は洋間の前に立ち、燭台を持っていない右手でノックして入った。
「おじいちゃん、台風だよ」
「そうかぁ、風が強いと思ったら台風だったのかぁ。というか、隼人は随分楽しそうだなぁ」
「うん、楽しいよ」
おじいちゃんは抑え気味の声を出して笑った。
「まあ、わからんでもないがなぁ、儂等がお前さんくらいの時には、大変だったんだぞぉ。何しろ、台風の奴必ずうちの屋根を飛ばしていきよったからなぁ」
「へぇ」
「言っておくが、笑い事じゃないんだぞ。それはもう……」
祖父は突然話の途中で黙った。
「おじいちゃん、どうしたの?」
まるで蝋人形にでもなったように、ピクリともせず、言葉も発しなくなった。
僕は急に不安になってきた。祖父に何かが起こったのだと。
その時、ドアの軋む音が聞こえた。
僕は弾かれたように飛び上がった。そして、全身にじっとりとした汗をかきながら、ドアが開き切るのを待った。
「隼人君?」
そう言って現れたのは、由美姉さんだった。
「話し声が聞こえたみたいだけど」
僕は無意識に祖父の方に目を遣った。彼が突然蝋人形になったのは、この所為だったのだとわかった。
「おじいちゃんに話し掛けてたの?」
「う、うん。由美姉ちゃんはどうしてここに?」
由美姉さんは少し俯いて頬を膨らませて言った。
「だって、隼人君、急に居間から出て行くんだもん」
どうやら、由美姉さんは怖くて心細かったらしい。それを指摘するような事を言おうものなら、確実に怒られるだろう。そう考えた僕は、その言葉を飲み込んだ。
代わりに、思い付いた事を口に出して言った。
「ねぇ、伯母さんもここに呼んでおいでよ。その方が……」
怖くないと言いかけて、僕は口籠った。その言葉を封印したばかりだったのだから。代わりの言葉はすぐに見つかった。
「その方が楽しいよ」
言ってしまってから、これはもっと以前に不謹慎だという理由で飲み込んだ言葉だったのを思い出した。
だが、由美姉さんは気が付かなかったのか何なのか、その提案を受け入れてくれた。
「そうだね。お母さん呼んでくる」
一旦、由美姉さんが部屋を去っている間に、僕は祖父に問い掛けた。
「ねえ、やっぱり……その、ボケている振り、続けるの?」
答えようとしない祖父の目は、しっかりと僕の目を見ていた。だから、僕もじっとその視線を動かさなかった。
やがて、ふっと目から力が抜けて、遠い明後日の方を見ているようになった。僕はそれで、伯母さんと由美姉さんがやって来た事を知った。
台風一過で、空は小さな雲を散らしながらも、青々とした鮮やかな色で輝いているように見えた。
そんな気持ちの良い筈の空の下、僕は手に付かない宿題にイライラしていた。最初は、先日描いた絵の色塗りをしようとしたが、気が乗らずに算数ドリルをやり始めた。しかし、結局それも集中できずに、今は漢字の書き取りをしていた。これなら、考えずに出来ると思っていたのだが、一向に進まない。
僕はシャープペンシルをテーブルに転がし、仰向けに寝転んだ。空が見えた。まだ、台風の影響があるのだろうか、風が強くて雲の動きが速い。
僕をこうして悩ませているのは、祖父の事、そして、伯母さんや由美姉さんの事だった。昨日、僕達はみんなで洋間に集まり、四人で台風が過ぎるまで一緒に過ごした。
その間、僕等三人は、ラジオの台風情報をBGMに、日常のくだらない話や、人から聞いた面白い話をしながら過ごしていた。一方で、祖父は本当に蝋人形のように動かず、声を出す事も無かった。例え、どんなに面白い話をしても、初めから聞いていないかのように、無反応だった。
伯母さんはそんな祖父を見る度に、辛そうな溜め息を吐いていたし、由美姉さんは哀しそうに目を伏せていた。
本当は、三人の会話を聞いている筈なのに、どうして一緒に笑わないのか、話に参加しないのか。それに何よりも、どうして嘘を吐いてまで、二人に辛い思いをさせて、黙って見ていられるのか。
僕は、そんな祖父に憤りを覚えていたのだと、その時ハッとして気付いた。苛立ちのような対象の曖昧なものじゃない、はっきりとした怒りなのだ、と。
