孤部屋の春

八島清聡

孤部屋の春

 



 チュンチュンと可愛らしい鳴き声が聞こえてくる。

 薄らと目を開ければ、真四角の分厚い窓の向こう、薄桃と群青が融け合った清澄な空を二羽の雀がするりと横切ったところだった。

 弥生は、雀に気がつくと歓声を上げ、ぬくぬくとした布団から飛び出した。

 窓に駆け寄ると、ひょいと背伸びして冷たい硝子に両手をついた。外は昨日まで寒風が吹きすさぶ荒れ野だったが、今は地表の全てが真っ白な何かに覆われ、朝日を受けてきらきらと輝いている。純白の地平線は、息を呑むほどに美しかった。

 既に起きていた姉が、窓辺にやってきた。

 弥生は振り返り、窓のすぐ近くにこんもりと積もったものを指さした。

「姉ちゃん、あれは何?」

「……雪よ」

 無表情のまま、静かに姉は言った。彼女はいつも冷静沈着で、何事にも恬淡としている。しかし、決して心が冷たいわけではなかった。

「ゆき?」

「冬になると降るの。とても冷たくて……恐ろしいものよ」

「あんなに綺麗なのに?」

 首を傾げる弥生の肩を抱き、姉は諭すように言った。

「こんなところにいては風邪を引いてしまうわ。着替えてストーブの傍にいて」

「大丈夫だよ」

「だめ」

 にべもなく言い切った姉に従い、弥生はしぶしぶ炎が燃える薪ストーブの前へ行った。

 毛糸のパジャマを脱ぎ、シャツとズボンと靴下を履いた。服は少しきつくなっていた。

 「……兄さんはまだかしら」

 着替えを手伝いながら姉がぽつりと呟き、部屋の唯一の出入り口である扉を見た。

 ここ数日、二人は街へ出かけた兄の帰りを待っていた。

 兄は一家の大黒柱である。彼が帰って来る前に台所の食料が尽きれば、姉妹は飢えてしまう。それが姉は心配なようだった。

 弥生も不安そうに尋ねた。

「兄ちゃん、いつ帰ってくる?」

「さあ? きっと街のお仕事が忙しいのよ」

 姉はすくっと立ち上がり、ヤカンに水を汲むとストーブの上に置いた。ヤカンはやがてシュンシュンと湯気を吹き始めた。

 

 数時間後――。

 突然に、小屋の扉が大きな音をたてて開いた。待ち焦がれていた兄が帰ってきたのだ。姉と弥生は入ってきた影に同時に声を上げた。

「兄さん」

「兄ちゃん!」

 大柄な兄は上から下まですっぽりと防寒具に包まれ、両手に大きな荷物を抱えていた。

 荷物の次に、燃料である薪の束も運び込んだ。

 嬉しいあまり弥生が飛びつくと、兄はマスクを外し、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「弥生、ただいま」

 彼は弥生を抱き上げ、何度もたかいたかいをした。姉は兄が持ち帰った荷物から、食料品を取り出した。カチカチに凍ったパンをストーブの傍に置いて溶かし、手早く野菜や肉を煮込んでスープを作った。

 三人で食事を終えると、兄は町で手に入れた新品の上着を出して弥生に着せた。

 上着はぶかぶかで、袖も丈も余ってしまった。姉はそれに気づくと呆れたように息をついた。

「兄さん、弥生の服のサイズ間違えたのね」

「まぁ、問題ないさ。すぐに大きくなる」

「そうね……」

 兄の快活な返答に、何故か姉はしんみりと相槌を打った。

 弥生が余った袖口を捲り上げ、ぴょんぴょんと跳ねながら言った。

「兄ちゃん、弥生もお外に出たい」

 しかし、兄は即座にかぶりを振った。

「だめだ。外に出たらあっという間に凍えてしまう。今は部屋の中にいなくちゃ」

「雪に触ってみたいの。あれで遊びたい」

「……」

 それを聞いた兄と姉は顔を見合わせ、困ったように笑った。

 

 翌日、兄はまた仕事へ出かけていき、再び姉と二人きりの生活に戻った。

 小屋での生活はすこぶる単調だった。相変わらず外に出ることは許されなかった。

 兄が持ち帰ってきたもの、姉との会話、窓から見える眩い銀世界、それが弥生の世界の全てだった。暇さえあれば外を眺め、兄が帰ってくるのを待った。

 冬はどんどんと厳しさを増し、連日雪が振った。鳥や獣たちもとんと姿を見せなくなり、空は分厚い雲に覆われて昼間でも薄暗い日々が続いた。

 やがて猛吹雪になった。ひっきりなしに降り注ぐ氷の粒が、バシンバシンと屋根を打ち、あまりの騒々しさに夜も眠れないくらいだった。弥生は自然の猛威に怯え、姉は布団の中で黙って彼女を抱きしめた。

 姉は姉で、密かに困っていた。

 氷点下の寒さからこれまで以上に薪が必要なことに加え、弥生が以前よりもよく食べるようになったからである。やがて姉は、自分の食べ物も妹に与えるようになった。ひもじい思いもしたが、決して表には出さなかった。

 