もし、祖父との約束を破って、秘密を二人に打ち明けたならどうなるだろう。祖父は、あの二人にも、僕と同じような接し方をするようになるかもしれない。
けれど、何もかもが壊れてしまう事を想像してしまう自分がいた。その所為で、僕は約束を破る勇気を持てないでいるのだ。
縁側に、とんとんとんと足音が響いた。由美姉さんだとわかった僕は、体を起こして、さも今までテーブルに向かい、宿題をしていたという風に装った。
不意に気付いた。それは、祖父がやっている事と何か違いがあるだろうか。嘘には違いないのだ。
「隼人君、宿題やってるんだ」
僕は躊躇いながら答えた。
「う、うん」
「わからないところはない?」
「へ?」
「あ、今、私には無理だって思ったでしょ。私、一応中学生なんだからね」
そうだ、この嘘は誰も不幸にはしない。僕はそう結論付けた。
「ねえ、由美姉ちゃん。もし、おじいちゃんが、今みたいに……何もわからなくなっていなかったら、どう?」
「えっ? 突然どうしたの? 隼人君」
「いいから、答えてよ」
由美姉さんは一瞬、ただの例え話だと哀しい目をしたが、すぐにその痕跡さえ消し去り、答えてくれた。
「それはもちろん、嬉しい……いや、違う。多分何も思わなかったんじゃないかな、それが当たり前だって。もし、今みたいになっていなかったら、こんなに……哀しくはなかった。嬉しいとか哀しいとかって、その時々の感じ方だと思うから」
そう言ってしまうと、由美姉さんは、ニコッと笑い掛けてきた。
その笑みが何を意味しているのか、僕にはわからなかった。だけど、少しだけ、勇気がもらえたような気がした。
僕はテーブルの上に散らかった算数ドリルやプリント、シャープペンシル、消しゴムなんかを片付け始めた。
「宿題は終わったの? だったら、また一緒に遊ぶ?」
「ごめん、今はちょっと」
「そう」
寂しそうにした彼女に、僕は後ろ髪を引かれるような思いがした。
僕は一旦荷物を自分が寝ている部屋に置いて、祖父の部屋へ向かった。
ノックをして入ると、祖父は、「また来たか」と、憎まれ口を吐いた。そう言いながらも、祖父は歓迎してくれている事を、僕はもう知っていた。
だけど、これからはどうだろうか。本当に、「もう来るな」と、言われてしまうかもしれない。
だけど、引き下がる訳にもいかない。
「さて、今日は何をしに来たんだ。宿題かぁ?」
「うううん」
「じゃあ何だ? 聞きたい事でもあるのかぁ?」
僕は黙って首を横に振った。
祖父の口から、僅かばかりの笑みが消えた。
「話があるんだ」
僕は、そう言った瞬間に、心臓の鼓動が早くなるのを感じ、同時に胸の苦しさを覚えた。
「何だ」
「秘密を破ろうと思うんだ」
「やめろ」
「あの二人に……伯母さんと、由美姉ちゃんに、本当の事を……」
「やめろといっているだろう」
「どうしてさ!」
その問いに祖父は、いつものように黙りを決め込んだ。
「そうやって黙って。一体何があるんだよ、こんな嘘に!」
「……け」
祖父は喉の奥から辛うじて絞り出すように、何かを言った。
「え?」
「もういい、だから出て行け」
僕はやはり、拒絶されるのだ。思っていた通りの結末ではあったが、僕はしばらく動けなかった。
その時、ドアの向こうから由美姉さんの、切迫するような声が聞こえた。
「どうしたの? 隼人君。大きな声出して」
「うううん、何でもないよ」
僕の足はやっと動かせるようになった。
最後に祖父の目を一瞥した。彼は、色を無くした虚ろな目で中空を見詰めていた。
***
そんな事があって、僕は祖父の部屋を訪れるのをやめてしまった。
それから、数日が経って、母が僕を迎えにやって来た。その日は、静かな雨の降る日だった。
僕は伯母さんや由美姉さんに別れを告げた後、祖父の部屋に入った。さよならを言っても、祖父は何も返してはくれなかった。僕以外の誰も、その場にはいなかったというのに。
最後の喧嘩別れが原因なのか、それとも、今までの事が全て夢だったのか。
だから、僕は今でも、あの日々が幻だったという思いの亡霊に取り憑かれ、祖父の件で前に進む事が出来ないでいた。今回ここを訪れて、僕は、その疑惑を払拭しようと、漠然とではあるが考えていた。
ツクツクボウシはもうとっくに鳴きやんでいたが、依然として、誰もが自分の記憶の世界に引き蘢り、押し黙ったままだった。
僕はコップに残っていた麦茶を飲み干した。それは、もうすっかりぬるくなっていた。
由美姉さんが立ち上がり、台所へ行った。たぶん、麦茶のポットを持って来てくれるのだろう。
少しの間、僕は伯母さんと二人になった。僕が話すきっかけを探していると、急に伯母さんが口を開いた。
「おじいちゃん、もしかしたら私達が思っていた程、何もわからなくなってはいなかったのかもしれない」
それは、まるで独り言を呟くようだったが、僕はどきりとして、「え?」と、聞き返した。
由美姉さんが、麦茶のポットと氷入れをお盆に乗せて、戻ってきた。
「どうかしたの?」
言いながら、彼女は僕の目の前のコップに氷と麦茶を注いでくれた。けれども、僕も伯母さんも問いには答えなかったので、由美姉さんは不機嫌そうにした。
「そう最初に思ったのはね、隼人君が帰った日よ。あなたが行ってしまってから少しして、おじいちゃん、静かに、声も立てずに、涙だけを流して泣いたのよ」
伯母さんは言葉を切り、溜め息を吐いた。
「あの涙を見たからこそ、私は今まで、おじいちゃんを支えてこられたんだと思うわ。おじいちゃんが『抜け殻』じゃなくて、中身のある人間だってわかったからよ。それまでは、空っぽの人をこんなに世話してどうなるんだろう、とか、正直思ってたわ。だけど、ほんの少しでも、人間としてのおじいちゃんが残っていたと思うことで、辛くてもやっていけたの」
由美姉さんは深く俯いた。彼女は、伯母さんの事をずっと見てきたのだ。僕なんかにはわからない伯母さんの苦労が、わかっていたのに違いなかった。
伯母さんの発した『抜け殻』という言葉で、僕の脳裏にある思い出が蘇ってきた。
ある時、縁側の柱の一つに蝉の抜け殻がくっついていた。
僕が住んでいる所では、なかなか見つける事が出来ないものだ。それを目ざとく見つけた僕は、手に取ってみた。まるで紙風船のように軽く、それでいて意外と固い。
僕は少し興奮しながら、それを祖父に見せようと持っていった事があったのだ。
「見せてくれ」
僕が手渡した抜け殻を手で弄んでいる祖父を見て、数日前に祖父と抜け殻が似ていると感じた事を思い出した。
そんな時、祖父は虚ろな顔で、ぼそりと呟いた。
「これは儂か」と。
心を見透かされたように思い、僕は、「違う、おじいちゃんは抜け殻じゃない」と、むきになってそう言った。
そんな僕の語気に驚いていた祖父は、珍しく優しげな笑みを浮かべ、言った。
「蝉の抜け殻は『空蝉』とも言うんだ。そして、空蝉にはこの世を生きている人という意味もある。そういう意味で言ったんだ」
僕を安心させようと吐いた、今思うと稚拙な言い訳だったが、その当時の僕には十分だった。
僕が思い出の中から戻ってくると、伯母さんも由美姉さんも、心が深く沈んでいるようだった。
そんな二人にしてやれる事があるだろうか。祖父の嘘を庇い続けた咎人である僕に。
一つだけ、僕には思い当たる節があった。神社のご神木の根元に、僕が埋めたあの箱。
中に何が入っているのかわからないが、きっとあの箱を二人に渡す事が、僕に出来る唯一の罪滅ぼしになるのだと思った。
問題は、鍵だ。あの箱には鍵が掛かっていたのだ。
「伯母さん、由美姉さん。おじいちゃんの遺品の中に、鍵がなかった?」
二人は顔を合わせて、首を横に傾けた。
やはりそう簡単に見つかりはしないのかと、一旦諦め掛けた時、由美姉さんが言った。
「遺品の中っていうか、お骨の中にあったの。鍵が」
「おじいちゃん、右手を強く握ったまま亡くなったから、その手に握り締めてたんだって思うけど、隼人君どうしてその事を……?」と、伯母さんが言葉を繋いだ。