 一週間後、また兄が帰ってきた。

 いつものように沢山の食料と燃料を抱えていたが、何があったのかひどく衰弱していた。

 黒々とした髪は真っ白になり、身体は痩せこけて骨と皮ばかりになっていた。声はひどくしゃがれていた。兄は布団に倒れ伏すと、そのまま寝ついてしまった。

 弥生は、兄の皺を刻んだ土気色の顔に驚いた。

 それはまるで何十年も生きた老人のようで、外の世界の過酷さを物語っていた。

 兄の病気は一気に悪化した。彼はろくに言葉を発せないまま、二日後に息を引き取った。

 突然の兄の死に弥生は打ちひしがれた。力尽きた身体に取り縋って、ひたすらに泣いた。

 姉はただ、悲しそうに兄の遺骸を見つめるばかりだった。

 姉妹の置かれた状況は逼迫した。

 兄がいなくなってしまったので、今度は姉が外に出なくてはならなかった。街へ行って働かなければ、食料や薪が手に入らないからである。

 弥生は留守番するのを嫌がった。何度も「自分も街へ連れて行って欲しい」と懇願した。が、姉は決して首を縦に振らなかった。華奢な体に外套やマフラーを巻きつけ、弥生を置いて真っ白な外界に旅立っていった。

 残された弥生は、寂しくて寂しくて胸が潰れそうだったが、「外へ出てはいけない」という姉の言いつけを守った。朝から晩まで窓辺に座り込み、しんしんと雪が降る野っ原を眺めた。一人ぼっちの、静かな世界だった。雪が音を呑み込んでいった。

 数日後、姉が帰ってきた。

 姉は兄とは違い、食料や衣類だけでなく、子供向けの絵本やぬいぐるみも持ち帰ってきた。自分の留守中に、弥生が退屈しないようにとの思いやりだった。

 弥生は喜び、姉の膝の上に腰かけると繰り返し絵本を読んだ。絵本には、冬の街に暮らす子供たちの楽しい生活が描かれていた。弥生は挿絵を見て、ものと娯楽にあふれた街での生活を羨んだ。

 翌日、姉は再び外へ行ってしまい、数日経って帰ってくるという日々を繰り返した。

 そうして彼女もまた兄と同じく過酷な仕事に疲れ、徐々に弱っていった。悲しくも、定められた運命だった。

 

 とうとう、お別れの日がやってきた。

 死の床について起き上がれなくなった姉に縋り、弥生は懸命に訴えた。 

「姉ちゃん、お願い。私を一人にしないで」

 妹の懇願に、姉は何度も苦しそうに息を吐いた。震える手を伸ばし、弥生の頭を優しく撫でた。

「……泣かないで」

 弥生は真っ赤に泣き腫らした目を擦り、数え切れないほど読んだ絵本を開いて見せた。

 その頁には、雪だるまを作ったり、雪合戦をして遊ぶ子供たちが描かれていた。

「ねえ、元気になってよ。お外へ行こう。私もこうやって雪で遊びたい」

「……弥生、もうすぐよ。もうすぐだから。私が過ぎ去ったら、あなたはここを出ることができる。外の世界へ行ける……」

 弥生は姉の言うことが理解できなかった。癇癪を起こし、大きく首を振って叫んだ。

「嫌だ、姉ちゃんと遊びたい」

 姉は、自分を死に至らしめる、おおらかで、素直で、優しいものをぼんやりと見上げた。

 それは確かにものであったし、事象であったし、決まりごとであり、概念でもあった。

 ここ一ケ月ほどで弥生はさらに成長し、以前兄が買ってきたぶかぶかの上着も今では窮屈になっていた。

 姉はパチパチと何度も瞬きし、儚げに微笑んだ。

「大丈夫、また巡り巡って会える。その頃には、私も弥生も『別の意識』で何も覚えていない。でも魂は同じだから……」

 そう言うと、姉はゆっくりと目を閉じた。

 握った手は氷のように冷たくなり、枯れ木のように朽ちてしまった。他の兄弟よりも短い生涯だった。弥生は姉であったものに取り縋り、わんわんと声をあげて泣いた。

 

 そして、弥生は本当に一人ぼっちになってしまった。

 深い悲しみに沈み、ただっ広い部屋に蹲って啜り泣いた。

 ……どれほど時間が経ったのだろうか。

 空腹を覚えてふと顔を上げれば、窓から一条のか細い光が差し込んでいる。

 引き寄せられるように窓辺に寄れば、天を覆っていた灰色の雲はすっかり失せ、胸が透くような青い空が開けていた。

 弥生は立ち上がり、外の雪をじっと見つめた。

 今なら、これに触れられるような気がした。

 姉が最後に持ち帰ってきた新品の長靴を履くと扉を開け、ふらふらと外へ出て行った。

 外は太陽の光が満ち満ちて、思っていたよりもずっと暖かかった。

 弥生はしゃがみ込み、降り積もった雪に両手を伸ばした。雪は、外界への憧れそのものだった。

 ところが触れる寸前で、雪はふわりと溶け、あっという間に透明な水になってしまった。

 溶けた雪の下から濡れた黒土が露出し、そこからは緑の新芽が幾つも吹き出していた。

 弥生は驚いた。どうして雪に触れることができないのか。

 慌てて他の雪にも手を伸ばしたが、何度やっても同じだった。彼女の手は暖かな花信風かしんふうの如く、氷の結晶を瞬時に溶かしてしまうのだった。それが、生まれ持った使命とでもいうように。

 弥生は呆然とし、今まで自分が暮らしていた家を振り返った。そして再び目を見開いた。

 いつ生まれたのか、小さな男の子が窓にぺたりと張り付いて一心に自分を見つめているではないか。幼い弟のくりくりとした目が、本能のままに姉の庇護を待ち望んでいた。

 ああ、と弥生は小さく呻いた。そこで彼女はやっと気づいた。

 自分を世界に送り出して去った兄と姉の意思、何万回と巡っては消えゆく自らの運命を悟った。春の目覚めである。       

                                   【了】  

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