二人には悪いが、僕は今その鍵がどうなっているのか、そればかりが気になって、納得のいく答えを話してあげられる余裕が無くなっていた。
「その鍵、今は?」
「えっと、確か……」
伯母さんはすぐ傍らの小さい電話置き兼、物入れの引き出しを上から順番に開けて、探し始めた。
やがて、鍵は見つかった。随分煤けてはいたが、金属製の鍵に相違なかった。
これがあの箱の鍵かどうか、確かめる方法は、箱の鍵穴に差してみるしか無かった。
「今から、神社に行こう」
そう言った僕に、彼女達は怪訝な顔をした。
しかしながら、二人は黙って外出の準備を始めた。
僕等三人は、神社へ上がる長い石段を、息を切らし、汗を垂らしながら夢中で登った。登り切ってから境内を見渡すと、僕は驚く事になった。
何故か、ご神木が無くなっていた。
「ご神木が、無い」
誰へともなくそう呟くと、由美姉さんが横に並んで教えてくれた。
「ご神木は、一昨年に落雷で燃えてしまったの。ほら、あそこに石碑があるでしょう?」
僕は、ゆっくりと石碑の前に立った。ご神木が、落雷を受けて枯れた年と月が金字で刻まれていた。根なども処分されてしまったらしく、その場には何も残されていなかった。
僕は少し躊躇したが、シャベルを石碑の近くに突き刺して、上着を脱ぐと、それを無言で由美姉さんに預けた。
後はもう、記憶と感覚しか無い。
「どうするの?」
「穴を掘る」
「え? そんな事したら……」
僕はその制止を聞かなかった事にして、シャベルで地面を掘り始めた。最初に掘り出した場所は、すぐに岩のようなものに当たり、それ以上掘れなくなってしまった。けれど、それは十二年前に掘った場所と違っている事を意味している。僕は即時場所を変え、また同じ事を繰り返した。
「隼人君。こんな事したら……宮司さんに怒られるわ」
「宮司さん……?」
その時、僕は過ちに気が付いた。
「そうか。根っこを処分する時に、出て来たのかもしれない……」
「隼人君、さっきから変よ? お母さんも見てないで、何か言ってあげてよ」
伯母さんは腕組みをして、ずっと黙ったまま、僕の行動を見ていた。その彼女は、組んでいた腕を解いて、口を開いた。
「隼人君、宮司さんの家に行ってみる?」
「ちょっと、お母さんまで……。もう!」
「ごめん、由美姉さん。どうしても見つけないといけないものがあるんだ」
由美姉さんは睨み付けるくらい強い視線を僕に向けて、ふっと力を抜いた。
「わかった。宮司さんの所に行ってみましょ。その前に、穴は埋めていかないとね」
僕が穴を埋め終わる頃、神社の境内には、斜陽の光が届き始めた。ちょうど本殿からは、夕日が海の上に浮かんでいる様が望めた。僕達は、橙色の太陽に照らされながら、石段を降りた。
由美姉さんの話では、宮司さんは町会議員でもあるらしい。鳥居から出て、県道を少し歩くと、その家はあった。町会議員で神社の宮司の役割も務めているという事から、何となく和風の御殿のような家を想像していたのだが、失礼ながら至って普通な様子だった。
ちょっとした前庭を通って、玄関前にやって来ると、僕は自然と二人の後ろに陣取った。
「ちょっと、隼人君。何を隠れてるの」
「だって、知らない人の家なんだよ」
「私だってそんなに知ってる訳じゃないのよ」
そんな遣り取りを見てか、伯母さんは小さく笑った。そして、「変わらないところもあるのね」と、小さく呟いた。
結局、チャイムを鳴らす時の陣形は、伯母さんを先頭に、由美姉さんと僕が斜め後ろにそれぞれ付く、ちょうど三角形を描く形態となった。
プランは、伯母さんが軽い挨拶程度の言葉を交わした後、僕が本題に入る、というものだった。
早速、伯母さんはボタンを押して、チャイムを鳴らした。しばらくして、声が返ってきた。玄関扉が開き、出てきたのは初老の男性。伯母さんは、プラン通りに挨拶をした。
「こんにちは、宮司さん」
宮司さんは、人好きのする笑みを顔中に浮かべた。
「なんだ朋子さんかい。それに、由美ちゃんと……」
言葉に詰まる宮司さんに、伯母さんが僕を紹介した。
「私の甥の隼人君ですよ」
「おお、そうかそうか。それで、何か用なのかな?」
伯母さんと由美姉さんの視線は、僕に集中する。それを見て、宮司さんも僕に目を向けた。
「急ですみません。一昨年、神社のご神木が落雷で燃えてしまったって聞いたんですけど」
「ああ、あの時の……あれは酷かったなぁ」
「それで、燃えたご神木を、どこかへ掘り返して移動する時に、根元から赤い箱が出てきませんでしたか?」
宮司さんは思い出を遡っているのか、遠い目をして黙り込んだ。
僕は、生唾を飲み込んだ。耳にはっきりとその音が残る。
突如、宮司さんは目の焦点を僕に合わせ、口許を緩めた。
「そう言えば、君の言う通り、箱が出てきたなぁ。君達のだったのかい?」
「はい、埋めたのは僕なんです」
「しかし、どこに置いたかなぁ。ちょっと、納屋を探してみよう。時間がかかるかもしれない。家の中で待っていてくれるかな?」
僕達は宮司さんに誘われて、客間へ通された。すぐに宮司さんの奥さんが、麦茶を出してくれた。
「あ、お構い無く」
由美姉さんが代表して言った。
奥さんが部屋を出ていき、三人だけになると、伯母さんが口を開いた。
「ちょっと不思議なんだけど、聞いてもいい? どうして隼人君が埋めた箱の鍵を、うちのおじいちゃんが持っていたの?」
「ああ、それは……」と、言い掛けて、僕は慌てて口を噤んだ。危うく本当の事を言ってしまうところだった。
「それは……何?」
由美姉さんが興味津々で聞いてくる。
どう言って納得させようか、僕が思い悩んでいると、ドアがノックされた。入ってきたのは宮司さんの奥さんだった。
「主人が呼んでおりますよ」
予想外の早さに少し驚きつつ、僕は天の助けといち早く立ち上がり、奥さんの後を着いて歩き出した。
「あ、ちょっと、隼人君? それは……って何なの?」
僕から何とか話の先を引き出そうとする由美姉さんと、そんな遣り取りに微笑する伯母さんも後に続いた。
僕達は、裏庭を望む縁側へ連れられてきた。そこから見える風景は、前庭と趣の異なる本格的な枯山水風の庭だった。純白の砂利が地面を覆い、水紋を表現しているのか、模様が描かれていた。それに加え、松や楓といった木々が所々に配されていて、その根元には苔が生していた。
そんな立派な庭の脇で、宮司さんは待っていた。その足下には、全体が錆び付いてしまってはいたが、所々に赤い塗装の残る箱があった。僕はそれに、懐かしさすら覚えた。
「待たせたね」
「いえ、ありがとうございます」
僕はその箱を受け取った。当たり前だが、十二年前に持ったときよりも、軽く感じられた。
伯母さんの家に戻ってきた時には、もう日が暮れていた。それでも、水平線の下から照らす太陽の存在感は大きくて、まだ西の空には明るさが残っていた。
僕は庭に例の箱を置くと、祖父が息絶える直前まで強く握っていたというあの鍵を、伯母さんから受け取った。
鍵を箱の鍵穴に入れようとするが、緊張の為か手が震えてなかなか入ってはくれなかった。それでも、何とか入ってしまうと、後は鍵を横に回すだけだ。緊張の一瞬。
鍵は軽快な音を立てて解かれた。ちょっとした歓声が上がった。
箱の中身は、古いナイロンの袋に入った、便箋が三通だった。それぞれに、宛名が書かれていた。朋子へ。由美へ。そして、どう言う訳か、僕への手紙もあった。
僕は封を開け、手紙を広げた。ペンを急がせたような、お世辞にもきれいな字とは言えない文字で記されていた。
***
隼人へ
まずは謝らせて欲しい。お前には儂の身勝手な秘密を長い間背負わせる事になって、すまなかった。辛かったと思う。しかし、それも今日で終わる。
朋子と由美に宛てた手紙で、秘密を打ち明けて、謝罪した。私は実の娘と孫達に、酷い事をしてきた。だから、許してもらおうなどと思っている訳ではないのだ。
儂がこのような非道な嘘を吐き始めた理由を、お前は聞いてきた事があったな。その時は忘れてしまったと言ったが、それも嘘だ。本当は、一人きりになるのが怖かっただけなのだ。
おそらく、お前は知らないだろう。お前の祖母に当たる儂の妻が他界したのは、隼人が生まれる前の事だったのだから。
ばあさんが死んでから一人になった儂のもとへ、朋子が時々やって来るようになった。実の娘だ。来てくれて、嬉しくない訳が無い。
朋子の旦那は大型船の船乗りで、家を空ける事が多かった。だから、その間だけ、実家であるこの家に戻る事に、それほど障害は無かった。
しかし、あと数年経てば、朋子の旦那は定年を迎え、船から降りるだろう。船乗りの定年というのは、普通の会社勤めの人より早く訪れる。もしそうなれば、朋子は儂の所に来なくなるかもしれない。儂はそれを恐れたのだ。
結局、儂の嘘は始まり、朋子はこの家で寝起きするようになった。儂の介護をする為に。
随分身勝手な理由だと思うだろう。しかし、儂はそれを実際にやってしまった人非人なのだ。
この事に関しては、二人の手紙には書いていない。だからといって、秘密にしろとも言わない。二人に言うか言わないか、隼人、お前が辛くならない方を選んで欲しい。
最後になるが、隼人、お前が来てくれたお陰で、ほんの僅かの間だが、本当の自分が取り戻せそうな気がしている。ありがとう。
おじいちゃんより
***
この手紙は、僕が箱を埋める直前に書かれたものらしい。
祖父は秘密を守ろうと頑だったが、既にあの頃には手紙はしたためられていた。二人に真実を伝える覚悟があったのだ。僕が最後に投げつけた言葉は、ただただ祖父を傷付けただけなのかもしれない。
僕は祖父の寂しさについて考えた。祖父は、歪んだ思いで伯母を縛り付けていた。何もわからない振りをしなければ、誰も残らないと思った。
でも、その行為は同時に、意思の疎通を奪い取り、祖父をより孤独へと追い込んでいった。
あの頃、そんなジレンマをわかってあげられる事ができる誰かがいたとしたら、僕だけだった。いや、わかってあげる事など最初から不可能だったかもしれない。
あれから十二年。僕は、一度もこの地を訪れなかったのだ。
もっと、会いに来てあげるべきだった。そうすれば、いつかはわかってあげられたかもしれない。今、僕はそう後悔していた。
二人も手紙を読み終えていたようで、沈痛な面持ちで手紙を見詰めていた。
僕は伯母さんの方に向き直り、尋ねた。
「やっぱり、おじいちゃんの事怒ってます?」
伯母さんは、若干の鼻声で答えた。
「うううん」
首を横に振った瞬間、伯母さんの目から、ほんの僅かだが涙が溢れ出した。それでも、伯母さんは、気丈に話を続けた。
「これは私の気の所為かもしれないから言わなかったけど、おじいちゃんが亡くなる一日前ね、あんな風になってから初めて見るような、しっかりした目をして、外を見てたの。一瞬、おじいちゃんがボケてることを忘れてしまってね、どうしたの? って訊いたの。そしたら、そのままの目で私をじっと見た。おじいちゃん、何だか済まなそうにしているように見えて驚いちゃったわ」
由美姉さんが、目を潤ませ涙声で言った。
「私、もっとおじいちゃんに、色々してあげれば良かった。それなのに……同じ家に住んでいたのに、何もしてやれなかったよ」
僕は、祖父が手紙で語った話を、すぐには打ち明けない事にした。来年、一周忌の時にまたここを訪れる。その時に、話せたらいい。そう思った。
周囲はもう、夜の帳に包まれようとしていた。東の空には一番星が輝いている。
僕は今、十二年目の夢からようやく目覚めたのだ。この黄昏時に。そう思うと、清々しい気持ちで胸がいっぱいになった。
ふと箱の中に目を遣った。手紙の他に、何か黒い影が転がっていた。つまみ上げてみると、それは蟬の脱け殻だった。
僕はその空蝉を地面に放り投げた。その時、一陣の風が通り抜けて、それはもうどこに行ったかわからなくなった。
空蝉の夏 柚田縁 @EnishiYuda
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